−御殿場口新六合目の山小屋の所有者が引き受け手を探していると知って手を挙げたのはどんな思いから?
静岡県側では、昭和40年代(1965〜1974)に五合目に至る道路ができるまで、富士登山のメインは御殿場口だったんですよ。僕が子どもの頃は、夏になると御殿場の駅前にあった長い足洗い場は下山してきた人たちでいつも混雑してたし、お土産屋さんはどこも賑わっていた。本当に栄えていたんです。御殿場口の山小屋も20軒以上ありましたからね。ところが今は4本の登山口で登山者が一番少なくて、他の登山口にはある旅行会社のツアーが1本もない。山小屋も5軒以下になっています。このまま放っておいたら、せっかく始めたわらじ館の営業自体も難しくなりかねない。そうならないためには、新五合目を出たら6時間トイレがないという御殿場口の状況をなんとかするしかないな、と。それには今、半蔵坊になっている建物しかなかったんです。状況が改善できたらツアーも呼べるし、御殿場口を登る人たちにとっても悪いことじゃないはずですからね。
−とはいえ約20年使われていなかった山小屋。開業にこぎつけるまでの経緯がHPで公開されていますが、大変だったようですね。
便所は雪崩で跡形もなくすっ飛んじゃっていたし、残っていた母屋には屋根を突き破って100キロぐらいの石が転がり込んでいて、大量の砂が積もっていました。2トンくらいあったのかな。崩れた周囲も直さなきゃいけないので、まずはユンボ(小型ショベルカーなどの建設機械)の免許を取ることから始めました。一通り片付けた後に屋根をつけて、県の補助金で8割出してもらってバイオトイレを設置して・・。本当は残りの2割も環境省の補助金でなんとかなるはずでしたけど、結局申請が間に合わなかったという(苦笑)。それでなんとか2022年の夏にやっとオープンできました。
−2023年、半蔵坊2年目のシーズンを迎えます。半蔵坊をどんなふうに活用して欲しいですか。
トイレや休憩でどんどん利用して欲しいのはもちろん、御殿場口を1泊で頂上まで行くのはかなり難しいから、2泊くらいかけてのんびり登りたいという人にも来て欲しいですね。半蔵坊からちょっと上がったところに江戸時代に修行者が歩いた“御中道”というのがまだ残っているから、そういうところを辿ってみるのもおもしろいと思う。せっかく登るんだから、大勢の人が見ている景色じゃなく、自分なりの富士山の楽しみ方を見つけて欲しいです。それは富士山に限らず、どの山にも言えることですけどね。
−橋都さんは元警察官。何がきっかけで2011年に山小屋をやろうと考えたのでしょう?
健康改善のために40歳から歩き始めたんですよ。箱根を歩いて越えたという話をしたらフルマラソンを勧めてくれる人がいて、同じ頃に山もやってみようか、と。そしたら山がおもしろくてね。山の上にいつもいたいと思うようになった。2010年、同級会で会ったわらじ館の所有者の同級生に何の気なしに「あの山小屋どうしてるの?」って聞いたら、「俺も仕事があるし親父が死んでからは富士登山駅伝前後の1週間しか開けてない」って。その時に「よかったら来年、手伝ってよ」と言われたものの、すっかり忘れていました。そしたら2011年6月の初旬、「手伝ってくれる?」って同級生が電話をくれたんですよ。話しながらふと、「公務員だから手伝うとなると面倒な手続きがある。だったら辞めてそのまま山小屋をやっちゃおうかな」って。ちょっと飲んでいたから翌朝改めて考えようと思って寝たら、朝5時前に目が覚めた。1時間くらい一人で考えて、起きてきた女房に「俺、仕事辞めるよ」って。その日のうちに辞表も出しました。「仕事辞めちゃったから俺が山小屋をやるよ」と言ったら同級生も「いいよ」って。ほとんど衝動的ですね(笑)。
−初めての山小屋業に困惑したり戸惑うことはありませんでしたか。
カレーが作れればなんとかなると思っていたし、戸惑うことはなかったですよ。高校は商業科だから商売的な頭がないわけじゃないし、刑事をやっていたから初対面の人と接することも全然平気でしたしね。警察官の仕事もそうでしたけど、山小屋の仕事も毎日違って刺激があっておもしろいなと思ってました。とくに1年目はね。
−思い描いていた理想の山小屋像のようなものはありますか。
予約の取れない山小屋になりたいんですよ。現実は厳しいんだけど(苦笑)。富士山の山小屋は、人気のある登山口の頂上に近い方から埋まっていくんですよ。それを考えると御殿場口のわらじ館は富士山の山小屋で一番最後。だからわらじ館に泊まりたいというお客さんを増やすには何ができるか、いろいろ考えました。例えば? カレーの食べ放題かな。標高が高いと沸点が低くてすぐに冷めてしまう。だからできるだけ暖かいまま出せるように工夫しています。半蔵坊でもカレーじゃつまらないから、ホットプレートで焼いた餃子をホットプレートごと出してますよ。
−コンサートもやっていると聞きました。
アコースティックユニットwaccaのコンサートは2019年からやっています。他にも富士登山駅伝の日に和太鼓奏者に和太鼓を叩いてもらったりね。今年はコンサートの他にもうひとつ、おもしろいことを考えています。去年わらじ館に寄ってくれたお客さんとの出会いがきっかけになった企画です。詳細が発表になるのをぜひ楽しみにしていてください。富士山でご来光に感動するのは当たり前のことだから、他に何かおもしろいことができないかといつも考えています。お客さんを楽しませたいだけでなく、従業員も自分も楽しみたいんですよ。
−3歳から御殿場で育った橋都さんが富士山に最初に登ったのはいつですか。
高校3年の夏ですね。吹奏楽部の仲間と午前中の練習が終わって昼食を食べている時に、「暇だな〜。富士山にでも登る?」という話になって。OBが車を出してくれたんですが、まだ舗装前だった須走口の馬返しあたりでオーバーヒートしてしまって「お前ら、ここから歩いて行け!」って。そこから7人で登りました。当時はそんな知識はなかったけど、ちょうど8月の16、17日だったから多分ペルセウス座流星群の日だったんでしょう、ものすごくたくさん流れ星が見えて、本当に感動しました。犬が星を見るようなものだったとは思うんだけど(苦笑)。その後も何度か静岡県警の訓練で登ったり家族と一緒に登たりしましたけど、あの感動は忘れられないですね。その時一緒に登った仲間が今、HPを作ってくれたり、両方の小屋で出しているどら焼きや強力餅を作ってる菓子屋だったりするんですよ。本当にみんなに助けがあるから小屋がやれているんだと思います。
−御殿場口の魅力も教えてください。
難しいルートなのは確かなんですよ。山頂までの距離が長いこともあるけれど、砂利のような地面だから歩くたびに足元が崩れてなかなか先へ進めないし、体力も消耗する。宝永の噴火の影響で草木がないから日陰もないし、景色が広大すぎて変化に乏しいから歩いても歩いても前に進んでいる気がしない。登山というより“修行”と思って登ってくる人がほとんどですよ。ただ、富士山の大きさ、裾野の広さを感じられるのは確か。それに本当に静かだしね。万人受けはしないけど、魅力がわかる人にはたまらないルートですよ。
−橋都さんは山の何に魅了されたのでしょう?
僕は森林限界から上が好きなんですよ。北アルプスでも南アルプスでも、登る時は森林限界を超えて稜線に出るわけだけど、あの時になんとも言えない喜びがありますね。この上にいつもいたいなと本当に思う。だから帰りに森林限界に入っていくのが辛くて辛くて(苦笑)。どうして? やっぱり森林限界から上は、“現実”じゃないからでしょうね。富士山の3000m以上には神様が住んでると言うけど、やっぱり人がいる世界じゃないですよ。だからこそすごい景色も見られるし・・。そうだ、大事なことを言い忘れてました。
−なんでしょう?
僕は2014年に大怪我をして、今は杖なしでは歩けない状態なんですよ。起きてしまったことはしょうがないし、それでまた違った視点で人生が見られるようになったから、悪いことばかりじゃないと思ってますけどね。リハビリには1年半くらいかかったんですが、その時にたくさんのハンディのある子どもたちと出会って、そういう子どもたちや歩いて登ることのできない人たちにも、なんとかあの富士山の景色やご来光を見せてあげたいと思うようになったんですよ。そのハードルを下げるためにも、半蔵坊はどうしても開けたかった。御殿場口は頂上直下以外どこからでもご来光が見られますから、なんとか半蔵坊まで来させてあげられる方法はないか、今、考え中です。あと、診療所もやりたいんですよ。なかなか話は進まないけど、一応行政にはいろいろ働きかけているところです。診療所があれば、ハンディのある人も登りやすくなりますからね。なんとかそれを実現したいですね。
はしづめあきお 1958年 山形県山形市生まれ 自衛官だった父親の転勤で3歳から御殿場市で育つ。地元高校の商業科を卒業後、静岡県警に奉職。交番、機動隊、パトカー乗務、監察、暴力団対策、銃器対策、看守など様々な業務を経て2011年6月に退職。同年夏から御殿場口のわらじ館の館長に。高校時代は吹奏楽部に所属しユーフォニウムを担当。2014年、冬の長野で雪下ろし中に四肢を骨折する大怪我を負うが、その後、杖をついて東海道を京都まで歩いたことも。2020年には閉山にも関わらず登ってくる登山者の緊急事態に備え、ボランティアの“富士山見守り隊”として約2ヶ月、わらじ館に仲間と交代で滞在した。
わらじ館HP http://warazikan.main.jp
半蔵坊HP http://hanzobo.main.jp