−目の前で書いていただいて感動です。”田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける”。これは百人一首でも有名な山部赤人の歌ですね。
ええ。富士山の歌では、これが一番わかりやすいかな、と思って。
−富士山の歌を書くことは多いんですか。
書くことはあります。僕は『古今集』とか『新古今集』の古歌の中から、ちょっと男らしい、自然を詠ったような歌を選んで書くことが多いんですが、"ふじ"にはいろんな表記があるんですよ、不尽、不二、富士・・。文字の選び方には、それぞれ意図があるんでしょうけどね。
−渡辺さんご自身はどう書くのがしっくりしますか。
僕はやっぱりひらがなで"ふじ"と書くが多いですね。前後の文字との組み合わせもあるけれど、富士や不二は対象形で僕としてはとても書きにくい(苦笑)。その点、"ふじ"は左右がずれていますからね。自分のリズムで書いていると"じ"の点々が離れていったりするし・・。できるだけバランスを取らないように書いています。書は空間美で、日本人はアシンメトリーの美意識ですから。
−書家を志したきっかけは? ご両親が書家だったことがやはり大きいですか。
いや。5、6歳からずっと書道をやらされていましたけど、そんなに好きではなかったですね。だからサラリーマンになるつもりで、大学を卒業して就職もしたんですが、同じ時間に毎日会社に通うとか、誰かに言われて動くのが苦手で(苦笑)。"長いものに巻かれなさい"と言われても"いや、無理です"と。それで2年でやめました。友達には"そもそも勤めたこと自体が間違いだ"と言われましたけどね。やめるにあたって、じゃあ何になるか、と考えた時に書しかなかったということですね。脱サラというか逃サラでこの仕事に入ったので、選んだわけではないんです。海外へ日本の文化を紹介するような仕事がしたいという思いもありましたから、父のもとで学びつつ、よその先生を師匠と仰いで丸9年間修行しました。
−どんな修行をされたのでしょう。
普通は手本があってそれをもとに練習するわけですけど、最初から手本もなしに「これを書いて来なさい」と師匠に言われて・・。何をどうしていいか全然わからなくて大変でした。たまに参考になりそうな本を渡してくれたりはするんですけど、それをそのままお手本にして書くわけにはいかない。全部消化しなきゃいけないわけです。次に先生のところに伺うまでの1週間、とにかく書いて書いて・・。それで持っていくんですが「だめだ!」の一言で終わり(苦笑)。お弟子さんの中で僕だけとくに若くて、ほぼ初心者だったこともあってよくしていただいたし、師匠としては"まっさらのものだからなんとかなるだろう"と思って鍛えてくださったみたいですけどね。あとからそれを聞いて、とてもいい加減にはできないなあと思って一生懸命やりました。生活もかかっていますから、当時は必死でしたね。
−仮名を選んだのは?
それは、父がやっていたから、ということが大きいですね。やっているうちに、お公家さんがいた関西には仮名の男の先生がいらっしゃるけれど、江戸幕府があり武士が多かった関東には仮名の男の先生は少ないことに気づいて、希少価値はあるなあ、と思いましたね。
−1枚の作品を仕上げるのに、どれくらいかかるものですか。
出品作だと1ヶ月くらいですね。草稿を1枚作ってはいろいろ考え、また次の草稿を作って・・とどんどん突き詰めていきます。作るのが好きなので、1日中書いていても飽きることはないですね。1回で書けるからいいね、とよく言われますけど、出品作を仕上げるまでに何百枚と書いています。
−1枚の紙に書けるのは1回だけ。毎回緊張しそうですね。
集中力は必要ですね。僕は弓道をやっていたから、相当集中力はあるほうだと思います。でも、集中するだけだとちょっと(書が)硬いんですよ。最近、集中している自分を俯瞰して、コントロールできるようになってきて、それで書が少し変わったみたいですね。気功を習っている鍼の先生には、「渡辺さんの作品は気が入ってるから吸い込まれる」と言われます。
−文字は人なりとも言いますし、書を見たらいろんなことがわかるんでしょうね。
線1本でも人間性や精神性は出ますからね。自分が書いたものを見ても、ああ、ちょっと切羽詰まってるな、と思うこともあるし、ゆとりがあるからこういうのができたんだ、と客観的にも見られます。何年も付き合っているお弟子さんだと、字を見て何かあったのかなとか、忙しいのかなとかわかりますよ。
−書道のおもしろさはどんなところにあるのでしょう。
書は技術さえつけば自由自在になるんですよ。感情の表現もできるし、個性も出せる。あと仮名書道には散らし、というのがあって。紙の空間をどう使って、どんな文字で書くか。その可能性が無限なんですね。お弟子さんたちにはお手本を渡して書かせていますが、将来はなるべくお手本なしで書きたい、とお弟子さんたちは言っているし、僕もそのつもりで教えています。紙だって選べますからね。クリエイティブな感覚が持てて、本当に楽しいと思いますよ。
−アート、ですね。
もともとは書画と言われていたんですよ。それが書と画に分かれて、画は美術に入り込めたけど、書は書類のような実用的なものになってしまった。書道を美術と捉えてくれる人が少ない現状を、どうにかしたいんですけどね。
−書を書く時に意識するのはどんなことですか。
「自分がモードを作るんだ」と公言する師匠についていましたから、僕もなるべく新味のあるもの、なるべくみんながやってないものを、と思っています。ここ数年はとくに、ちょっと実験させてもらおうと思って1年か2年ごとに作風を変えてきているので、時々年上の先生に怒られますよ、「お前の作品はだめだ、ちゃんとしてない」って(苦笑)。90歳でも元気な方がいるし、70歳、80歳の方も多いから、僕は中堅と言われつつまだ扱われ方は"若造"なんですよ(苦笑)。でもそろそろ自分の作風を見つけて固めていきたいと思っています。この春以降の展覧会に出品する作品は、自分のひとつの作風になるものですね。
−古いものにとらわれずに、新しいエッセンスを入れていこうという思いも強いんですね。
そうですね。歌舞伎や落語と同じように考えているんですよ。伝統的な演目もあれば新作もあっていい、と。基本は大事だけれど、古いものをただ受け継ぐんじゃなく新しい要素も入れていきたい。そこは歌舞伎や落語を見習いたいですね。
−子どもの頃、富士山をどんなふうに見ていましたか。
子どもの頃はもうちょっと海の方に住んでいましたから、丸見えの富士山でしたね。清水からだと途中に山がないから、きれいに全部見えるんです。見るたびに美しいとは思うけれど、あまり身近で、思い入れは? と訊かれると答えに困ります(苦笑)。ただ、海外に出かけた時に、どこに住んでるんだ、と訊かれて富士山の近くだ、と答えるとみんながすごく羨ましがる。それで再認識したところはあります。新幹線からきれいに見えているのに寝てる人がいると、"ちょっと見てよ"って言いたくなる時もありますよ(笑)。
−何が美しさの秘密だと?
不二とも書きますけど、他にはない、単独峰であの形だ、ということなんじゃないでしょうか。他にああいう山はないですよね。対称のようで完全な対称形じゃないところもいいのかもしれないですね。
−登ったことはありますか。
ないです。遠くから見るものだと思っているし、身近すぎて別に登ることもないのかな、と。歳をとってきて、1回くらい登ってみようかな、という気持ちが少し出てきましたけど、ここまでたくさんの人が登っているなら、もういいか、とも思ってますね。
−どんな富士山が好きですか。
三保の松原から見る富士山や真っ青な空を背景に雪をかぶった富士山は当然きれいですけど、春の花曇りとか秋口のちょっと曇った時とか、輪郭がはっきりしない中、ぼうっと見える富士山が割と好きですね。富士山がそこにある、とわかった時の嬉しさがあるというか。冬の夜に日本平に登ると月明かりで富士山が見えるんですけど、それもきれいですよ。本当は見えないはずなのに、雪があるからうっすらと輪郭がわかる。目を凝らしてやっと気づくくらいですけど、そのこれ見よがしじゃないところがいいというか。はっきりしたのはきれいですけど、存在感、ありすぎですからね(笑)。
−最も印象的な富士山は?
4年くらい前の2月に田貫湖の休暇村に泊まった時に、翌朝、日の出の時間に合わせて歩きに出たんですよ。その時に田貫湖から見た富士山ですね。冷たい空気の中、明けたばかりの空に富士山の形がくっきりと見えて、木立に囲まれた湖面に逆さ富士が映っていて・・。ちょっと日本じゃないみたいな景色でした。それは忘れられないですね。
−書家をやっていてよかったと思うのはどんな時ですか。
ひとつは、満足のいくもの、これはもう一生書けないな、というような書が書けた時ですね。今まで数えるくらいしかないですけどね。その作品が自分の知らないところでメディアで取り上げられていたり、知らない人に「あの時の作品、見ました」と言われることも嬉しいですしね。教えることで言えば、「書道をやっていてよかった」と言われることです。歳をとってからも続けられるし、一人でもやれることですから「書道をやって1日有意義に過ごせた」とか「生きがいです」と言われた時には、ああ、いい仕事だな、と感じます。
−目標はありますか。
何かひとつ、歴史に残る作品を残したいです。"21世紀の仮名"ということであれば、チャンスはあると思ってますから。そのためにはもう一皮、二皮剥けないといけないと(笑)。
1963年 旧清水市(現静岡市清水区)出身 書家の両親のもとに生まれる。早稲田大学商学部卒業後、企業に就職するが2年で退職し書家の道へ。1990年から9年間、殿村藍田氏に師事。2000年からは篆刻家・関正人氏にも師事。2008年、毎日書道展会員賞受賞。日本書道美術院・毎日書道会に所属。紙を自分で草木染めすることも。清水区の自宅、都内などで書道教室も開いている。