−機織りの勉強を始めたきっかけから教えてください。
僕は32、33歳まで音楽ばっかりやってたんですよ。だけど音楽だけで食べていけるのは本当に一握りの人だけ。それで何をしようかな、と考えていた時に、テレビで手織り教室が紹介されてるのを見たんです。もう21世紀だというのにいろんな人が習いに来て楽しんでいるのを見て、手織りってすごいな、おもしろそうだな、と思ったのがきっかけです。富士吉田市は郡内織物で有名で、うちも祖父の代までは機屋をやってたらしいですけど、機械の機屋さんばっかりだから、手織りをやっている人は見たことがなかったんです。
−ご自宅に機織り機は残ってなかったんですか。
なかったですね。親戚の家などにはいっぱいありましたけど。
−勉強はどうやって?
独学です。インターネットで機織りに関する古くておもしろそうな本を見つけては片っ端から買って読んでました。で、最初はシンプルな手織り機を買って、裂織りとかをやっていたんですよ。でも決まった模様しか織れないし、模様を織るときに糸を浮かせないといけない。その糸がほつれたり引っかかったりすると布も痛むし危ないな、と思って。それで、自分の織りたい模様や、丈夫で長く使ってもらえる布を織るためには別の機織り機が必要だな、と考えたんです。でもだからと言って安易に海外の高い機織り機を買いたくはなかったので、自分で作るしかないな、というところに行き着いたんです。最初にシンプルな仕組みの“リジット機”という卓上機織り機を改造してみたんですけどすぐに飽きちゃったので(笑)、それをもとにオリジナルの織り機を組み立てて改造を重ねていった、という感じです。その過程でもまたいろんな本を読んだり、動画で見た、電気を使わずに模様をセーブするラオスの機織り機の仕組みを研究してコンピュータ式にしたり・・。
−そのプログラミングもした、ということですか。
そうですね。いくつかあるプログラミング言語の中からどれを使うのがいいのかを本で調べて、本を読みながらプログラムしました。全く未知の分野だから、予想以上に時間もかかったし、途中で不安になったりもしましたけど、不思議なもので、ずっと考え続けていると夢の中にヒントが出てくるんですよ。それをベッドの横にいつも置いてあるちっちゃいノートに書きつけて実際にやってみるんですが、それが成功する場合もあるんですよね。同じようなことが、機織り機の仕掛けを考える時にも何度かありました。試行錯誤しながら、最終的に今、使っているドビー式機織り機ができたんです。作り始めから完成までは1年くらい。織物の勉強を始めてから、約5年経ってましたね。
−それがさっき拝見した手織り機ですね。あれは全て自分で?
そうです。ホームセンターで買ってきた材木をちょっとずつ加工してパーツを作ったり、インターネットで部品を調達したりして作りました。
−元々手先が器用なんですか?
いや。とくに器用なわけじゃないけど、道具を駆使すると素人でもある程度できるんですよ。かかった経費は、高く見積もっても15万円くらいですかね。パソコンも、複雑な動きはしないので、5000円くらいで売っている教育用パソコンで十分だったんですよ。
−ドビー式機織り機には、どういう特徴があるんですか。
ドビーハンマーという部品を使うことによって、縦糸が1本ごとにではなくグループごとに持ち上がるのが特徴のひとつですね。だから模様もシンプルで、カクカクした感じになる。全部を一人でやるには、これくらい合理的でシンプルな方がいいかな、と。僕のやっている織り方のルーツは、シルクロードの頃にまで遡ることができるんですよ。
−名前の由来が半分わかりました。rumbeはどこから?
音楽活動をしていた時のバンド名です。手塚治虫の『三つ目がとおる』という漫画の中に出てくるキャラクターの名前です(笑)。
−機織り機にスピーカーもセットされてましたけど、何を聴きながら織っているんですか。
自分が昔作った曲を流したりしています。僕がやっていたのは2人組のバンドで、僕がギターやベースやドラムの代わりのハンドパーカッションや何種類かの楽器を弾いて、相方が歌ってた。ジャズが混じった、ちょっと落ち着いた感じの音楽です。
−音楽と機織り、共通点はありますか。
僕は演奏以外にコンピュータを使った打ち込みもやっていたので、コンピュータを使って布を織るのは、僕の中では共通点が多いです。いろんな技法を応用して柄を反転させたり編集したりする発想も、音楽をやっていた時の打ち込みのシミュレーションとかアレンジの発想をちょっと利用していますね。
−性に合っているんですね。
合ってますね。音楽も、一人で編集してノリをどんどんコントロールしていったり音を磨いていく作業が長かったので、黙々と1段1段織っていく作業は、全然辛くないんですよ。織る時のリズムに上手く乗れると、ひとつひとつの作業が、何も考えないでもうまいタイミングで動いていく時間があったりして・・。そういう時間を中断されたくなくて、スマホはミュートにしていることが多いですね。
−どんなものを作っていきたいと思っているのでしょう。
音楽は物体がなくて、聴いたら通り過ぎちゃうようなものじゃないですか。でも自分が織った布で作ったものは生活の一部として存在できる。それがいいですよね。今は、ランチョンマットとか名刺入れとかバッグとか、そういう小物を多く作って、野外イベントとかに出店して売っています。冬に自分でリフォームした新しい工房には大きなシルクスクリーンの感光機も用意するので、これからは染めの技法を組み合せたインテリア用品みたいなものをもっと作っていきたいし、おもしろい柄があるストールとかも作りたいな、と思ってます。いずれは、自分で紡いだ糸で織りたいですね。
−機織りをしていて一番楽しいのは?
機織りって布の幅や厚みや柄のデザインとか色の組み合わせを決める設計段階が結構長いんですよ。仕上げで洗った時に生じる若干の縮みとかも計算に入れて織ってみて、思い通りにできたりすると、よかったなと思うし、初めての織り組織のものにチャレンジして、うまくできた時は結構嬉しいですね。
−ご自宅から富士山は見えるんですか。
小さい山みたいなのが邪魔をして、家からだとてっぺんしか見えないですけど、毎朝犬と散歩に行くので、富士山は毎日のように見てますね。
−子どもの頃は富士山にどんな印象を持っていたんでしょう。
僕に限らず、この辺の人はみんな、身近すぎて、その質問には答えられないと思います(笑)。
−登ったりもしてないんですか。
僕が出た高校は毎年秋に富士山強歩大会、というのをしているんですよ。麓にある富士パインズパーク(標高900メートル)から男子は五合目、女子は四合目までの区間を往復する(男子の距離は約43キロ、女子は約37キロ)。在学中、1回は天気が悪くて中止になりましたけど、2回は往復しています。
−ちょっと楽しそうですね。
走らなければ楽しいと思います。とくに下りが大変なんですよ、足がガクガクになって(笑)。
−富士山に対する意識が変わるような経験はありませんでしたか。
地元のケーブルテレビに勤めていた時に、富士講の人たちと一緒に富士山の頂上まで登るという取材についていったことですかね。結局、翌日は嵐で、宿泊した八合目半あたりの山小屋からそのまま下山してきたんですけど、あれはすごい経験でした。空気が薄くなっていくので、僕はだんだん頭が痛くなっていたんですが、富士講の人たちは昔の格好をして、杖をついて、“六根清浄”と唱えながらただただ登っていく。そのうち石ばっかりの世界になっていくので、登った人が“ここに神様がいるんだ”という感じになるのもわからないでもないな、と思いました。あれは異次元の世界でしたね。
−それ以降、富士山に登ったことは?
ないです。むしろ眺める方が好きです。人の多い夏の時期を避けて、富士五湖周辺の富士山が見えるキャンプ場に一人で行っては富士山と湖とか、富士山と月とか、富士山と山とかを静かに眺めています。キーンとした空気の中、雪で光っている富士山も好きですし、4月とか5月くらいに、農業を開始する目印にする“農鳥”が現れて、ああ、冬は終わったんだな、春の始まりだな、と感じたりするのも楽しいですね。
−キャンプをしながら、どんなことを考えているんですか。
とくに何も考えてないですよ。ただ自然と一体化しています(笑)。自然の景色を見たり自然の中に入ったりすると、人間の存在が小さく見えたりするじゃないですか。その中で火を燃やして暖をとったり、その火で簡単な料理を作ったり、テントの中で凍えないように寝たり、人間の基本的な生活のための技術を使ってひと晩過ごして帰ってくる、という体験をするのが好きなんです。自分で工夫して作った最低限の道具を使って自然の中で過ごすことは、自分の創意工夫とかにも深く関係していると思います。
−富士山の魅力はどこにあると思いますか。
見方も、どこに魅力を感じるかも、人それぞれですよね。そういう、いろんな考えや見え方があるというのを人間の考え方に当てはめると、起きてくる様々な出来事も全部、その人の考え次第でどうにでも変えていけるものだと思ったりするんですよ。僕は、わかりやすい勝ち方はそんなに重要じゃない、と思っていて。あからさまに“勝った”という感じじゃなくても、結果的によい方向に進んでいるならいいんじゃないの? って。そういうことを、富士山を眺めながら思ったりします。どうにもならないことも、その人の工夫次第でなんとかなると思わせてくれるところが、魅力かもしれないですね。
本名・佐藤良平 1977年2月22日生まれ 富士吉田市出身。高校時代は吹奏楽部に所属し、並行してバンド活動をしながら独学で音楽理論を学ぶ。高校卒業後は2年間、東京の音響の専門学校でミキサーや録音の技術を学ぶ。卒業後、地元に戻りケーブルテレビに就職しながら音楽制作を続ける。その後、再び音楽活動に集中しようと上京するが、音楽で食べていくのは難しいと判断し、また地元に戻る。その後、機織りを始め、現在に至る。
10月7日(土)、8日(日)には、第二回ハタオリマチフェスティバル in 富士吉田(http://hatafes.jp/)に参加(時間:10時〜16時 会場:富士吉田市 まるさくたなべ周辺)。
HP http://rumbedobby.jp/