−富士山を初めて見たのはいつでしたか。
22歳の誕生日を目前に意を決し京都から夜行バスで出て来てから、関東のさまざまな場所で富士山を目にしました。あのシルエットはよく知っておりましたから、すぐに富士山だとわかりました。「これは!」とひらめくものがありましたね。一目惚れでした(笑)。都内から埼玉に引っ越してからは、近くの富士山がよく見える場所に、よく富士山を眺めに行っておりました。母や兄と埼玉で暮らすようになってからは、母と静岡や山梨へ親子旅行に行きましたね。母も富士山が大好きでしたので、一緒に富士山に癒されに行っていたんです。そのうちに富士山に出会えた感動を歌にしたいと思い始めたんです。
−それはいつ頃ですか?
ちょうど上京して10年目辺りでしたかね。三部作にしようと思いまして、構想を練り始めました。2007年に『富士山〜失われる日本の心を求めて〜』、2009年に『忍野八海』、2013年に『湖畔のセレナーデ〜富士河口湖町に寄せて〜』と、三部作を完成させることができました。
−それぞれの楽曲について、もう少し教えてください。
テレビを見ても新聞を読んでいても、悲惨な出来事が多くて本当に胸が痛みます。そういう自分の気持ちや苦しさを富士山に相談できないかな、富士山だったらどう答えてくれるかな、というところから作ったのが『富士山〜失われる日本の心を求めて〜』です。フォーク調の、どちらかというとおおらかな感じの歌です。『忍野八海』は、哀愁を誘う風景に大変感銘を受けまして、歌詞に取り込みたい、と思ったのがきっかけです。失われつつある日本の原風景と私自身が決して失いたくない大切な思いを重ねて、女性を主人公に書きました。フォークというより歌謡曲に近い切ない歌で、思い入れは強いです。『湖畔のセレナーデ〜富士河口湖町に寄せて〜』は富士山エリアの富士河口湖町に住むようになって、住人として今、自分が感じていること、また自分の歩んでいる人生を振り返って思うことを歌詞に託しました。穏やかで流れるようなメロディが特徴です。この三部作を作れたことは、自分の音楽活動の大きなポイントになっていると思います。
−構想を練り始めてから完成するまでほぼ10年。富士山をテーマにした作品作りはどんなところが難しかったのでしょう。
富士山と自分との関わりを大事にしたかったので、なぜ富士山なのか、なぜ忍野八海なのかと、曲ごとに歌詞のテーマはかなり掘り下げました。『ふじの山』のような唱歌ではなくて、フォークソングとか歌謡曲的なものにしたいという気持ちも強かったので、曲作りでもかなり悩みました。仕上がるまでに曲も歌詞も何度も書き直し、考え直したので、時間がかかったんだと思います。
−三部作以外に、富士山をテーマにした歌はありますか。
いろんなテーマで曲を書いていますが、富士山をテーマにしたはこの三部作だけです。富士山への思いは強いので、また新たな発想が浮かんだら曲を書きたいと思ってはいます。
−シンガー・ソングライターを目指されたきっかけを教えてください。
小学5年生の時に兄のお下がりのラジオでみのや雅彦さんとおっしゃるシンガー・ソングライターの深夜放送を聞いたのが最初のきっかけです。その後、中学を卒業してすぐの頃に、京都の野外コンサートに出演されていた永井龍雲さんの歌を聞いて、かならずシンガー・ソングライターになる、と決心しました。みのやさんや永井さんのギターの弾き語りを聞いていると、知らず知らずに涙が頬を伝っていましてね。深い意味は理解できないのに「すごくいいことを歌ってはるんやな」ということだけはわかったんです。当時はロックブームでしたけど、時代に逆行する形でフォークソングの虜になりました(笑)。
−曲作りを始めたのは?
初めて曲を完成させたのは中学1年生です。『早春』というタイトルで、確か3コードの曲でした。一生懸命作りましたけど、見よう見まねですから、今、思い出すと赤面してしまいます(笑)。その後も曲作りを続けて、15歳からは本格的な活動を始めました。20歳の頃には、かわいがってくださっていた京都、大阪、神戸、滋賀などのライブハウスで毎月のように歌っていました。
−その後、東京に出て来られたんですね。
「一度東京で勝負してみよう」と思ったんです。何のあてもありませんでしたが、たまたま上京する少し前に奥村チヨさんの『終着駅』や堺正章さんの『街の灯り』や内山田洋とクール・ファイブ『そして神戸』などを作曲された浜圭介さんに自作曲を吹き込んだカセットと手紙を直接お渡しできる機会がありまして。上京して10日後くらいに思いがけなく浜さんからご連絡をいただいて、2年と少し、通いの弟子として浜圭介さんの事務所にお世話になりました。もう一度原点に戻ろうと、シンガー・ソングライターとしてライブハウスからやり直したのは25、6歳の頃。そこから今に至るまで苦難の道が続いているという(苦笑)。私の夢は、富士山三部作をレコード会社から発売して、富士山の麓から日本全国に心の歌、魂の歌を届けて行くこと。早く夢を実現させて、女手一つで私と兄を育ててくれた母を安心させたいですね。
−現在は富士河口湖町にお住まいだそうですね。
富士山の気を求めて、2011年12月から河口湖で暮らしています。朝起きたら窓を開けて「今日も1日お願いします」と手を合わせ、夕方も「今日も1日、お守りいただいてありがとうございました。明日もよろしくお願いいたします」と手を合わせる生活をしています。毎日同じ場所から眺めていますが、富士山は毎日、毎回表情が違うんですよね。人間と同じように嬉しい時もあれば、悲しい時もある、というか。だから毎日新鮮に富士山を受け止めています。長く地元に住んでらっしゃる方の「見慣れてしまって、そんなに感動しないんだよ」というお話を聞くと、もったいないなあと思ってしまいますね。富士山が見せてくれるいろんな表情は、作品作りのインスピレーションも与えてくれます。
−金澤さんが考える富士山の一番の魅力を教えてください。
富士山を見ると胸がときめくというか心が安らぐんですよ。多分、日本人の多くの方がそう感じるんじゃないでしょうか。それはもう理屈ではなくて、富士山の大きさ、そしてあの形から放たれているオーラだと思います。
−金澤さんにとって富士山とは?
心の拠り所でしょうか。恋人であり、友人であり、時に母親であり、また自分の分身のようにも思えることもあります。自分の思う通りに仕事がはかどらない時には「富士山、助けてくれよ」と思うこともありますし、「もっとしっかりがんばらないといけないぞ」という声が聞こえてくような気がする時もありますね。道のりは厳しいですけど、地元の富士河口湖町の方に「応援するよ」と言っていただけると本当に嬉しいし、富士山が自分を支えてくれているんだ、と思うとまだまだがんばろう、という気持ちになります。皆さんぜひ、応援よろしくお願いいたします!
1973年 京都市生まれ 15歳から関西で本格的に活動を始める。22歳の誕生日に上京。ご縁のあった作曲家・浜圭介氏の弟子として過ごした後、シンガー・ソングライターとしての活動を再開。2001年に自主制作アルバム「同じ時代(とき)を生きる命(もの)として」を発表、以後、精力的に作品制作を続ける。2002年2月には「NHKのど自慢」のさいたま市大会でチャンピオンに選ばれ、同番組に出演していた吉幾三氏から贈られた「平和を〜PEACE(ピース)〜」という詩に作曲。2011年12月に富士河口湖町に移住後は、地元での音楽祭やコンサートに参加。カフェやショッピングセンターでのライブも行っている。フォークとポップス、演歌を融合させたオリジナルな歌謡曲を追求している。