−田中さんはペンキ絵師として独り立ちされて約2年。これまでに描かれたのは何作ですか。
30作くらいです。銭湯だけでなく、デイケアセンターや老人ホーム、個人のお宅のお風呂場にも描かせていただいていますが、お風呂=富士山のイメージが強いのか、すべて絵柄は富士山ですね。個人のお宅だと、富士山と家族の思い出を組み合わせてください、と言われることも多いです。思い出話を聞かせていただいていると、みなさん、"自分だけの富士山"を心の中にお持ちなんだな、と感じます。ですから描く時には、見る人がそれぞれに自分の心の中の富士山を重ねられる絵になるように心がけています。どこから見た富士山か特定しないようにとか、あまり写実的にならないようにとか。
−こちらの第二寿湯のペンキ絵を描く時には、どんなリクエストがあったんですか。
富士山と、2011年に生まれた江戸川区の銭湯のキャラクターの"お湯の富士"を入れて欲しい、と。せっかくなら江戸川区らしさをもっと入れたいな、と思って、江戸川区で養殖が盛んな金魚と、屋形船を組み合わせてみました。独り立ちをして2、3作目の作品ですね。
−ひとつの作品を描くのに、どれくらいかかるものですか。
私はまだ慣れてないので12時間くらいかかって銭湯にご迷惑をおかけしてるんですが、だいたい8時間から10時間が目安ですね。銭湯は画面が大きいので、近くで描いている時と、遠くから見た時とで見え方が微妙に違う。そこを確かめながら描いていかなくてはいけないというのが、一番大変なところです。反対に一番嬉しいのは、お客さんの声に直に触れられた時。仕上がった後に銭湯に入りに行くようにしているんですが、「うわあ、絵が変わった!」という声を聞いて、お湯につかりながら密かに喜んでいます。
−大学の卒業論文のテーマを探していた時にペンキ絵と出合い、それがペンキ絵師になるきっかけだと聞きました。もともと絵は描かれていたんですか。
美大を目指していたので、高校時代は絵ばかり描いて過ごしてました。現代美術の作品を作る側になりたかったんです。でもある時、美術史をちゃんと勉強しないと現代美術の作品は作れないんじゃないか、と考えるようになって・・。大学では美術史を勉強していて、卒論のテーマを何にしようかな、と考えていた時に、たまたま銭湯のペンキ絵に出合ったんです。
−銭湯のペンキ絵を初めて見たのはいつなんですか。
銭湯のことを調べようと思って初めて銭湯に行った大学時代です。立ち上っていく湯気がペンキ絵の雲に重なっていくのを湯船の中からぼんやり眺めていたら、絵の中に自分が入っていくようなすごく不思議な感覚になって、びっくりしたのを今でもよく覚えています。美術館やギャラリーでは、あんなふうに絵は体感できないですからね。こんな絵の見方もあるのかと思ってそこからペンキ絵に引き込まれていきました。
−富士山はいつ頃からペンキ絵で描かれていたんですか。
ペンキ絵が東京の銭湯に初めて登場したのは大正元年で、そのペンキ絵も、富士山だったと言われています。
−なぜ富士山だったのでしょう。
東京近郊では、江戸、明治、大正にかけて、富士山を見る、富士山を疑似体験するというのがひとつの娯楽だったみたいですね。江戸時代には、富士塚という富士山を模した小高い山を作って登ったり、江戸の名所を描いた浮世絵に富士山を描き込んだり。明治時代になると、浅草にできた富士山形の物見櫓が大評判になったり、パノラマと呼ばれる、周囲に絵を張り巡らせてその風景の中に自分がいるような気分にさせる見せ物の次回の演し物が富士山だというのが新聞で紹介されたり。そういう富士山の高い人気が、最終的にペンキ絵につながっていったのかな、と思います。以降、関東を中心に銭湯で富士山は描かれ続けてますね。
−田中さんご自身の富士山の思い出も教えてください。
最初の思い出は中学の修学旅行です。事前に各自、富士山について調べるように、と言われて、私は太宰治の「富嶽百景」を読んだんですが、山梨から見た富士山の景色を「まるで風呂屋のペンキ絵だ」みたいに書いてあって(苦笑)。ああ、太宰治はお風呂屋さんのペンキ絵が嫌いなんだな、でもお風呂と言えば富士山なんだよなって思ったことを覚えています。当日は、5合目くらいまでバスで行って少し登ったくらいで、頂上までは行かなかったんですけど、富士山を体感できた気がしておもしろかったです。絵で見ていた富士山はたいてい裾野がきれいに伸びているけど、実際の富士山は、岩肌がごつごつしていたりいろんな花が咲いていて、ちゃんと実在している山なんだな、と思いました。あとは・・。高校時代、今、明治大学で教えてらっしゃる田代博先生に地理を教えていただいていたんですよ。
−日本各地からどんなふうに富士山が見えるかを研究していらっしゃる、あの田代先生ですか。
そうです。よく授業の最初に「今日は富士山が見えていて・・」と富士山の話をしてくださったし、先生が撮られた写真もよく見せていただいたので、ああ、東京からもこんなふうに富士山が見えるんだな、とその時、少し意識した気がします。富士山っていいなあ、としみじみ思うようになったのは、大学に入ってからですね。1、2年生の頃に通っていた神奈川県のキャンパスに、富士山が間近に、きれいに見える場所があったんですよ。富士山を見ると気持ちが明るくなる気がして、富士山がどんどん好きになりました。
−実際に富士山に登られたことはないんですか。
中学の修学旅行で行っただけです。見た人が自分の中の富士山を重ねられるような絵を描きたいと思っているので、富士山に登ることで、私個人の富士山への思い入れが強くなってしまったり、現実の富士山を意識するようになったらよくないような気がするんですよね。学生時代に先生から、富岡鉄斎は富士山に登る前と後で描写が変わったと聞いたこともあるし・・。遠くから眺めているのがちょうどいい気がしています。
−遠く近く、さまざまな場所から富士山を見られているそうですが、最も印象に残っているのはどこから見た富士山ですか?
昨年6月、夕方4時くらいに河口湖から見た富士山です。青い空を背景に富士山の全体像がきれいに見えていて、それがきらきらと夕日を反射する湖面にくっきりと映ったのも素晴らしかったんですが、水の音と風が揺らす葉の音だけが聞こえる中で、少しずつ陽が傾いて刻々と全てが色を変えていくのを眺めている時間もまた素晴らしくて。最後に富士山はシルエットになって、大きな黒々としたものがそこに聳えているという存在感だけ残して闇に沈んでしまったんですが、その間、ほんとうに神聖なものを見ている気がしたし、揺るぎないものを目の前にした安心感がありました。大きなものを前にしたときに、言葉にならない感動がありました。絵はがきでも紹介される絶景ポイントですけど、景色を見てあんな気持ちになったのは初めてです。
−田中さんが考える富士山の魅力を教えてください。
毎回違って見えるところです。見る場所や時間、季節や天気によって、色や形が全然違って見えるのはもちろんですけど、場所もコンディションもほぼ同じだとしても、同じに見えたことがない。多分、その時の自分の気持ちが映し出されるんでしょうね。見るたびにその瞬間の自分の内面が見えてくる、私にとっては特別な山です。
−今後、ペンキでどんな富士山を描いていきたいですか。
ペンキ絵師の見習いを始めた頃に、ちょっとだけ会社に勤めていたことがあって。その時に、銭湯につかりながら「ああ、今日も失敗してしまった」と思ってぼんやり富士山のペンキ絵を見るたびに、遠くから富士山が見守ってくれているような気がして心がさーっと明るくなって、「明日からまた頑張ろう」と気持ちがリフレッシュできた。そんなふうに、一日の終わりに見て疲れを癒したり、ほっとできるような富士山を描いていけたらいいな、と思います。
1983年 大阪生まれ、東京育ち 明治学院大学で近代日本美術史を学んでいた2003年、卒論のテーマを探していて銭湯のペンキ絵に出合う。ペンキ絵のおもしろさに魅了され、同時に後継者の不在に危機感を抱いて、ペンキ絵師の中島盛夫氏に弟子入り。約9年の見習い期間を経て2013年に独立。現在、日本に3人しかいないペンキ絵師の中で唯一の、そして初の女性絵師として活躍中。銭湯だけでなく、デイケアセンターや老人ホーム、個人宅の浴室にもペンキ絵を描いている。10時間から12時間で仕上げる。