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富士山プチヒストリア ~富士山と関わった人物録 vol.11

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写真:人穴は富士山の西麓、静岡県富士宮市にある。
角行は人穴で亡くなったとされ、人穴は富士講の「浄土」とされた。
 
江戸時代に「江戸八百八町、八百八講」といわれたほど盛んになった富士講。
霊峰富士山への信仰が広がるにつれて、お金を集め代表を選び
皆の祈願を託す「講」の仕組みが出来上がる。
この仕組みが富士山信仰のための講、すなわち富士講となっていった。
 
富士講の活動を簡単に定義すると 富士山を拝むことと 富士山に登る(富士詣)ことになる。
その富士講の開祖が藤原(長谷川)角行とされる。
その思想は救世済民にあり、角行は荒行の末法力を得、祈祷の力を習得したと言われている。
 
その角行と徳川家康との逸話も残る。
家康は甲州に攻め入るが、逆に攻められて逃げ帰る。
その際、追手の軍勢から逃れたのが富士の人穴であり、
その家康を匿った人物こそが角行だったというものだ。もちろん史実ではないが、
その逸話に何かしら信憑性を持たせる力がこの角行にはあるように思えてならない。

富士山プチヒストリア ~富士山と関わった人物録 vol.10

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写真:岐阜駅前にある黄金の信長像(この写真が撮りたくて岐阜駅で途中下車しました)
 
1582年(天正10年)武田家を滅亡させた信長は、4月10日から12日間かけて安土に凱旋する。
甲府を出発した織田信長は翌日、本栖湖周辺に宿泊。
そして12日に本栖を出発した信長は、白糸の滝を見物し、念願だった富士山を眺めたとある。
武田を滅亡させたことで実質の天下不武(統一)をほぼ手中に収めた。
日本一の山富士と日本を統一する自分の姿を重ねていたに違いない。
 
信長が好んで舞ったと伝えられる能に『敦盛』がある。
人間五十年、下天のうちを比ぶれば夢幻の如くなり。  
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか。
 
その50を待たず 2カ月後の6月2日 本能寺に倒れた信長にとって
この富士山観光は激動の人生おいてひと時の安らぎだったかもしれない。
 
参照:『信長公記』

富士山プチヒストリア ~富士山と関わった人物録 vol.9

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武田信虎像
 
さて 今回紹介するミスターヒストリアはこのお方、
甲斐の国の戦国武将、武田信玄の父である武田信虎(1494‐1574/第18代当主)である。

信虎は1522年に富士山へ参拝したことの記録が『勝山記』(かつやまき)に載っている。
その記述によれば「富士への道者参ること限りなし」とあるので、
既に登拝する人が大勢いる様子もうかがえる。
実は父信虎は息子の信玄より1年長生きしている。
もしかしたら霊峰富士のパワーを存分に浴びたおかげかもしれない。
 
参照 『勝山記』(山梨県指定有形文化財)
河口湖地方の年代記で、冨士御室浅間神社所蔵のものが代表的。
戦国時代の甲斐を中心とした諸国の歴史を知るためには貴重な資料である。
「勝山記」は師安(私年号、564年、欽明25年)~永録2年(1559年)まで、
約1000年に渡る歴史が記載されている。

富士山プチヒストリア ~富士山と関わった人物録 vol.8

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写真:流鏑馬像(富士山本宮浅間大社)
富士山本宮浅間大社の流鏑馬祭は、源頼朝が巻狩りに富士山麓を訪れた際、
流鏑馬を奉納して、武運長久・天下太平を祈願したことが起源とされている。(撮影:鈴木重美)
 
源頼朝は平氏を壇ノ浦で滅亡させ、その後奥州藤原氏も滅ぼした建久3年(1192)、
念願の征夷大将軍に補任(ぶにん)され鎌倉幕府を開く。
いわゆる「いい国作ろう鎌倉幕府」である。

しかし近年、源頼朝が征夷大将軍になる以前から幕府が機能していたことが判明し、
現在の教科書のほとんどは源頼朝が朝廷から全国統治を許された
1185年が鎌倉幕府成立の年となっているので「いい国作ろう鎌倉幕府」ではないそうだ。

年号はともあれ武家政治のトップに上り詰めた源頼朝は、
建久4年の5月、富士の裾野で大規模な巻狩り(まきがり)を行っている。
巻狩りとは?単に獲物を狩るような狩猟でなく、
山をまるごと一つ使って行う派手な軍事イベントの意味合いが強かったらしい。

狩る場所も広大だ。現在の静岡県御殿場市や裾野市に始まり、
西側の朝霧高原(現在の静岡県富士宮市)まで及ぶほど大規模であったことが
吾妻鏡に記録として残っている。

御殿場市の東岳院(〒412-0002 静岡県御殿場市上小林867)に
この巻狩りの様子を描いた絵が納められている。

 
参考文献:『吾妻鏡』

富士山プチヒストリア ~富士山と関わった人物録 vol.7

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秦致貞「聖徳太子絵伝 黒駒太子」
 
「聖徳太子絵伝」は平安時代に描かれた。もとは法隆寺東院の絵殿を飾っていた障子絵という。
全国に現存する聖徳太子絵伝の中では、本絵伝が最古で最大のものである。
太子の生涯の60近い事蹟を選び、それぞれに、銘文を記した色紙形が貼ってある。
 
574年に生まれ622年まで活躍したとされる聖徳太子。
その生涯を絵画化した法隆寺の聖徳太子絵伝は、
1069(延久元)年に絵師の秦致貞(はたのちてい)によって描かれた大画面説話画で、
国宝に指定されている。
 
肝心の富士山が登場するのは、甲斐国から献じられた四脚の白い黒駒に太子が乗り、
空に駆け上がるシーンとして描かれている。

聖徳太子はこの時代を代表するヒーローなので数々のモチーフとして登場するのは当然だが、
富士山も負けてはいない。
富士山は時代を超えて描き続けられてきたやはり日本を代表する不滅のモチーフなのである。

富士山プチヒストリア ~富士山と関わった人物録 vol.6

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写真:大阪・金剛寺蔵
 
歴史に名を残す偉大な人には何かしら伝説がある。
源義経が中国へ渡り成吉思汗になった。信長は本能寺では死んでいなかった。
そんな伝説に出会うのも歴史の楽しさのひとつだと思う。

しかしこの人ほど伝説の多い偉人も珍しい。空海(弘法大師)である。

空海の行くところ行くところ伝説がついてまわり、全国津々浦々に空海伝説がある。
特に多いのが温泉伝説。「弘法の湯」はそれこそ日本中にあり、
その数約100をも越えるといわれている。
さすがに空海と言えども全部が本当とは思えないが、
旅に出るのはそんな伝説がきかっけということもあり、そんな脚色されたものもまた楽しい。

また、こんな伝説も残る。
807年、 空海 は富士山に甲州側より登り、石仏を勧進したという。
(坂上田村麻呂も一緒という説もある)
1984年公開の映画「空海」では、北大路欣也演じる空海が
富士山爆発で自然災害に会うという設定になっていたのを思い出した。

富士山プチヒストリア ~富士山と関わった人物録 vol.5

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今から1200年ほど前の平安時代初期の武将 坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)。
征夷大将軍として蝦夷(えみし / 現在の東北地方)を討伐した人物として知られている。

田村麻呂については数々の伝承が残るが、その中でも京都清水寺の創建と、
806年(大同元年)に平城天皇の命により現在の大宮の地に、
富士山本宮浅間大社の壮大な社殿を建立したのは特に有名。

田村麻呂が活躍した平安時代の初期、
富士山が大噴火した最初の記録(延暦の噴火)が残っている。
田村麻呂もこの噴火を見たのだろうか?
全国に1300余りある浅間神社の総本宮と称えられている富士山本宮浅間大社。
社殿横手にある湧玉池 (特別天然記念物) は、
かつて富士山信仰の信者たちが登山の前に身を清めた神聖な池。

田村麻呂もこの池に自分の姿を映したのだろうか?
歴史への興味は尽きない。

 
参照 「日本書紀」

富士山プチヒストリア ~富士山と関わった人物録 vol.4

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新版 万葉集 一 現代語訳付き
価格980円
2009年刊角川ソフィア文庫

言わずと知れた現存最古の和歌集『万葉集』。

現存の形に近いものに最後にまとめたのは大伴家持、成立は奈良時代の末頃とされる。
その最古の歌集万葉集には富士山を詠む歌が11首ある。
つまり古(いにしえ)の時代から富士山は歌で詠まれるような憧れの存在であった証だろう。
その中で宮廷歌人山部赤人が歌った代表作がこちらだ。
 
天地の分れし時ゆ
神さびて 高く貴き 駿河なる 富士の高嶺を
天の原 振り放け見れば
渡る日の 影も隠らひ 照る月の 光も見えず
白雲も い行きはばかり
時じくそ 雪は降りける 語り継ぎ
言ひ継ぎ行かむ 富士の高嶺は
 
富士山の雄大さ。神代より言い伝えられてきたこの神々の居ます聖なる山を、
我々もまた後世へと語り継いでゆこう。と歌っている。

その山部赤人の想いはしっかり現代を生きる私たちに引き継がれている。
万葉集と言うと敷居が高く、難解なイメージがあるが、
現代訳付きのものもあり、実はとてもとっつき易い。
ぜひ一読をお勧めしたい。

富士山プチヒストリア ~富士山と関わった人物録 vol.3

役小角(えんのおづの、えんのおづぬ など)に関する記録の中で、
正史と呼べるものは平安時代初期の史書「続日本紀」の一つだけ。
ほとんどのことが伝説の中にある役小角は日本史上、
最も奇妙で神秘的な人物の一人に挙げられる。

縛につき、伊豆に流された役小角は
夜な夜な空を飛び駿河国の富士山に登って修行を重ねたという伝説がある。
もちろん今の時代なら「そんな、人が空を飛ぶなんて」と笑い飛ばす話も、
怨霊を恐れる古代日本のことである。
おそらく多くの人たちがこの修業の話を信じ、
役小角を山岳修行者として、相当な影響を受けたのではないだろうか?
 
図案は以前読んだ黒岩重吾の作品。役小角を題材にしたフィクションだが、
物語に引き込まれるうちにこの修行者がとてもリアルになってくる。

富士山ファンならずとも古代史通にはぜひ一読をお勧めしたい。


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役小角仙道剣(新潮文庫)
黒岩 重吾【著】

富士山プチヒストリア ~富士山と関わった人物録 vol.2

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図案:絹本著色富士曼荼羅図 重要文化財 縦186.6cm、横118.2cm 富士山本宮浅間大社所蔵

聖徳太子が馬に乗り、富士山を登る伝説が残る。


そんな富士登山の先駆、聖徳太子騎馬像が安置されている如来寺(富士吉田市新倉)から、
江戸時代に太子堂があったとされる8合目の山小屋「太子館」まで登る「聖徳太子像富士登山」が
2009年に始まり、昨2013年4回目を迎えた。
 
平安時代の歴史書『聖徳太子伝暦』によれば25歳の聖徳太子は良馬を求めて全国にお触れを出した。
太子が“神馬”とした馬は甲斐の国(山梨県)から献上された黒々とした馬だった。
太子が馬の轡(くつわ)を太子がつかむと、たちまち馬は天高く飛び上がり、
そのまま空を飛んで、黒駒にまたがった太子は富士山の上空を周遊しながら信濃国へ至り、
3日をかけて都へ帰ってきたという。
 
参照 「富士山の文学」 (文春新書)

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