絵画にみる富士山
富士山ほど数多の画家に描かれた山はありません。なかでも有名なのが、葛飾北斎と歌川広重です。「冨嶽三十六景」で知られる北斎は、富士山と人との関わりを豊かな想像力と見事な構図で表現。「三十六景」と銘打ちながらそれだけでは満足せず、「裏不二」十図を加えた計四十六点を世に送り出しました。対する広重は「東海道五拾三次」「名所江戸百景」で、様々な場所から見える富士山を描いています。
絵画に描かれた最古の富士は「聖徳太子絵伝」(平安時代)といわれ、甲斐の国、今の山梨県から贈られた名馬に乗った聖徳太子が、たちまち富士山の頂上まで上っていく様が描かれています。平安時代から鎌倉時代にすでに富士山の形は「三峰型、万年雪」という定型が立していました。
近代で最も富士山を描いた横山大観は、独特の技法と構成で「群青富士」「日出処日本」など多くの富士を残しています。ほかにも江戸時代の司馬江漢、明治以降も月岡芳年、日本画の松岡映丘や洋画の梅原龍三郎など、数えればキリがないほど多くの画家により、富士山は描かれ続けているのです。
ヨーロッパにおける富士山
ヨーロッパで広く知られる北斎の「冨嶽三十六景」。後に北斎の評伝を刊行した作家のエドモン・ド・ゴンクールは、友人と北斎の版画連作を眺めながら「モネの色彩表現のもとはすべてここにある」と語り合ったといいます。そうです、モネは熱烈な浮世絵の愛好家だったのです。
ゴッホは、自ら収集するだけでなく浮世絵の展覧会まで企画しました。それまで暗い色調の絵を描いていた彼は、1886 年にパリに来て、印象派の画家たちとの交流や浮世絵と出会いの後、あの鮮烈な色彩表現へと移行していったのです。
音楽家のドビュッシーが交響詩「海」を作曲しているとき、「神奈川沖浪裏」の複製を部屋にかけて眺めていたこともわかっています。事実、後に出版された「海」の初版楽譜の表紙には、その「浪裏」が描かれています。
「冨嶽三十六景」が、富士山を主題とした連作であることもヨーロッパの画家たちにとっては新鮮な発見でした。これに刺激された版画家のアンリ・リヴィエールは、版画連作「エッフェル塔三十六景」を残しました。
初代英国公使のオールコックは日本滞在中富士山に登り、著書「大君の都」(1863)で挿絵と共に紹介しています。