令和な時代になり、天皇誕生日になり、新しい祝日を祝う。
そして富士山の日を祝う。
毎朝、雨が降っていない限り、海岸で富士山に手を合わせる。
富士山が見えなくても、その方向に手を合わせて祈る。
祈る内容は変わらない。家族の健康だったり、無病息災、世界の平和だったり、まあそんなところだ。そして祝日になったお陰で、少し朝時間に余裕ができたこともあって、散歩にプラスすることの迷走、いや瞑想が加わった。
瞑想と言っても大げさなものでない。散歩の後、部屋でゆっくりと目をつぶり、お香を焚いて、目を閉じ、無をイメージする。しかし無になろうとすればするほど、無から遠ざかる。今抱えている仕事や、締め切り、アイデアが浮かんでは消え、無であることを拒絶する。
まあ瞑想と言ってもそんな程度なのだろう。
それでも富士山を眺めていると無が少しだけ近づいている気持ちになれる。
そこにある安心か、それとも不動な富士が与えてくれる静かな気持ちかもしれない。
そして天皇陛下、誕生日おめでとうございます。
と唱えるだけで感じられる清々しさがある。
上手く言えないが、肉親や友人、最愛の人への誕生を祝う「誕生日おめでとうございます」とは別な気持ちが湧くのである。
今年も謹んで、「誕生日おめでとうございます」と富士山と天皇陛下に手を合わせる。
撮影 本人
皇居勤労奉仕に参加した友人からのお裾分け
菊のご紋のチョコレート(富士山がしっかりと)