−『富士山事記(ふじさんことふみ)』のことを教えてください。
地元の高校や図書館などに配布したり、会費を頂戴している会員の方に送付しているA5判、フルカラー10ページの小冊子です。発行しているのは富士山文化舎という組織で、富士山の世界遺産認定を受けて、富士スバルライン五合目の売店や神社、吉田口の山小屋など有志の方たちが立ち上げました。そこで定期的に富士山に関する様々な情報を発信するものを作ろうとなったときに、ありがたいことに私に声をかけてくださって・・。未経験のことばかりで不安もありましたが、とにかく富士山が大好きで、みんなに富士山をもっと知って欲しい、という気持ちの方が強くてお引き受けしました。
−企画編集担当と名刺にありますが、原稿もイラストもデザインも?
もう全部です(笑)。基本的に“スーパー手作り”で、時には全く自信のないイラストまで描いています。心臓に毛が生えていますよね(苦笑)。最初は私の大好きな和紙を使って表紙を作っていましたが、途中から山梨県富士工業技術センターにご協力いただいて昔の甲斐絹の画像を、今は富士吉田織物協同組合などにご協力いただいて郡内地域の織物の画像を表紙にしています。季節や世の中の出来事などを意識しながら表紙を選んだり、企画を立てたりしています。
−今は何号ですか。
今は2ヶ月に1回のペースで作っていて、最新号は46号です。財源的な余裕はありませんが、定期的に読みたいと言ってくださる方を大事にしようと、富士山文化舎の理事たちが情報発信の重要性を感じて踏ん張ってくれています(笑)。
−菅田さんは『富士山事記』の制作以外にどんな活動を?
依頼があれば麓周辺や五合目で富士山の文化や自然について解説させていただいたり、学校で生徒さんにお話をさせていただくこともあります。この春からは、こちらの忍野村の森の学習館で忍野村の自然や文化などを紹介する展示の作成や解説などを担当しています。
−具体的にはどんな展示をしているのでしょう。
今は地元の大工さんからもらってきたいい香りのするカンナ屑の中に木の実で作った魚にクリップをつけて泳がせ、マグネットをつけた竿で釣りをしてもらったりしています。それ自体はさもない、どこにでもありそうな企画ですけど、その流れで子どもたちに「石に磁石はつくのかな?」と問いかけています。「石にはつかないよ〜」と返ってくることが多いですが、私が自宅の庭から持ってきた磁鉄鉱の成分が多い富士山の溶岩にはマグネットがピタリとつくので「なんで〜?」となる。そしたら「これはね」と富士山や忍野村の地質や湧き水の話をちょこっとします。ちっちゃいことでいいので、何かひとつ覚えて帰ってもらえるような富士山の話や忍野村らしさがここで表現できたらな、と思っています。他にも、リースや忍野村名物のトウモロコシの皮で作ったかごなどの作り方、忍野村周辺で採れる薬草の利用方法など自然に寄り添う地域の暮らしや文化などを紹介したりもしています。自分が富士北麓地域で暮らしていて楽しいと思うことはなんでも伝えたい、という一心で活動していますが、何をしている人間か、最近、自分でもよくわからなくなってきました(苦笑)。
−菅田さんは地元のご出身ですか。
出身は神奈川県の茅ヶ崎です。遠くに富士山を見ては父に「来年は登ろう」と言われて育ちましたが、一度も登らないまま山中湖に引っ越してきました。
−きっかけは?
自然が大好きな主人と「自然を身近に感じられるところに住みたいね」と。知り合いもなんのツテもありませんでしたけど、主人の勤務先である神奈川の通勤圏内でもあったし、何より子どもの頃から見ていた日本一の富士山がこんなに間近に大きく見られるのが決め手でした。それが25年前です。茅ヶ崎も自然は豊かですが、身近さやスケールが全然違いますね。
−富士山に関する活動を始めようと思ったのは?
最初の数年間は自分が富士山と北麓地域の自然を楽しむのに夢中の日々でしたけど、山梨県環境科学研究所(今の富士山科学研究所)の“カレッジとカレッジ大学院課程”などで、研究者の先生方の講義を2年間無料で受けられる機会に恵まれたのが大きかったです。理系の勉強は全く苦手だったのに、先生方のお話をうかがううちに、新しい視点から富士山を見るおもしろさに気づきましたし、さらに自分で勉強することで点でしかなかった富士山に関する知識や情報がつながって、それを誰かに話したくなった、ということですね。
−印象的だった話を幾つか教えてください。
水には分子レベルで軽重の違いがあって、水の分子を調べることで麓の湧水が富士山のどの辺りの標高でしみ込んだかわかる、というお話はおもしろかったです。あと、当時の所長の荒牧重雄先生とご一緒させていただいた機会に「月の海と呼ばれている月の黒く見える部分は、富士山と同じ玄武岩質なんだ」というお話をうかがったときには鳥肌が立ちました。
−富士山に関わる最初の活動は?
山梨県富士山五合目総合管理センターの富士山五合目周辺公園利用協議会の自然解説員です。15年くらい前ですね。そのうちに、五合目だけじゃなく五合目から上のことももっと知らなきゃいけないと思うようになり、たまたまお話をいただいて山岳ガイドも始めました。正直、自分の力不足に向き合うことが多くてとてもきつかったですが、大変勉強にもなりました。富士登山は、登山靴もザックも初めて、という人たちを安全に登らせ、時には嵐や真っ暗闇の中をちゃんと下山させるベテランガイドさんたちのスキルやそれぞれに歴史を持つ山小屋さんたちに支えられているんだ、とすごく感じましたし、ポジションが違うことで十分な交流がはかられているとは言えなかった五合目と五合目から上の世界と麓の世界をつなげられたら素敵だな、と思うようになりました。そのために何か私にできることがないかと考えて、ここに暮らすようになって知ったこと、へ〜と驚いたことをいろんな形でみなさんにちょこちょこっと伝え始めたわけです。その後、3年にわたって、富士山吉田口環境保全推進協議会という山小屋さんの組合が無料で配布していた『山小屋だより』で各山小屋さんや富士山の自然や文化の紹介をしていたこともあります。
−そういった様々な活動をする菅田さんが今、願うことは?
ひとつは、山岳ガイドや周辺のガイドに若い人たちがもっと参入しスキルを上げることで、1年を通してガイドの仕事をし、家庭を持って子どもを育てられるような環境が早く整うといいな、ということですね。継続して仕事ができればさらにスキルは上がるし、知識も深まるし、より誇りも持てると思います。富士山に来る人たちに憧れられる存在にもなるでしょうし、きっと地元の子どもたちも目指すようになる。観光客や登山客もより安心して富士山を楽しめると思います。もうひとつは、富士山に関わっている人たちみんなが富士山にもっと詳しくなって、どうしたら富士山が良くなるかを考えられるようになるといいな、ということです。そのことが、例えば、登山客や観光客の方たちに富士山について知っていることをちょこちょこっと話したり、お土産に富士山の自然や文化についての解説入りのしおりをつけたり、というようないろんな工夫につながれば、富士山はもっと魅力的になるし、多くの人を呼び寄せられるんじゃないかと思います。そのヒントになれたらいいなあと思いながら、『富士山事記』をいつも作っています。
−富士山で山岳ガイドもされていたということでしたが、いつ頃から富士山に登るように?
25年前に山中湖に引っ越してから毎年何回か主人と登っていました。毎回山頂を目指すわけではなく、八合目までとか七合目まで、ということもありましたけどね。
−富士山の何が、菅田さんをそんなに登らせていたのでしょう?
登っているときに感じる圧倒的な存在感と他に類のない眺望でしょうか。あとはパワーですね。ハイシーズンにはあれだけたくさんの人が富士山の上に乗っているわけですから、富士山は相当な重さを感じていると思うんですよ。しかもみなさん、離婚とかリストラとか就職とか、それぞれに一念発起したい理由を抱えて登っていらっしゃる。それらすべてを受けとめている富士山のパワーはすごいと思います。ただ、本来の富士山は静かな場所だと思うので、ふと静寂を感じられたりするとすごく嬉しくなりますね。
−一念発起しようという人たちを呼び寄せる富士山のパワーの源はなんだと思いますか。
これも山梨県環境科学研究所(当時)で教えていただいたことですけど、富士山はプレート境界の三重会合点で、さらにその下にもうひとつプレートがもぐりこんでいる、とも言われています。地球の中でもものすごく特殊なところにある山だそうですから、動物である人間は本能的に何かを感じるんじゃないでしょうか。それで一度は登らなきゃ、と思うんじゃないかな。そうでなければ、普段山登りに縁のない人が、日の出前の一番寒くなる夜の時間帯に寝不足で空気の薄いところを登ったりしないと思いますよ。
−確かにそうかもしれないですね。
あと火山学の権威である荒牧先生が「人が掘れる深さなんてたかが知れている。だから、富士山の下をどんなに掘っても本当のところを見てきた人なんてどこにもいないんだよ」っておっしゃっていた言葉が印象的です。その“わからなさ”も魅力だったり、人を惹きつけているものなのかな、と思います。とにかく富士山は特別な存在です。物語が語り尽くせないくらいありますからね。
−最も印象的な富士山は?
以前ヘリコプターから見た富士山です。とても美しい富士山の麓に人々の暮らしが豆粒ほどに見え、人々の営みが富士山に抱かれているように感じました。愛おしく、ありがたく、この富士山を守りたい! と涙が溢れました。
1965年神奈川県茅ヶ崎生まれ 地元の女子短大を卒業後、都内の企業に就職。1993年にご主人と山中湖に移住し、現在に至る。小学校1年の頃から剣道の道場に通い、短大時代は体育会のテニス部にも所属していた。現在の趣味は庭いじりと「富士山に関わること全般」。「子どもの頃に好きだった道草の延長で、富士山の自然に触れ合っている気がします(笑)」。
『富士山事記』に関するお問い合わせ先 info@fujisan-bunkasha.jp