−東京都台東区出身の内藤さんは、何がきっかけで手漉和紙に興味を持たれたんですか。
高校の頃から美術工芸には関心はあったんですが、大学4年の時に3ヶ月間、カナダでホームステイをした時に、自国の伝統や文化を尊ぶ向こうの人に姿に触れて、自分も世界に誇れるような日本独自の手仕事をしたい、という気持ちになったんですよ。帰国してすぐに重要無形文化財を扱ったテレビのドキュメンタリー番組を見て感銘を受け、さらにその気持ちが強くなりました。家が寺でしたし、下町で周りに職人さんも多かったから、もともと定年のある会社員になる気は全然ありませんでしたしね。それで、文化庁に直接お邪魔して、担当の方から頂いた重要無形文化財のリストを見たら、一番新しく指定を受けたのが手漉和紙だった。大学時代に書をやっていて紙には馴染みがあったので、これをやってみようかな、と。ただしその時は“手漉”をどう読むかも、わかっていませんでしたけどね(苦笑)。
−手仕事の伝統工芸は他にもあります。紙に馴染みがあったことが、手漉和紙に進んだ決定打なんですか。
ご縁があった、ということだと思います。それで埼玉、島根、岡山の3ヶ所で6年間、紙漉の勉強をさせていただきました。最初から基本的な技術をしっかり覚えたら独立するつもりでしたから、ただ教わるだけでなく、自分ならどうするのか、自分はどんなオリジナルの紙を作っていきたいのかを常に考えていました。その時に、手漉和紙は奥の深い仕事だなあ、というのを実感しましたね。
−独立の時に、富士宮市上柚野(旧静岡県富士郡芝川町)を選ばれたのは?
霊峰富士の見えるところで仕事がしたかったんですよ。紙漉に大切な水も豊富だし、その水は富士山の伏流水ですからね。独立したら紙は天日で干そうと思ってましたから、富士山を身近に感じながら紙が干せたらいいだろうな、という思いもありました。紹介されて廃業された手漉和紙の工場を見に行った時にはいまひとつしっくりこなかったんですが、やはり紹介されてここに来た時には富士山がきれいに見えていて、“ああ、ここにしよう”とすぐに心が決まりました。今から41年前になりますかね。この前の道路もまだ1車線だったし、近所には工場もなかったし、人家もまばらで本当に閑散としていました。空気自体がとても神聖だ、という感じがしましたね。
−富士の麓に工房を構えた内藤さんは、どんな紙を作ろうと思っていらしたんですか。
オリジナルの“理想の紙”です。手漉和紙のほとんどは鉄板に貼って乾燥させていますが、僕は木の一枚板で天日に干そうと、最初から決めていました。昔ながらのやり方ですね。勉強した基本の技術を元に、自分がいろんな場所で見てきたエッセンスも加えながら、いろいろ試しています。そういう日々の作業の中で、自分が最初に勉強したことが本当の意味で身になってもいったと思いますね。
−板に貼って天日で干す以外にも、いろいろこだわりがあるとお聞きしました。
こういうのを、こだわり、と言うんですかね(苦笑)。薬品漂白しない、というのは、ひとつの特徴かもしれないです。紙は本来、枝の切り口のような、ちょっと茶色っぽい色をしているんですよ。それを薬品で白くしている。でも漂白した紙は100年と保たない。正倉院宝物には1300年前の紙が残っていますからね。紙を作る人間としては、書き味がよいだけじゃなく、長く残る紙を作るのもひとつの責務かな、と思ってますね。それから、産地から取り寄せた原料だけを使っている人がほとんどだと思いますが、僕は産地から取り寄せた原料の他に自家栽培した楮(こうぞ)も使っています。独立して間もなく、よりオリジナルの理想の紙を作るには何が必要か、ということを考えた時に思いついたんですよ。あとは“塵取り”と呼ばれる、機械なら1日でも可能な作業を、1週間近くかけて自分でやっています(苦笑)。生産効率や儲けを考えたらできないことばかりだと思いますけど、あくまで素人で、手漉和紙は産業ではなく文化だ、と思っているからやれているんでしょうね。でもだからこそ、よりオリジナルの、本当に誇れる自分の紙になっていると思います。
−内藤さんの紙は書家や画家などアーティストの方に多く使われていると聞きました。そのきっかけはなんだったんですか。
独立してすぐに紙の専門店に営業に行ったんですよ。そこでわかったのは、紙の値段はどんな質の紙かよりも職人の経歴とかブランドで決まる、ということ。手漉和紙の産地のものが100円だとしたら、僕の紙は30円程度にしかならない。それで以前から面識があって、どんな紙を使っているかもわかっていた書の先生や手漉和紙をお使いになっている画家の方を探して、直接営業に行くことにしたんです。僕は美術全般の鑑賞が好きだから、単にいい紙を作るということだけではなく、アーティストの方に満足していただけるものを作りたい、という気持ちが強かったので、ご注文くださる方やその用途に応じて、原料の配分や漉き方を変えているのがよかったんでしょうね。使ってくださった方が他の方を紹介してくださって枝状にお客さんが増えていった。「内藤の紙がないと自分の表現ができない」、「作品が完成しない」と言われると、本当に嬉しいですね。職人冥利につきるな、と思います。
−天皇皇后両陛下にもお買い上げいただいたそうですね。
今から20年以上前の1994年、天皇皇后両陛下の静岡行幸啓の折りにお買い上げいただきました。手漉和紙に造詣が深いと言われる皇后陛下だけでなく、天皇陛下にもお買い上げいただいて、その後、皇后陛下から特別のご注文もいただいた。天皇皇后両陛下はいつも最高のものをご覧になっているわけですから、大変に嬉しかったですね。
−手漉和紙を作り続けて40年以上。手漉和紙の奥深さはどれくらいわかってきているのでしょう?
やっと難しさがわかったところだと思いますよ(笑)。相手にする木の皮も水も天日も全部自然のものですし、工程のどこかで手を抜けばそれはすぐに紙に出ますからね。実家が寺だからそう思うのかもしれないけど、自分はこの仕事を通して修養をしている、自分を高めているんだ、という気がしています。
−子どもの頃、富士山はご覧になれましたか。
ええ、見えましたよ。当時はまだ高いビルもなかったので、通っていた台東区の小学校からも、見えました。その頃から神々しい山だと思っていましたから、富士山は登るものじゃなくて、崇めるものだなあ、と。その気持ちは、ここに住むようになって強くなりましたし、富士山が世界文化遺産の指定を受けてからは、さらに増してますね。
−富士山の何が、内藤さんに崇めるものだ、と感じさせるのでしょう?
あのシルエットだと思います。僕は静岡県民なので、岳南からのシルエットが好きなんですよ。夏に山梨県の河口湖から見たこともあるけど、岳南からの方が、穏やかな気がしました。富士山の手前に観光船とかが入ってくるから、それで随分印象が変わったのかもしれませんけどね。自宅から富士山を眺める時の障害物は電線くらい。それは本当に素晴らしいですよ。今日は雨で見ていただけないのが残念です。
−内藤さんが一番素敵だな、と思うのはどんな富士山ですか。
1月の満月の夜の富士山です。夜8時くらいかな。富士山の右手に満月がのぼってきて、真っ暗な中にくっきりと富士山のシルエットが浮かび上がる。それはもう最高ですよ。あれを見たら、狼じゃないけど、思わず吠えたくなりますね(笑)。それくらい素敵です。
−40年間、数え切れないくらい富士山をご覧になってきたと思います。富士山に助けられたとか、富士山が心の支えになった、というようなこともありますか。
独立したばかりの頃は、そういうこともあったかもしれないですね(笑)。でもまあ、いろんな意味で富士山には支えられているんだと思います。富士山の麓で栽培した原料を使って、富士山の伏流水で紙を漉いて、富士山が見えるここの空気で天日干しをしている。そういう意味で言えば僕の紙は、富士山の恵みをたっぷり受けた、世界でここにしかない紙だ、と言えると思います。
−そういえば“不二の紙”というのも作っていらっしゃるそうですね。
このロケーションと二つとない作り方だ、という意味でつけた名前です。木の外皮だとかいろんなものを漉き込めるので、インテリアや壁紙としてご注文いただくことも多いですね。2014年に「和紙:日本の手漉和紙技術」がユネスコの無形文化遺産に登録されましたよね。海外から機械製紙が入ってきて、斜陽の一途をたどっていた手漉和紙ですが、手漉和紙は文化だと世界に認められた、ということ。僕は和紙の作り手として、この富士山の麓でより質の高い紙を追求していきたいと思います。
1948年3月 東京都台東区生まれ 大学卒業後、埼玉、島根、岡山で計6年間、手漉和紙の技術を学び、1976年、静岡県富士郡(現富士宮市)に柚野手漉和紙工房を開く。1994年、天皇皇后両陛下の静岡県行幸啓の折りやまたその後にも何度かお買い上げいただく。2007年、手漉和紙の技術伝承のため「駿河半紙技術研究会」を設立。2016年5月には独立40周年を記念し、「将来自分が現場を離れても手漉き和紙の素晴らしさを伝えていきたい」と工房の名前を内藤恒雄手漉和紙記念館に変更した。紙を通した海外との交流も多く、2016年9月にも約2週間、ドイツを訪れ、手漉和紙の講座とワークショップを行ってきた。
内藤恒雄手漉和紙記念館HP: http://plaza.across.or.jp/~yunotesukiwashi/