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富士山 ― 芸術と文化の山

イントロダクション

富士山は、日本のほぼ中央にそびえる大変美しい山。古くから日本人にとって心のふるさとであり、精神の源泉、文化の母胎でありました。絵画、文学、詩歌、あるいは演劇の舞台となり、現在に至るまで数多くの芸術作品を生み出しています。その歴史は、日本文化の歴史そのものであり、日本人のみならず、海外の芸術家たちにも影響を与えてきました。

また富士山は、神のいます場所――信仰の対象でもあります。元来日本人は、自然の中に人知を超えた崇高なものを見出す感覚を持っています。なかでも富士山は、日本人の心に強く訴えかけ、その生活に深く根づいています。

人間の創り出す“文化”は、多くの人々の記憶となり、次世代に受け継がれ、蓄積され形づくられるものです。日本の文化・芸術に、富士山がいかに大きな影響を与えたのか、ここでは多くの素晴らしい芸術作品を通して紹介していきます。富士山が「世界文化遺産」にふさわしい存在であることを、多くの方々にご理解いただければ、大変うれしく思います。

高階秀爾 Shuji Takashina

大原美術館館長/東京大学名誉教授

1932 年東京生まれ。東京大学教養学部卒、次いでパリ大学美術研究所に学ぶ。専門は西洋近代美術史。2000年紫綬褒章、2001年フランス、レジオン・ドヌール シュヴァリエ勲章、2003年イタリア、グランデ・ウフィチャーレ勲章、2012年文化勲章など多数受賞。『世紀末芸術』、『日本近代美術史論』、『近代絵画史−ゴヤからモンドリアンまで』、『西欧絵画の近代』、『日本絵画の近代』など多数の著書がある

絵画にみる富士山

富士山ほど数多の画家に描かれた山はありません。なかでも有名なのが、葛飾北斎と歌川広重です。「冨嶽三十六景」で知られる北斎は、富士山と人との関わりを豊かな想像力と見事な構図で表現。「三十六景」と銘打ちながらそれだけでは満足せず、「裏不二」十図を加えた計四十六点を世に送り出しました。対する広重は「東海道五拾三次」「名所江戸百景」で、様々な場所から見える富士山を描いています。

絵画に描かれた最古の富士は「聖徳太子絵伝」(平安時代)といわれ、甲斐の国、今の山梨県から贈られた名馬に乗った聖徳太子が、たちまち富士山の頂上まで上っていく様が描かれています。平安時代から鎌倉時代にすでに富士山の形は「三峰型、万年雪」という定型が立していました。

近代で最も富士山を描いた横山大観は、独特の技法と構成で「群青富士」「日出処日本」など多くの富士を残しています。ほかにも江戸時代の司馬江漢、明治以降も月岡芳年、日本画の松岡映丘や洋画の梅原龍三郎など、数えればキリがないほど多くの画家により、富士山は描かれ続けているのです。

ヨーロッパにおける富士山

ヨーロッパで広く知られる北斎の「冨嶽三十六景」。後に北斎の評伝を刊行した作家のエドモン・ド・ゴンクールは、友人と北斎の版画連作を眺めながら「モネの色彩表現のもとはすべてここにある」と語り合ったといいます。そうです、モネは熱烈な浮世絵の愛好家だったのです。
ゴッホは、自ら収集するだけでなく浮世絵の展覧会まで企画しました。それまで暗い色調の絵を描いていた彼は、1886 年にパリに来て、印象派の画家たちとの交流や浮世絵と出会いの後、あの鮮烈な色彩表現へと移行していったのです。
音楽家のドビュッシーが交響詩「海」を作曲しているとき、「神奈川沖浪裏」の複製を部屋にかけて眺めていたこともわかっています。事実、後に出版された「海」の初版楽譜の表紙には、その「浪裏」が描かれています。
「冨嶽三十六景」が、富士山を主題とした連作であることもヨーロッパの画家たちにとっては新鮮な発見でした。これに刺激された版画家のアンリ・リヴィエールは、版画連作「エッフェル塔三十六景」を残しました。
初代英国公使のオールコックは日本滞在中富士山に登り、著書「大君の都」(1863)で挿絵と共に紹介しています。

文学の中の富士山

日本で最も古い歌集「万葉集」に、すでに富士山は描かれています。山部赤人が詠んだ「田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ富士の高嶺に雪は降りける」は、富士を讃える長歌に対する反歌――最後のまとめとして詠まれたもの。

長歌では、天地の始まりから富士がそびえていたことを歌い上げています。物語のはじまりといわれる「竹取物語」の最後のシーン。かぐや姫は月に戻る際、帝に不老不死の薬を残しました。しかし帝は日本一高い山の上でその薬を焼かせ、その山は「不死(=富士)」の山になったといわれています。

ほかに古典の名作である「源氏物語」「伊勢物語」、江戸期の松尾芭蕉や与謝蕪村の俳句、近代の夏目漱石や太宰治なども、様々な姿の富士山を伝えています。

信仰の対象としての富士山

富士山に登り参詣する動きは、早くからありました。室町時代に描かれた「絹本著色富士曼荼羅図」は、日月の中央に富士山がそびえ、登山道の下には浅間神社、さらにその下には禊のための川が流れています。江戸期の「富士曼荼羅」には、頂上の3 つの峰に阿弥陀三尊が存在しています。富士山頂上には、「古事記」に出てくる木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)も祭られており、まさに神仏混合。日本人の宗教観は非常に寛容で、排他的ではないのです。

西洋では、アルプスに「悪魔の橋」と呼ばれる峠があるように、山には恐ろしいイメージがあります。一方、日本では「菩薩峠」とか「毘沙門岳」というように、仏の名前がついている。日本人にとって山は神や仏のいる場所であり、ここにも自然を敬う日本人の信仰の特色が現れています。

生活と密着した富士山

江戸、現在の東京と富士山は深い結びつきを持っています。江戸に最初に城と街を築いた太田道灌は自らの住まいから富士山を間近に眺めた歌を詠み、徳川家康も江戸城の西側に富士見櫓を造りました。東京には今でも、富士見坂や富士見町といった地名が多く残っています。広重の「名所江戸百景」に描かれた駿河町は、通りがまっすぐに富士山に向かうよう作られました。そこから駿河、今の静岡県の名前がつけられたのです。

日常の道具に描かれた富士山から、当時の庶民の暮らしぶりを知ることができます。「初富士」は、正月三日に日本橋から富士山を眺める慣わし。そこから縁起のよい初夢として「一富士、二鷹、三なすび」の言伝えが広がりました。これなどは、日本人がいかに富士山を愛しているかを端的に表しています。

衣装に描かれた富士山

打掛けなど衣装の模様に富士山が描かれることも、江戸期には多くありました。日常の華やかな衣装のほか、面白いのは具足――鎧や甲冑、陣羽織、刀の鞘やつばといった、武士の戦闘用具にも富士山が描かれているところです。南蛮胴で作られた具足には、背中に大きく富士の山。武将たちは、「富士」を「不死=死なない」にかけたのでしょう。

豊臣秀吉が愛用したと伝えられる黒黄羅紗(くろきのらしゃ)の陣羽織。三峰型の富士の頂上で御神火が燃えています。戦のとき着る陣羽織ですから、富士のご加護があるよう願いがこめられている。下のほうには水玉模様。この山・火・水の三要素を対比させた大変モダンなデザインも、日本人の信仰と自然に対する鋭敏な感覚の現れといえるでしょう。

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