−井上さんがいくつか原稿を書かれている『古地図で楽しむ富士山』(風媒社刊)は、登山案内図などの絵図や曼荼羅、鳥瞰図といった古い資料を示しながら信仰の山である富士山の歴史、人々との関わりなどに触れさせてくれる本でした。紹介されている登山案内図の実物を、じっくり見ることができたらおもしそうだなと思ったりしていました。昔の人はあれを見ながら富士山に登っていたわけですね。
そうですね。それぞれの登山口から山頂までの辿るべき経路、その周辺の修行の場所、祈りを捧げる場所、身を浄める場所も示されていたりします。それだけではなくて、曾我兄弟の墓がここにあるよとか、かつて沼だった浮島周辺には名物に鯉や鮒、鰻の蒲焼があるよといったことも書かれている。1枚にかなりの情報が詰め込まれていますから、観光ガイドマップに近い性格を持っていたのだろうと思います。江戸時代、一般の人の移動は制限されていましたが、寺社や霊山の参詣には通行手形が出ましたし、遠くから富士山に来るとなるとおそらく、一生に一度の旅でしょうから、信仰心だけでなく、自分の知らない世界を見聞するという意味合いもあったようです。道中で見聞したことを詳細に書き残した富士山の登山記が数多くありますしね。お伊勢参りや四国八十八ヶ所霊場巡りも同様だったと思います。
−当時の人はどこでそういった絵図を手に入れていたのでしょう?
“吉原という宿場で富士山図を16文で買った”という江戸時代の記録もありますし、登山案内図の中に「山神丸(サンジンガン)という薬をお求めになった人にはこの絵図を景品で差し上げます」と小さく書かれているものもあります。おそらく富士登山に来た人や東海道を往来する人たちが麓の宿場などで購入したり景品などでもらい、その絵図をお土産に受け取った人が「じゃあ、富士山に登ってみようか」とそれを手に富士山にやって来たのではないかと思います。
−最も古い絵図はいつ頃のもので、現存するのは何種類くらいですか。
今、確認できている一番古い絵図は1680年、江戸時代の初めに描かれたものです。その後しばらく間が空いて、江戸時代中後期以降にいろんな絵図が出てきます。江戸時代の初めに富士登山する人は限られていたけれど、印刷技術の発達によって絵図が広く流布するようになったことや、旅の文化が定着することで、江戸時代中後期には富士山に登る人がかなり増えていったのではないか、と思います。私は今、他の研究者と一緒に江戸時代に使われていた登山道の報告書を作っていまして、かつて表口と呼ばれていた大宮口、村山口、現在の富士市、富士宮市から登る絵図を確認していますが、そこだけで50種類近くありますから、表口以外の登山道の絵図も合わせたら100種類くらいはあると思います。
−古地図に書かれている道は現在も歩けますか。
歩けなくはないです。高速道路が開かれたことで完全に分断されてしまっているところもありますが、市街地に残っている石造物を目印に、ある程度辿っていくことはできます。そこからは多分、江戸時代や明治時代の人が見たのと同じ富士山の風景が見えるのではないかと思います。ただし山の中の道となると整備されているとは限りませんし、遭難の危険もありますし、個人所有の土地だったり、届出が必要な地域もありますから、十分に情報を集め、注意して歩いていただきたいです。
−富士山のどんなところに最も興味を惹かれているのですか。
私が富士山について調査研究を始めたのは富士市に奉職してからです。博物館などで様々な資料に触れていますが、文化人類学を専攻していたこともあり、信仰の対象としての“聖なる富士山”ではなく“俗っぽい富士山”に興味を持つようになりました。地元の人は富士山をどんなふうに商売に活用していたのかとか、富士山の商品価値とか、富士山のアイコンとしての役割とか。富士山に関するいろいろなものを集めていると、それぞれの時代の人たちの、富士山をとことん利用し尽くそうという気持ちが感じられて、それが非常におもしろいです。尊い山であるからこそ、そこから何かをいただこうという人々の想いを強く感じますね。
−商売に活用されていた具体的な例にはどんなものが?
これこそ商業的な使われ方の代名詞だと思うのは“引き札”という広告チラシです。実にたくさんの引き札に、富士山が描かれていたんですよ。例えば淡路島の染物屋さんの引き札に、恵比寿さま、大黒さまと並んで富士山が描かれていたり、誰でも使えるように、お店の名前を入れるスペースが空白になっている引き札にも富士山が描かれていたり。おそらく富士山は商売繁盛の縁起物であり、日本一儲けたいという願望の現れであり、いろんな意味合いを持っていたのでしょうね。しかも富士山が見えない地域の引き札にも富士山が描かれているというのが、おもしろいなと思います。
−絵葉書などを含め、当時から富士山を扱ったグッズも多かったのですか。
明治以降爆発的に増えます。当時の登山道や山小屋の様子、人々の登山装束がわかる絵葉書も多いです。中でも私が驚いたのは、富士山の“ステレオ写真”です。専用の道具を使うと、平面的な景色が3Dで見られる写真です。明治、大正の頃に海外から来たカメラマンが、レンズが2つついた特殊なカメラで日本の風景や風俗を撮って海外に輸出していたんですが、富士山が写ったものが非常に多い。この風景をなんとかしてリアルに伝えたい、という当時の外国人の熱意を感じます。
−外国人にとっても富士山は、当時から魅力的だったわけですね。
そうです。富士山のアイコンとしての役割もおもしろいですよ。私が訳させていただいた『富士山 信仰と表象の文化史』(慶應義塾大学出版会刊)の中で著者のH・バイロン・エアハート氏は、外国人から見た商業化された富士山、アイコン化された富士山についても書かれていますが、“チャレンジコイン”に関する記述がとても興味深かったです。
−“チャレンジコイン”?
米軍が自分たちの部隊の目印にみんなでお金を出し合って作るコインで、日本に駐留した部隊の多くは富士山の図柄を選ぶというんです。米軍にとって戦時中は敵国の象徴だった富士山が、戦後は友好の象徴、平和の象徴になる。それぞれの時代や人によって、富士山の意味や価値は移り変わると書いてあって、それがとてもおもしろいな、と思いました。しかもそのことで富士山の均整の取れた姿形の美しさや神聖性は少しも揺るがない、とも書かれています。日本の研究者は取り上げない視点なので、私もそれはひとつのテーマにしていきたいなと思っています。聖なる山としての富士山は、たくさんの方が研究されていますからね。
−学芸員になった経緯を教えてください。高校卒業後に進学した大学では総合政策を勉強されていたとか。
付属の高校から上がったものですから、将来に明確な目標があったわけではなく、大学3年の時にはエントリーシートも出しています。ただ、その時の指導教官の先生が大阪の国立民族学博物館で中国の食文化を調査研究されていた方で、先生が中国で食べた料理のスライドをただひたすら見るという講義が非常におもしろかったんですよ。自分が興味のあることを調査し、そこで撮ってきた写真でご飯が食べられるんだ、と思ったのが文化人類学、学芸員の仕事に興味を持ったきっかけです。先生には専門的に学ぶことを勧められたので、海辺育ちで縁のなかった山の暮らしを調べてみたいとお話しして、京大の先生をご紹介いただきました。大学院在学中はずっと長野県栄村の秋山郷で山菜やきのこの調査をしたり、木鉢職人さんからいろいろな話を聞いたりしていました。就職のことを考え始めた頃に、たまたま富士市が民俗学の学芸員を募集していたので、採用試験を受けてこちらに来たというわけです。
−学芸員の仕事のおもしろさはどんなところにありますか。
自分が興味のあることを調査することはもちろん、調査を通じて自分が見聞きしたことを、博物館の展示や書き物で他の方々にお伝えできることですね。例えば、私が何年もお話を伺っていた秋山郷の木鉢職人の方は、舞茸の生えるミズナラを山の中に500本以上知っていて、しかもどの時期にどのミズナラの木に舞茸が出るかもご存知でした。舞茸採りに同行すると百発百中です。そういう知識を山に住んでいる人たちはたくさん持っているんですよ。今は山と人々の関わりはどんどん薄れていく一方ですが、さまざまな山の知識を生かしながら山の人たちが暮らしてることを伝えていきたいし、私が山の中で見聞きし、山の人々に教えてもらったことはなんらかの形で残していく必要があると思います。それがまた将来、なにかの形に役に立つかもしれませんからね。
−富士山を初めてご覧になったのは?
中学の時に、親と一緒に東京に遊びに行く新幹線から見たのが初めてだったはずです。ああ、これが富士山か、でっかいなあ、という感じでした。その後も、新幹線から見る程度で、こちらに来るまでは全然ご縁がありませんでした。富士山は一年中雪をかぶっていると思っていたくらいですから(苦笑)。
−どこから見る富士山、どんな富士山がお好きですか。
印象だったのは、初めて富士市に来てた時に見た、大きく裾野を広げた富士山です。あと初冠雪の時とか、冬の天気のいい夕暮れ、麓まで雪に覆われた富士山が赤く染まっているのを見ると、ここに住んでいてよかったなとしみじみ思ったりもします。他にも西から新幹線で帰って来た時に、新富士駅に向かってスピードを緩めるあたりから見える富士山や、東名高速の富士川サービスエリアあたりで見える富士山、東京からですと愛鷹山を過ぎてバンと見える富士山はいいなあと思います。出張からの帰り、富士山が見えると、ああ、帰って来たなとちょっとほっとします。
1977年 芦屋市生まれ 関西学院高等部から関西学院大学総合政策学部総合政策学科に進学し卒業。1999年、京都大学人間・環境学研究科へ進み、2004年、同大学院人間・環境学研究科博士後期課程単位取得退学。2004年から富士市に奉職し、富士山かぐや姫ミュージアムの学芸員を経て現職。タイガースの熱狂的なファンで、シーズン中はナイターでタイガースの試合を見るのが楽しみ。「去年くらいから、今、中学生の長女が一緒に見てくれるようになった」と嬉しそうに話した。