−いきなりですが、人はなぜ山に登るのですか。
山登りには大きく分けて二つのパターンがあると思います。一つは、人間の限界を試す、といった行為の中から自分の存在意義を見出すため、またはエンドルフィンなどの脳内麻薬を出して気持ちよくなるのを求める山登り。もう一つは、山の上から景色を眺めたり草木や自然に触れることが目的のレジャーとしての山登り。その両方を目的にしている方もいらっしゃいますし、きっぱり分けることは難しいと思いますけどね。健康にいいのは後者の山登りで、多くの登山者がそちらを目指していると思います。「健康登山塾」も、普通に山登りを楽しみながらもうちょっと健康になりたいと考える人をターゲットにしています。
−富士登山も、健康登山の一環で考えられるものですか。
ええ。富士山はもともと信仰の場で、辛く厳しい登山体験から自分自身の存在を見直す、という信仰活動として登られていたところもある。だから夜中に体力の限界を感じながら登って、山頂から朝日を見た時に神様を感じたりする人が多いのはわからなくもないですけど、そういう登り方は決して推奨しないですね。やはり肉体的に無理をせず、日本で一番高い山に楽しく登りました、人生の中で一つの区切りがつきました、という登山がいいと思います。富士山に登ることで、日本人でよかったと感じたり、精神的な意味でのリラックス効果も得られたりしますからね。
−富士山にはどのように登るのがよいのでしょう。
時間に余裕をもって、それぞれのライフスタイルに沿った形で、ということですね。ですから、いつもより少し早起きして、朝5時か6時くらいに五合目から登り始めるといいと思います。登りにはだいたい4時間から5時間かかりますから、午前中のうちに山頂に着く。お昼ご飯を食べたりお土産やお札を買ったり写真を撮ったりして1時間から2時間くらい山頂で過ごして下山する。下りにかかるのは2時間から3時間くらいですから、遅くとも日が沈むまでに五合目に戻ってこられますからね。
−ご来光にはこだわらずに?
健康を考えるなら、ご来光にはこだわらないほうがいいですね。どうしても、というなら山小屋に一泊することです。ただ、標高の高い場所で寝るのはあまり体に良くないんですよ。標高の高いところは酸素が薄いから起きた状態でも動脈血酸素飽和度が80%前後まで下がる人が多いのに、寝るとさらに呼吸の回数が減り、仰向けで寝ていると舌根部も後ろに落ちて空気の通り道が狭くなる。結果的に酸素の取り込み能力が下がって体の中の二酸化炭素が増えますからね。七合目か八合目にある山小屋に泊まって、日の出の1時間くらい前から再び山頂を目指す、というのがいいでしょうね。
−健康に富士登山するために必要な準備はありますか。例えば、普段の暮らしの中でできる体力面での準備とか。
普段の運動です。一番いいのは、好んで坂道や階段を上り下りすること。上ることで心肺機能は鍛えられるし、下ることで関節と筋力が鍛えられます。膝や足首の関節に障害や不安がある人は、坂道や階段を下る時の自分の膝や足首の状態を注意深く観察しておくといいと思います。富士山の下りは砂地がずっと続くので着地の圧力は緩衝されますが、距離が長いうえに上りで筋力を使い果たした後なので、途中で痛みが出て歩けなくなることがありますからね。近くに高尾山のような、標高500から600メートルの山があるなら出社前に登ったりするのもいいと思いますよ。それを続けていれば、身体的にはかなり余裕ができると思います。
−先ほどの「健康登山塾」でも、ジムでウオーキングマシンを使うなら少し傾斜をつけたほうがいい、とおっしゃってましたね。
そうです。メッツという運動の負荷量を表す単位がありますが、時速6キロで平らな場所を歩いている時の運動の負荷量は3.5メッツで、15%の傾斜をつけると約12メッツになる。運動負荷量が3倍になるわけです。ですから、普段から坂道を上る癖をつけておくといいと思います。
−坂道や階段の上り下りで意識するといいことは?
少し体を縮めた、それぞれの関節に余裕をもった状態で動くといいですね。どの運動にも言えることですけど、ちょっと重心を低くしておくのがいいんですよ。転倒した時も衝撃が少なくて済むし、下りの時の衝撃をうまく吸収できますからね。また関節に余裕をもった姿勢を保つためには、しっかりとした腹筋と背筋が必要ですから、普段から背筋をちゃんと伸ばすことを意識するといいでしょうね。
−足の置き方はどうでしょう?
山登りでは、足は地面にフラットに置くのが基本です。それが一番摩擦が大きくて安定する。ですから、坂道や階段の上り下りもフラット置きですね。
−実際に富士登山をする時に、衣類や携行品で注意すべき点があれば教えてください。
特別な道具はいりませんけど、天気が急変したり、山頂の気温が予想以上に低いことがありますから、温度調節しやすい重ね着をお勧めします。素材としては、吸湿性の高すぎる木綿ではなく速乾性の素材がいいですね。あと、一番上に着られる、雨や風がちゃんと防げて、汗は通すウエアを用意しておくといいと思います。薄くて軽い素材の着替えがあってもいいかな。特に下着の替えはあってもいいかもしれないですね。
−おやつ的なものも、持ったほうがいいんですよね。
そうですね。活動中はエネルギーをどんどん消費していきますから、使ったエネルギー量に見合うだけの炭水化物を摂取しないと、途中でバテてしまいます。ゼリータイプの携行食やクッキーなどでいいと思いますよ。あと、登山を始める前に首や肩や肘や腰などを回したり、ももやふくらはぎの筋を伸ばすなどの準備運動もぜひやってほしいですね。
−山登りはいつ頃から?
生まれ育った高崎の家のすぐ裏が山で、子どもの頃からよく父親に連れていかれました。中学、高校時代は赤城山、榛名山、妙義山あたりに遠足で行ったり、親や友達と一緒に登ったり。本格的に登り始めたのは、大学でワンダーフォーゲル部に入ってからです。
−なぜワンダーフォーゲル部だったんですか。
あまり競争するのが好きじゃなかったというのもあるのかな。でもまあ、大学のクラブに入るきっかけなんて、入学直後に先輩から勧誘をかねて飯を食わされてそのまま・・というのがほとんどじゃないですか(笑)。特にポリシーがあったわけじゃないです。そんなにチャレンジングなことをやってたわけじゃないけど、近郊のちょっとした岩登りとか冬山登山でもそれなりの達成感はある。だから続けられたんでしょうね。
−最初に富士山に登られたのは?
小学校の高学年の時に家族で登りました。その時は姉の調子が悪くなって八合目くらいで帰ってきた。それで中学か高校の時に、同級生と2人で「富士山、行こうぜ」と。僕はバスケットをやったり近所を走ったりしてたし、同級生も運動をやっていたから、難なく登頂して帰ってきました。ご来光を見た記憶も、上で山小屋に泊まった記憶もないから、昼間に登ったんでしょうね。
−それ以降、富士山には?
大学時代と卒業後に何回か登った記憶があります。1990年代後半、山の仲間から「新入社員の富士登山の医療支援者を探している企業があるよ」と声をかけられたんですよ。おもしろそうだなと思って引き受けてからは、毎夏、複数回富士山に行っています。その医療支援だけでも20回以上は登頂していますね。
−富士登山を経験することが、新入社員の大きな自信につながったり、社会の荒波を越える力になる、という意図なんでしょうね。
そういう意味では、富士山は日本においては非常にシンボリックな存在ですから、身体に無理をかけすぎないという点に注意すれば、非常にいい場所だと思います。新入社員は、“日本で一番高いところに来たぜ、よし、これから頑張るぞ、日本一目指すぞ!”という達成感が得られるでしょうからね。癌サバイバーの方が富士山に登ることがありますけど、身体的に不利を被った後でも自分はちゃんと運動ができるんだ、と確認する場としては、富士山がいいんだと思います。富士山の五合目から山頂までと同じ標高差の別の山に登るのとは、達成感が全然違うと思います。
−ところで、なぜ医師になろうと思われたんですか。
林野庁とか営林署に入って木を伐る仕事をしたいと思っていた時代もあるんですけど、高校時代の担任の勧めもあって、近くの医学部に進んだ、というだけで、そんなに高いモチベーションがあったわけではないですね(苦笑)。自分で情報を集めて仕事を決める人もいるのかもしれないけれど、個人的には、多くの人が身近にある職業の中から、なんとなく自分にフィットしそうなところに入っていくような気がしているんですよ。そしてその仕事に一生懸命取り組むうちにその職業のよさがわかり、よりその仕事がフィットしていく・・。僕自身もそうだと思いますしね。本当は山の中で仕事をしたかった、という思いがあるので、医師の仕事と山や森の活動に関係を持たせることで、なにか自分に言い訳しているところがあるのかもしれないですね。
1961年 群馬県高崎市生まれ。高崎高校卒業後、群馬大学医学部に進学。大学でワンダーフォーゲル部に所属し本格的に登山を始める。1992年には、日本ヒマラヤ協会クラウン峰登山隊に参加。大学での後進の育成と診療の傍ら、高所登山に関する医学研究や一般の登山者の健康管理に関する啓蒙活動にも取り組む。医学専門書以外に『登山を楽しむための健康トレーニング』(上毛新聞社出版部)、『「体の力」が登山を変える ここまで伸ばせる健康能力』(ヤマケイ新書)、『病気に負けない健康登山 ドクターが勧める賢い登山術』(ヤマケイ山学選書)などの著書がある。日本登山医学会、日本山岳・スポーツクライミング協会などの各種委員を歴任。