−大文司屋を復活させることにしたきっかけを教えてください。
祖父と同じ60歳そこそこで父が亡くなった時に、きっと自分の寿命も同じくらいだろう、だったら最後に自由な時間が持てるように、サラリーマンは55歳で辞めようと思ったのがそもそものきっかけです。50歳も過ぎて、じゃあ具体的に何をやろうかと考え始めて、父の代まで続いていた大文司屋のことを思い出しました。両親からはほとんど話を聞いたことがないし、当時使っていたものは父が処分したのか、数えるくらいしか残っていませんが、「大文司屋のことを気にして亡くなったんじゃないか」とあとから叔父に言われて、引っかかってはいたんです。55歳で退職して1年間準備したら、最初のオリンピックの年に閉業した大文司屋を2度目の東京オリンピックの年に復活させられる、それってちょっとかっこいいんじゃないか、と(笑)。あまり脇道に逸れない人生を歩んできましたから、ちょっと冒険したいという思いもあったのかもしれないですね。いずれにしてもあまり深く考えず、気楽な気持ちで決めました。
−復活にあたって一番苦労されたのはどんなことですか。
各方面への申請の手続きです。閉業した山小屋が営業を再開した前例はないし、行政側も想定外だったでしょうから、仕方のないことですけどね。いれたてのコーヒーや紅茶を提供できるように飲食店としての営業許可を得るために、あまり使うとは思えない換気扇と2つのシンクを取り付けたり、下から運んできた水を使えるように何度も交渉したり。準備のための1年は、目一杯遊ぶ時間にもしたかったんですが、思うようにいきませんでした(苦笑)。2020年のゴールデンウイーク前には開業の準備が整い、さあこれから、と思っていたら、新型コロナウイルスの感染拡大で登山道の閉鎖が決まり・・。「大文司屋の復活は東京オリンピック開催の2020年中に」と目標を立てていたので、登山道開通後の9月19日から営業を始めました。11月3日までの約1ヶ月半の営業でしたけど、嬉しかったですね。フルに営業したのは今年が初めてなんですよ。
−約半年間営業されてみて、いかがですか。
いろんな体験ができました。もともと鈍感な人間でしたが、植物による季節の変化に敏感になったのは、自分でもすごい進化だなと(笑)。あと予想以上にたくさんの方がこの道を行き来されて、しかもみなさんが山登りだけでなくトレイルランニングだとかバードウオッチングだとか苔の撮影だとか昔の道の探索だとか、それぞれに楽しみをお持ちなのに驚きました。地元の人間はえてして地元を知らないもので、僕も富士山の歴史や自然のことをほとんど知りませんでしたけど、みなさんとコミュニケーションする中で少しずつ興味が湧いて、自分でも勉強するようになりました。富士山がどれだけ特別な山かも、ここで出会うみなさんに今、教えていただいています。ある外国人登山者に「日本人は富士山のすごさを知らなすぎる、世界を見渡してもほぼ0m地帯から登れる3000m級の山なんて他にないよ」と力説されて「ああ、そうなんだ」と。その人にとって富士山のどんなところが特別かという話を聞くのも、とても楽しいですよ。
−営業は8時半から16時まで。毎日どんなふうに過ごしているのでしょう。
夏には猫の手も借りたいような日がありましたけど、基本的にはゆったり過ごしています。いつでもお客さんにコーヒーがいれられるように朝一番でお湯を沸かしたら、あとはお客さんを待ちながら周辺のゴミ拾いをしたり、周りの景色を眺めたり、本を読んだり。ひとりで上に向かう人がいたら「今日はどちらまで?」とできるだけ声をかけたり、顔を憶えるようにしています。それが何かの時に役に立つかもしれませんからね。
-他のインタビューで“地元に貢献したい、登山の安心と安全に寄与したい”というようなことをおっしゃっていますが、まさにその一環ですね。
勝手な思いつきで始めたことですが、山好きのお客さんに「山小屋にはある意味公共性があるんだから自覚を持たないとダメだよ」とアドバイスもいただきましたし、やるからにはそういう役割を果たす必要もあるだろうと、段々自覚が出てきました。実際、「自分がここにいてよかった」と思うことが多々あるんですよ。具合の悪い人を下まで送ったり、疲れ切っている上にスマホを途中でなくした人の代わりに馬返しの駐車場までタクシーを呼んだり、少しだけどお役に立てている。急に雷が鳴ったりした時には、ここを退避場所として提供できますからね。
-日々ここにいるからこそ感じる改善点はありますか。
今、行政を含め、この登山道を盛り上げようとしていますけど、そのためにはより安全で快適な登山ができるように、またこの周辺を上手に利用してもらえるように環境を整える必要があるんじゃないかと感じています。短い期間で何がわかる、と思われるかもしれませんが、ここを利用する人の生の声を一番聞いているのは僕だという自負はあります。話の中でみなさんがぽろりとこぼした「もっとこうなるといいのに」というあれこれを無駄にしないために、いずれは行政に働きかけることも必要になるのかなと思っています。「昨日の台風で倒木があるみたいですよ」といったお客さんからの情報は、富士吉田市の富士山課によく伝えてはいるんですけどね。
-今、もっとも気になっているのはどんなことですか。
馬返しの駐車場から登山道に入る階段のバリアフリー化です。ほんの十数段ですが、車椅子や足の弱い方は登れない。中には両脇を支えられてなんとか登った方もいましたけど、「自分はいいからみんなでこの先に行ってきて。とても素敵なところだから」と見送る車椅子の方を少なくとも4人、今年お見かけしました。マイノリティに寄り添うのはなかなか難しいことだとは思いますが、僕は長年病院に勤めてきましたから、どこかと組むなりして、なんとか現状を改善できないかなと今、道を探っているところです。
-やりがいを感じるのはどんな時ですか。
登山道に来た方に「ここが再開してくれてよかった」と言っていただけたり、顔馴染みになったお客さんが僕の顔を見に訪れてくれる時ですね。それが僕のモチベーションになるし、何よりのご褒美です。
−幼い頃は富士山をどのように見ていたのでしょう?
実家は北口本宮冨士浅間神社のすぐ近くでしたから、富士山の存在は当たり前すぎてほとんど意識していませんでしたね。ただ東京の大学に進んでからは、たまに帰ってくる時に中央道の大月ジャンクションを過ぎたところでバーンと正面に見えたりすると、“ああ、いい姿だなあ、美しいなあ”と思うようになりました。僕にとって富士山は、登る山じゃなくて見る山なんです。富士山は大事にすべきだし、自然環境をもっと守るべきだとも、その頃からずっと感じています。今、ここから富士山を望むと木立の間から山頂がチラッと見えるだけですが、もともとこの辺りは草山ですから、植林前の古い写真を見ると富士山がもっとはっきり写っている。両親からも、ここから河口湖が見下ろせて、山中湖も見渡せたと聞きました。今はまったく見えませんけどね。以前のように富士山が見えて、湖が見えるようにすることはできないのかな、と思うこともあります。
−半年間ここで過ごされて、どんな景色が印象に残っていますか。
ここから少し登ると石造りの鳥居があるんですよ。鳥居をくぐった先からが聖域になるんですが、その鳥居の向こうから登山道を見下ろす景色が好きですね。今日のように霧雨が降っている時はとくに、とても神秘的で荘厳な気持ちになります。まあどんな季節でも、どんな時間帯でも、どんな天気でも、この辺りは魅力的な場所ですけどね。
−賑わいを見せていた頃の大文司屋、そこで生き生きと働かれていたお父さんや羽田家の代々の方々に思いを馳せることはありますか。
あまりないですね。この間、テレビの取材があって、当時大文司屋で働いていた叔母が「女性たちはいつでもお客さんを呼び入れられるように昼夜を問わず働いていて、男性たちは始終お客さんの荷物をつけた馬を引いて七合目とここを往復していた」と話しているのを聞いて、父は常にこの場所で仕事をしていたわけじゃなかったのかと驚きました。とにかく家業だった大文司屋について、僕は知らないことが多すぎるんですよ。もっと話を聞いておけばよかったと思うけど、その頃は僕もまだ若かったのでね・・。今回、大文司屋を復活させたことで、僕の心に引っかかっているあれこれに決着をつけられたらいいなと思っています。
−ご家族は羽田さんの選択についてはなんとおっしゃっているのでしょう。
妻は不安もあったと思いますが、「あなたが言うことならばしょうがないわね」と応援してくれています。独立して家を出ているひとり息子は、たまにここに遊びにきてくれますよ。僕がこんなことをやり始めたのを、若干羨ましく思っているみたいです。僕が今、自分がやりたいことをやっているのは、ちゃんと勤め上げたから。「まずはお前もしっかり仕事をしろ」と思ってますけどね(笑)。
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はだとくなが 1963年 富士吉田市生まれ 地元の高校から都内の大学へ進学。卒業後は大学職員として勤務し、主に附属病院で病院管理事務に長年携わる。2019年3月で早期退職。2020年9月、1964年に一度廃業した吉田口登山道馬返し大文司屋を、六代目として復活させた。ヴァンフォーレ甲府の熱心なサポーターで、サラリーマン時代も週末の試合はほぼ欠かさず競技場で観戦。現在も仕事の合間を縫って応援に駆けつける。趣味は退職後に始めたサックス。2021年の営業はすでに終了。2022年の営業は4月中旬からの予定。
大文司屋HP: https://daimonziya.com