−国際地域開発コーディネーターというのは、どんな仕事ですか。
それぞれの地域の人たちが幸せになり、かつ環境や自然を保全できるエコツーリズムをどうやって進めていけばいいかを追求し、そのコーディネートをする仕事です。地元の人たちと一緒に、その地域の自然や文化の中から観光資源となる宝物を見つけ出したり、アイディアを出し合いながらエコツアーのプログラムを考えたり、彼らがガイドをする時の見せ方やそれのにまつわる物語やメッセージの伝え方を工夫したりします。エコツーリズムによって地域の人たちがどんなふうに変わっていくかに、私はとても興味があるんですね。
−富士宮でのエコツアーのプログラムづくりも同様に?
そうです。以前は地元の人たちで非常に盛り上がっていた商店街が厳しい状況になっている中、年々増えている外国人観光客や富士宮市の外から来る人の呼び込みにもっと力を入れようという富士宮市の事業があり、私たちが外国人観光客を対象にしたエコツアーを考えるお手伝いをすることになったわけです。2年くらい前からですね。商店街の有志の人たちと毎月集まって、時には浅間大社を歩いたり、商店街を歩いたりして観光資源を探すところから始めました。同時に、そのメンバーで話し合いながら、英語で“富士宮まちなかマップ”も作りました。
−今、安藤さんたちが提供している富士山と富士宮をめぐるエコツアーは3種類ですね。
呉服屋さんで着物を着せてもらって富士山本宮浅間大社をお参りし、和菓子作りを体験してもらうものと、マウンテンバイクで富士山の恵みである豊かな水に育まれた里山をめぐるものと、浅間大社と宝永山の火口をトレッキングするという3種類のエコツアーです。富士山を周辺から見て楽しむ、富士山の恵みである水の豊かさと地域の人たちとのつながりを感じてもらいたい、というのが私たちの基本姿勢です。周辺が潤うことが環境保全につながればいいと考えています。
−富士山の恵みである水を使った観光資源にはどんなものが?
日本酒、和菓子、お茶、お豆腐、わさび、お蕎麦、和紙、ニジマスの養殖などいろいろあります。農業もそうですよね。田植えとか農業体験もエコツアーにできると思っています。
−外国人観光客の反応はどうですか。
富士山を間近で見たい、富士山と一緒に写真を撮りたい、という思いで来られる方が多いようで、着物姿で富士山と写真を撮れることをとても喜んでいます。着物を着る体験はどこでもできますけど、富士山と一緒に写真を撮れるのはここだけですからね。あと、ほとんどが人の多い東京を経由して来るので、富士宮ののんびりしているところがいい、チャーミングだ、という人も多いですよ。ここでしか味わえないものを、ゆっくり楽しんでもらえるといいな、と思っているので、何日か富士山の麓周辺に滞在してもらえるようなプログラムもこれから考えたいと思っています。
−安藤さんはそもそもゴリラの研究をしていたそうですね。アメリカ人研究者のダイアン・フォッシーとゴリラの交流を描いた映画『愛は霧のかなたに』がきっかけだと聞きました。
そうです。ちっちゃい時から動物はものすごく好きでしたけど、あの映画を観て「ゴリラって人間とコミュニケーションがとれるんだ」と。とにかくゴリラに近づきたくて、青年海外協力隊でアフリカに3年間、行ったりもしました。帰国後、今の京都大学総長で、ゴリラの第一人者である山極寿一さんにお会いしていろいろ相談していたら、2002年に、「ガボンでゴリラとチンパンジーの長期調査をやるので、“人付け(ひとづけ)”のために現地に入ってくれませんか」って。まさに望んでいたお話だったので、二つ返事で受けて2003年の春からずっとその仕事をしていました。
−人付け”というのは?
餌を使わずにゴリラを長期間追うことで人に対する恐怖心を取り除き、私たち人間に慣れてもらうことですね。森の案内をする現地の村人たちと一緒にローテーションを組んで、毎日、朝から晩まで森の中を歩いてゴリラを探し、見つけたらただただその後をついて行く、というのを繰り返しました。
−現地で初めてゴリラを見たのはいつですか?
最初に森を歩いた日です。私、動物運がいいんですよ(笑)。ただし、その次に会えたのはほぼ10ヶ月後。ゴリラの行動パターンがうっすらわかった頃で、数10メートル離れた距離でばったり会って、30分くらい向き合いました。こっちは見られずにいたけど、おそらく向こうは何度も私たちを見ていたんでしょう。最初は1頭でしたけど、なんだなんだ、という感じで10頭くらい集まってきた。その時に、そのグループのリーダーであるシルバーバックの顔をしっかりビデオに撮れて顔を同定できるようになったので、グループ・ジャンティと名前をつけて、そのグループに絞って人付けをすることにしました。その後も、毎日彼らの行動を予測しながら追い続けて5年、やっと、彼らが私たちを見ても逃げなくなり、朝から夕方までずっと追えるようになったんです。
−ゴリラの調査を進める中でエコツーリズムとも出会ったわけですね。
現地の村で毎年、私たちの調査を紹介するビデオ鑑賞会を開いてましたから、村の人にとってもグループ・ジャンティは特別な存在でしたし、ゴリラや森の大切さもよくわかってくれてはいたと思いますけど、貧しさで切羽詰まった状態になったら、そんなことは言っていられなくなりますよね。結局、地元の人が潤わないとゴリラは守れないんだ、まずは彼らの生活をどうにかしなければならない、というのを感じ始めた時に出てきたのが“エコツーリズム”でした。2015年からJICAの草の根技術協力事業で現地でのエコツーリズムプロジェクトが立ち上がり、いろんな事情があって私は、そのプロジェクトの現地調整員をやることになり、それが私のエコツーリズムの最初の仕事になりました。エコツーリズムの活動を通して、彼らの伝統や文化がとても豊かであること、それを守って今まで彼らが生活していたことを再確認できました。現在も継続中のそのプロジェクトのためにこの夏、ガボンに行った時には、彼らがお金目的ではなく自主的に活動している姿を目の当たりにしたり、「自分たちの自然や文化を、子どもたちや孫の代まで残すことができるのが嬉しい」と話すのを聞いてとても嬉しかったです。
−そのエコツーリズムプロジェクトを展開していたのが富士宮に拠点を置く一般社団法人エコロジックで、今、安藤さんは富士宮にいるわけですね。
そうです。エコツーリズムの考え方だけでなく、富士宮には富士山がある、ということが大きかったですね。富士山の見えるところに住んでみたい、という憧れだけでここに来ました(笑)。3年前のことです。
−初めて富士山を見たのはいつですか?
高校の頃、修学旅行で関西に行く時に乗った新幹線から見たはずですけど、記憶に残ってないですね。でも、富士山に対する憧れみたいなのはありましたよ。大学生くらいの頃に作った“死ぬまでにやりたいこと”リストに“富士山に登頂する”と書いてましたから。他にはフルマラソンを走るとか、クジラを見るとか。もちろん、ゴリラに会う、もありましたけどね。
−なぜ憧れていたのでしょう。
山は好きなんですよ、見るのも登るのも。生まれ育った秋田市からは奥羽山脈が見えたし、大学時代に住んでいた帯広市からは十勝岳が見えたり、ずっと遠くに雪をかぶった山が見えるところに住んでいましたからね。その中で日本一の富士山に憧れたんだと思います。それほど多くの山に登ったわけじゃないですけど、登った時の達成感を富士山で味わいたいな、と思ってました。
−間近に富士山を眺めて暮らすようになっておよそ3年。富士山に対する印象は変わりましたか。
こんなにいろんな顔をする山なんだ、と驚いています。色も、雲も毎日変わる。恥ずかしいことに富士山は年中雪をかぶっているものだと思ってもいたので(苦笑)。富士宮からは富士山がとても大きく見えますから、毎日の変化がよくわかるんでしょうね。遠くから見ていたら味わえないことだと思います。
−どんな富士山が好きですか。
雪のない時期、雨の後にすっかりきれいに見える富士山です。木々の緑の違いとか細かいところまでくっきり見えて、こっちに迫ってくるその迫力はすごいです。雪をかぶった冬の富士山も美しくてきれいですけどね。姿形はもちろんですけど、文化的な面から富士山を深く知るにつれ、これまでとは違う魅力を感じているところです。
−富士山にはもう登頂しましたか。
まだです。子どもと一緒に登頂したくて、一昨年から登り始めたんですが、最初は七合目、今年は八合目まででした。体力的にはまだまだ余裕がありましたけど、まだ小学生の子どもの心が折れました。登るのが苦しいし、遠くの景色はきれいだけど目の前は瓦礫ばっかりですからね。来年、再来年くらいには頂上に行けるかな。まあそこはゆっくりやろうと思ってます。
秋田市出身 帯広畜産大学大学院畜産学研究科畜産環境学専攻修了後、青年海外協力隊の一員としてアフリカ・マラウイ共和国の国立公園で保護官として3年間活動。一旦帰国後、2003年から西アフリカ・ガボン共和国で京都大学理学研究科人類進化論研究室教務補佐としてゴリラの人付けや生態調査を行う。2015年に帰国後は、富士宮市で一般社団法人エコロジックのスタッフとして富士宮とガボンで活動中。直営する縁やの店長でもある。一児の母。
一般社団法人エコロジックHP:http://ecologic.or.jp/