−こちらに窯を築こうと思われた経緯から教えてください。
ここに来たのは28歳の時。それまでは瀬戸で弟子をしていました。当時はどんどん土地が値上がりする時代で、東京や神奈川の郊外では、自分の生産能力に見合う値段の土地がない(笑)。前から独立する時は窯を頼もうと決めていた瀬戸の窯屋さんに、困った、という話をしたら「自分の実家の方なら見つけられるよ」って。それでここに連れて来てもらいました。でもね、東京や神奈川の人間に、箱根の山を越える感覚はないんですよ。東京より北に行く感覚も、ないんだけど。
−それはなぜですか。
中心から離れてしまう、という気がするんです。来たのはちょうど7月の中頃。真正面にどかーんと異様に真っ黒い山があって、形は富士山なんだけど上が白くない。下の家のおばあちゃんに「あの山はなんですか?」と訊いて、呆れられました(笑)。
−(笑)。
その時、僕が来た理由を知ったそのおばあちゃんが「ぜひ来てくんな!」って、トウモロコシやスイカをくれてね(笑)。それまで行ったどこの土地の人よりウエルカム!な感じだった。若い人がどんどん出て行っちゃってたから、若い人が来てくれるのは大歓迎だったんでしょう。「嫁に来て50年だけど、なにも変わらない」と聞いて、このまま開発される見込みがなさそうなのもいいな、と思ってね。もう一つ、便利なのもよかった。その頃はまだ、宅急便なんてありませんから、材料は勉強していた瀬戸に自分で取りに行くのが前提でしょ。東名高速までわずか25分で、瀬戸までの距離も短いのがいいなあ、と。ちょうどその時、家内は長女を出産した直後だったんですよ。家内の条件は、交通機関があることと隣の家が見えること。それはクリアしていたから、とっとと決めちゃいました。見せたら絶対に「ウン」とは言わないだろうと思って(笑)。当時あったバス停はもう、なくなりましたけどね(笑)。
−以来、毎日富士山を眺める暮らしを続けているわけですね。
地元の人たちにとって富士山は、あって当たり前。笠雲がかかったとか雪が少ないとか、あまり気にしない。でも僕らはやっぱり毎日見ちゃいますよね。例えば笠雲は、いきなりできるんじゃないんですよ。周りにある雲が徐々にヒューッと巻きつくようにできて、それが上の方から降りてくる。それで、ああ、午後は雨だなとか、明日も天気だなとか。天気予報はかなり正確にできるようになりました。
−登ったことはあるんですか。
子どもたちがまだ小学生だった5月の連休、あまりにいい天気で「一度も富士山に行ったことないから行ってみようか」って弁当を作って五合目まで、そのままの格好ですっ飛んで行ったことがあります。そしたら寒くて車から出られなかった(苦笑)。頂上はすぐそこに見えるし、あっという間に着きそうに思える。僕だけのこのこ出て行きましたけど、100メートルくらい歩いて「寒くて死にそう」って(笑)。あとは車の中で弁当を食べて、下りてきました。
−窯は不二窯と名付けられているそうですね。
何々窯、と聞くと代々受け継ぐもの、という感覚がありますが、子どもが継ぐかどうかなんてわかりませんから、僕は"今野登志夫陶房"で通しています。ただ、お茶の世界もやっていて、「窯元は」と言われることもあるので"竹窯"としていました。この周りは竹藪が多いんでね。それが、冗談みたいな話ですけど、富士山が世界遺産になるちょい前くらいに初夢で「フジヨウにしろ」というお告げがあって(笑)。ただ、富士窯じゃあまりにおもしろくない。それで不二窯にしたんです。僕自身、同じものはほとんど作りませんしね。
−最近は、富士山の形の器や風鈴、オカリナも作られているそうですね。富士山をかたどったものは、以前も作られているんですか。
今回が初めてです。果物や植物を見て、この形、きれいだなと触発されることはあっても、それをそのまま表現しようと思ったことは、一度もありません。でも今回、友人の新谷くん(一般社団法人エコロジックの新谷雅徳さん)に「"縁や"を作るから、なにか作品を置かしてくれない?」って言われて。
−"縁や"は5月にオープンした外国人を対象にしたエコツーリズムとアート ギャラリーのスペースですね。
それで外国人がお土産に喜びそうな、わかりやすくておもしろいものを作ろうと思ったんですよ。いくつか富士山グッズの焼き物を見たら、安易な形のものが多い。それで最初は思いっきりリアルな形にしてみました。でも富士山は裾野があまりに広いからぺしゃんこな形になってしまって絵にならないし、盃としても使いにくい。それでだんだん、今の形に落ち着きました。広重の浮世絵もそうだけど、絵にしようとするとああいう形になっちゃうんですよ。ポイントは、宝永山の存在。富士・富士宮地域の子どもたちが富士山の絵を描くと、必ず宝永山が描いてあります。オリジナルで型を作り、いつでも同じものを安く提供できるようにしました。これも僕にとっては初めての経験ですね。
−長い間こちらに住まれて、富士山への印象や思いの変化はありますか。
創造と関係ない話であれば、あります。富士山が世界文化遺産になってーー僕の地元の仲間の多くは、自然を守るためには文化遺産じゃなくて自然遺産にしたかった、と今も言っていますけどーー観光客が静岡に大勢来るだろうと予想していたのに、結局、静岡は通過点になってしまっている。富士山静岡空港に来る中国の人たちも、浅間さん(富士山本宮浅間大社)をちらっと見たら、ぐるっと回って山梨県の河口湖に行って遊んで泊まって帰る。すばらしい白糸の滝も、閑古鳥ですからね。静岡の人たちはどうしてもっとそういうものを上手に活用しないんだろう、もったいないなあという思いはすごくあります。40年もいて、僕がまだよそ者感覚なのかもしれないですけどね。
−なぜ、陶芸をやろうと思われたんですか。
僕、出身は日大の演劇学科でね。演出家になりたいと思っていたんですよ。大学時代、趣味が焼き物の父の運転手として、湘南に住む父の友達の陶芸家のところに何度か行ったある時、その人が「遊んでていいよ」ってろくろにどんと粘土を置いて、陶房から父と一緒に出て行っちゃった。ひどくつまらなそうな顔で二人の話を聞いてたから、ちょっと目障りだったんでしょうね。それでお茶碗でも作ってみるか、と。ところが、自分では割と器用な人間だと思っていたのに、全然思い通りにならない。なんとかねじ伏せようと、夜中まで手びねりしてました(笑)。それが最初かな。
−そこから一気に陶芸の道へ?
いや。陶芸は始めましたけど、そのあともしばらくは芝居に進むつもりでした。ところが昭和49(1974)年くらいに新宿の住友ビルに朝日カルチャーセンターができたんですよ。大学の帰りにその陶芸教室に通い始めて、僕よりちょっと年上の、武蔵美や芸大を卒業した先生たちと仲良くなりましてね。そのうち雑用のアルバイトで雇ってもらったり、個人的に手伝ったり。みんなが本当に楽しく遊んでくれたし、「向いてる、向いてる」っておだてられて、いつの間にかその気になりました(笑)。大学卒業後は釉薬の勉強がしたくて、森脇文直・加藤春鼎のお2人に弟子入りしました。瀬戸はどの陶磁器の生産地よりも釉薬の種類が多く、中でも両先生は、窯も釉薬の種類も最多でした。
−釉薬の魅力はなんですか。
釉薬は、簡単に言うと化学変化。頭が理系だから、釉薬を作ること自体が、とてもおもしろいし、得意なんですよ。
−しかも釉薬を塗った器を窯に入れて焼くと思いもよらない色の変化があると聞きます。それも魅力ですか。
確かに予測できないことは起きます。でもそれは予測できないだけ、と思っています。あいにく風が吹いたとか雨が降ったとか、コントロールしきれないものがあるので、思いもよらないもの=お恵み、みたいな話になっちゃうんだけど、完全にコントロールできれば、思い描いたものを表現することは、理屈ではできるはずなので、僕は、失敗はすべて自分のせいだ、と思ってやっています(笑)。
−作品を作る上での一番のこだわりはどんなことですか。
自分の感性はいじめない、ということかな。例えば、きれい、という感覚は、学ぶものでもないし教えることもできない。もともと自分の中にある感覚だから、自分で気づくしかないんです。今は情報が過多だから、こう描かなきゃとかこう作らなきゃとか思っちゃうけど、本当に大事なのは、自分がどうしたいか。要するに、素直に作ることが大事なんですよ。一番難しいところでもありますけどね(笑)。
−作品を拝見しましたが、いろんなタイプの作品を作られるんですね。
まあ戦ってきた、ということですね(笑)。去年作ったものはもう作らないとか、お客さんを裏切るんだ、なんてことを自分に課したりしてきた。でも数年前から、すごく楽になりました。今は無理せず、こんなものを作りたい、と思うものを作っています。作ることを楽しめるようになった気がします。
−今野さんが考える、富士山の魅力を教えてください。
単純に形がシンプルできれい、というのもあるけど、独立峰だから他の山と違って「ひとりだね」という感じがする。そういう厳しくて、孤高な感じは、いいですね。
−どの季節の富士山が好きですか。
年に2、3回、富士山が真っ赤になる時があるんですよ。いわゆる赤富士。秋の終わりの夕方、でも夕焼けとは全く関係がない、空が真っ青な時に5分くらい。いつそうなるか予想はつかないけど、この空、この気配は、もしかしたら今日は赤くなるかもしれないぞと思った日は、気をつけて見ています。本当に真っ赤になって、木が1本1本ぐーっと迫って、山肌までもがわかるような感じになる。その富士山は、本当に感動的ですね。
1951年、横浜生まれ 1975年、日本大学芸術学部演劇学科卒業後、森脇直文氏・加藤春鼎氏に師事し5年間修行。1980年に独立し、静岡県富士郡芝川町(現・富士宮市)鳥並に築窯する。同年に第27回日本伝統工芸展入選、1993年には第24回東海伝統工芸展中日賞を受賞するなど、入選多数。静岡県内のカルチャースクールや自身の陶房で、陶芸の楽しさを教えてもいる。