−400年続いた御師の家をリノベーションして残そうと思ったきっかけは?
一志 両親からも祖父母からも「家を継げ」と言われたことはなかったんですが、祖父に言われた「お前は御師の18代目だ」という言葉は心に残っていて。東京のインテリア専門学校を卒業して都内の木工所に勤めたあと、さらに木工修行するための場所を探して日本各地を旅していたんですが、各地で地元を盛り上げる活動を頑張っている人たちに出会い、また地元を離れて改めて御師の歴史や文化の深さを知って、この家を含めて残していきたい、という気持ちになりました。
奈津子 御師をやっていたのは14代目まで。その後、夫のおばあちゃんが13年くらい前までここで“富岳荘”という民宿をやっていました。私たちもいずれ宿泊業をやりたいと思ってはいたんですが、許可を取るには今の建築基準法に合わせた建物にしなくてはいけない。その資金をどう調達しようかと思っていたら、2016年に御師の家の保全のための工事費の半分を市が助成してくれるという話が出て来て、それを機に足りない分はクラウドファンディングで集めることにしてリノベーションしました。基礎は地元の大工さんにお願いして、内装は全部、夫がやりました。半年くらいかかりましたね。
−複合型のゲストハウスにしたのは?
奈津子 この家と御師の文化を伝えていくというのが私たちの目的の一つですが、宿泊業だけで御師の文化を伝えるのは難しいのかな、と思って。もともと私が興味のあったカフェと夫の本業である木工の両方を活かせる空間ができればいいな、と思って複合型ゲストハウスにしたんです。
一志 宿泊だけじゃなくて、地元の人にお茶をしに来てもらったり、自分たちが企画した御師の勉強会や映画の上映会とかに来てもらったり、他の方にイベント会場として使ってもらったり、いろんな人にここを知ってもらったり活用してもらいたかったんですよ。“御師”というとどうしても堅苦しく思われがちなので、間口を広くしたかったというか。
奈津子 興味のない人に無理に、とは思ってませんけど、来た人が興味を持ってくれれば、御師についてもさらっと紹介できますからね。
一志 とにかくいろんな人に御師のことを知ってもらいたい。知ってもらうことでちょっとずつ何かが変わっていくかな、と思って。御師の家は個人住宅なので、取り壊す人も増えて来てますからね。
−一番知って欲しいのはどんなことですか。
奈津子 やっぱり富士山が信仰の山だったっていうことですね。
一志 そしてそれを支えた御師という存在とその文化、です。
奈津子 それを知らない人はすごく多いと思います。私も最初は、富士山信仰の歴史も御師の文化も全然知りませんでしたから。例えば、山頂の峰は八葉と呼ばれていて、それぞれの峰に八葉九尊の仏の名前がつけられていたとか、八葉という言葉が元になって、今、“お鉢巡り”とも呼ばれているとか、勉強して初めて知りました。宗教心を持って欲しいということではなくて、そういう歴史があったと知ることでここから富士山に登る人、富士山を見に来た人の気持ちも少し変わるんじゃないかと期待しています。海外からのお客さんは、富士山が見えないと本当にがっかりしちゃうけど、せめて富士山にまつわるいろんな文化だけでも伝えられたらな、とは思ってますね。
−ゲストハウスのお客様の反応はどうですか。
一志 “現代版御師のいえ”なので、本来の御師の仕事である祈祷とかはできないんですが、外国人のお客さんも日本人のお客さんも、こういう古い日本の家に泊まるのは初めてだとか、御師の文化を初めて知ったと喜んでくれています。もっと御師のことを知ってもらうために、いずれは北口本宮冨士浅間神社の、富士山吉田口登山道の起点から富士山に登るようなツアーもできたらいいな、と思っています。五合目からじゃなくて、昔の信仰者はここから登っていたんだよというのを、少しでも多くの人に知ってもらえたらいいな、と思って。
−やはり御師目線ですね(笑)。
一志 (笑)。御師として、ということでいうと、山じめの行事である火祭りを僕らはすごく大事に思っています。とくに2日目の夕暮れ時に行われるすすき祭り。それには御師が出たりするので。
奈津子 すごくおもしろいお祭りですよ。そっちの方が、私たちは好きだよね。
一志 うん。火祭りよりもすすき祭りの方がより“神事”という感じがします。浅間神社の境内の真ん中にある松の周りを、前日に上吉田を練り歩いた2基のお神輿を担いでみんながぐるぐる回って、一般の人もすすきの玉串を持って一緒に回るんですが、火祭りとは違う荒々しさがあって、いいんですよ。
奈津子 その後に灯りを消してお神輿を本殿に戻す時には絹の覆いをかけて赤いシートの上を通っていく。本当に山の神さまを大事にしているなというのを感じます。
−御師については詳しくわかっているんですか。
奈津子 まだまだだと思います。祈祷の言葉も家によって違うみたいだし、具体的にどういう祈祷をしていたのかも、よくわかっていないみたいです。御師は国の偉い人の相談に乗ったりしていろんな情報も握っていたからスパイ的な役割もあったらしいとか、いろいろ教えてもらってはいるんですけどね。お客さんの質問にも答えられるように、もっともっと勉強していきたいです。
−幼い頃の富士山の印象を教えてください。
一志 当たり前すぎてとくに何も(苦笑)。やっぱり一度地元を離れてからですね。東京から中央高速をバスで帰って来る時に富士山が見えると、“ああ、帰って来たな”と思うようになって、存在を意識するようになったというか。今は車を走らせていてもつい見ちゃいますね。表情が毎日変わるので、富士山を見て季節を感じるようになりました。
奈津子 私はいつか登りたいとずっと思っていて、20歳の頃に大阪の大学の友達と東京からのツアーで登頂しました。ご来光を見た時にはすごく感動したし、生まれ変わるような気持ちになりましたね。その後、月の満ち欠けに沿った農法を学びにコスタリカに行って、23歳くらいで鳴沢村に有機農業をしに来てからは毎日のように富士山を間近で見ていましたが、なんだろう、このすごさは、といつも思ってました。その頃知り合った生年月日と大学での専攻が一緒だった女の子と、仲間も交えて誕生日に登ったこともあります。すごくしんどかったけど、いろんなことに恵まれて、富士山と自分はご縁がある、と感じた登山でした。ただいろいろ迷っていた時期だったので、「よし、メキシコに行って先のことを考えよう」と決めて、お世話になっていたところで最後の収穫祭をした時に、夫と出会ったんです(笑)。
−運命的な出会いですね。で、メキシコには?
奈津子 1ヶ月弱くらい行って、ここに戻って来て結婚したという(笑)。そこから私も夫と一緒に御師の文化を勉強するうちに、この文化を伝えていきたい、と思うようになったんです。
−ちなみに一志さんは富士山頂には?
一志 中学の時に、遠足みたいな感じで麓から五合目まで登ったりしましたけど、頂上は一回だけです(笑)。高校3年生の時にバスケット部の友達と登って、ご来光を見てそのまま帰って来ました。ご来光を見た感動というよりも、ああ、登ったね、みたいな達成感が大きかったですね。地元の人は、身近すぎてわざわざ頂上まで登りに行くのもなあ、と思ってる気がします。今は機会があったら登りたいと、僕は思っていますけどね。
奈津子 子どもたちが大きくなったら、みんなで一緒に登りたいな、と話しているんですよ。まだしばらくは無理だと思いますけど。
−好きな富士山を教えてください。
奈津子 雪化粧した富士山ももちろん好きですけど、夏の富士山も好きですね。とくに赤富士。赤と緑がすごく綺麗で男らしいというか。緑色の富士山は遠くからは見えないから、ここならではの楽しみ方だな、と思いますね。
一志 山小屋の灯りが見えたり、ハイシーズンになると登山者のヘッドライトで人の流れが見えるので、夏の夜の富士山は好きですね。あと、満月の夜空に浮かび上がる富士山や表面が寒さでツルンツルンに光ってる富士山も好きです。
奈津子 ここに住んでいるからこそ、気づけるちょっとした違いってたくさんあるんですよ。ポストカードや写真では見られないリアルな富士山というか。そういう富士山に触れるたびに、贅沢だな、ここに住めてラッキーだなって思いますね。
−お子さんたちにはどう富士山のことを伝えていますか。
奈津子 まだ小さいので“今日は富士山見えるね〜”と話したり「富士の山」を歌ったりくらいですね。
一志 あとは“今日、泊まっていたお客さんは、これから富士山に登るんだよ”と言ったり。
奈津子 だから富士山が見えると“あ、富士山だ!”って嬉しそうですし、大きくなったら富士山に登りたいと言ってますね。
−息子さんは19代目になるでしょうかね。
奈津子 それは子どもの選択に任せます。興味のある方向に進むのが一番だと思うので。
一志 うん。ただまあいつでも戻って来られるようにここをキープしておけたらいいな、とは思いますね。
おおがんまるひとし 1985年 富士吉田市生まれ
おおがんまるなつこ 1983年 大阪市生まれ
2013年に結婚。もうすぐ4歳の息子さんともうすぐ2歳の娘さんがいる。2月には新しい家族も増える。おふたりとも趣味はアウトドア。木工所のfugakuは冬季も営業中だが調和や平和をテーマとする奈津子さんの屋号であるhitsukiと名付けたカフェとゲストハウスは、2019年5月に営業を再開する予定。