写真:人穴は富士山の西麓、静岡県富士宮市にある。
角行は人穴で亡くなったとされ、人穴は富士講の「浄土」とされた。
皆の祈願を託す「講」の仕組みが出来上がる。
この仕組みが富士山信仰のための講、すなわち富士講となっていった。
その富士講の開祖が藤原(長谷川)角行とされる。
その際、追手の軍勢から逃れたのが富士の人穴であり、
その家康を匿った人物こそが角行だったというものだ。もちろん史実ではないが、
その逸話に何かしら信憑性を持たせる力がこの角行にはあるように思えてならない。
しかし近年、源頼朝が征夷大将軍になる以前から幕府が機能していたことが判明し、
現在の教科書のほとんどは源頼朝が朝廷から全国統治を許された
1185年が鎌倉幕府成立の年となっているので「いい国作ろう鎌倉幕府」ではないそうだ。
年号はともあれ武家政治のトップに上り詰めた源頼朝は、
建久4年の5月、富士の裾野で大規模な巻狩り(まきがり)を行っている。
巻狩りとは?単に獲物を狩るような狩猟でなく、
山をまるごと一つ使って行う派手な軍事イベントの意味合いが強かったらしい。
狩る場所も広大だ。現在の静岡県御殿場市や裾野市に始まり、
西側の朝霧高原(現在の静岡県富士宮市)まで及ぶほど大規模であったことが
吾妻鏡に記録として残っている。
御殿場市の東岳院(〒412-0002 静岡県御殿場市上小林867)に
この巻狩りの様子を描いた絵が納められている。
聖徳太子はこの時代を代表するヒーローなので数々のモチーフとして登場するのは当然だが、
富士山も負けてはいない。
富士山は時代を超えて描き続けられてきたやはり日本を代表する不滅のモチーフなのである。
しかしこの人ほど伝説の多い偉人も珍しい。空海(弘法大師)である。
田村麻呂については数々の伝承が残るが、その中でも京都清水寺の創建と、
806年(大同元年)に平城天皇の命により現在の大宮の地に、
富士山本宮浅間大社の壮大な社殿を建立したのは特に有名。
田村麻呂が活躍した平安時代の初期、
富士山が大噴火した最初の記録(延暦の噴火)が残っている。
田村麻呂もこの噴火を見たのだろうか?
全国に1300余りある浅間神社の総本宮と称えられている富士山本宮浅間大社。
社殿横手にある湧玉池 (特別天然記念物) は、
かつて富士山信仰の信者たちが登山の前に身を清めた神聖な池。
田村麻呂もこの池に自分の姿を映したのだろうか?
歴史への興味は尽きない。
言わずと知れた現存最古の和歌集『万葉集』。
富士山ファンならずとも古代史通にはぜひ一読をお勧めしたい。
聖徳太子が馬に乗り、富士山を登る伝説が残る。
参照 | 「富士山の文学」 (文春新書) |