−2020年の夏の山小屋休業の決断は、富士山吉田口旅館組合としてもかなり大きなものだったのでは?
あの頃はまだ、新型コロナウイルスがどんなものなのか、どうしたら感染が予防できるかもよくわかっていませんでしたから、「世界的にも知られた富士山で万が一にもクラスターが発生したら富士山の名前に傷がつく。残念ではあるけれど、今後のことを考えたら山小屋を1年休むのもしょうがないんじゃないか」とみんなで決めました。富士スバルラインは営業するというので、五合目の山小屋だけは開けることにしましたけどね。戦時中も山小屋は休むことなく営業していたそうですから、夏に山小屋を閉めたのは、長い歴史の中でもおそらく今回が初めてだったと思います。登山道はすべて封鎖されていましたけど、管理のために山に入る人たちはいるので、「山小屋の近くで絶対に火は焚かないように」と県から厳しく注意を促してもらいました。山で火が出ると、手のつけようがありませんからね。
−いつもなら七合目にいるはずの期間は、富士吉田市のご自宅で過ごされたわけですね。
そうです。両親から山小屋を引き継いだ30年くらい前から、夏はいつも七合目でしたから、麓で過ごす夏の暑さに驚きました。暑がりな家内もぐったりして、「山にいた方が涼しくていい」とこぼしてましたね。組合長を引き受けているものですから、営業していた五合目の山小屋が気になって何度か様子を見に行きましたけど、山梨県知事が「五合目での滞在時間は1時間以内で」とお願いしていたこともあり、お客さんはほとんどいませんでした。冨士山小御嶽神社の宮司さんに話を聞いても「今日来たお客さんは1人ですよ」と。スバルラインですれ違う富士急のバスもほとんど空車に近い状況で、本当に閑散としていました。
−2021年の夏は、2年ぶりに山小屋を再開されましたね。
休業すれば当然山小屋は痛手を被るし、麓の河口湖あたりの観光地にもだいぶ影響がありますから、利益が見込めるとは思えなかったけど、とりあえず営業しましょう、と。「新型コロナウイルス感染症対策ガイドライン」や「新型コロナウイルス感染症拡大防止のための行動基準」などを作成し、とにかく万全の対策で受け入れに備えました。登山者には富士山五合目総合管理センター前と六合目の富士山安全指導センター付近で検温していただき、さらに各山小屋に入る際にも検温と消毒をしていただいた。山小屋内でもマスク着用をお願いし、パーティションも設けました。パーティションを設けると収容人数は約半分になってしまうけれど、しょうがないですよね。ただ、無症状の方はどうしたって防ぎようがない。それで「万が一コロナ感染が出てもその小屋を責めることはしない」という約束のもと、組合として営業を決めました。クラスターが出るようなことがなくて、本当によかったです。
−小さい頃から夏休みは七合目で過ごしていたんですか。
そうです。他にも自分と同じような年齢の子どもがいる山小屋がいくつかありましたから、遊びたくなったらそこに寄って「山頂に行こう」と声をかけ、みんなで一緒に登っては火口を1周していました。登るのは全然苦にならなかったし、見晴らしがよくて広い山頂は本当にいい遊び場でした(笑)。小学校6年生くらいの頃だったかな。当時、山頂に蒸気の出ている場所があって、そこに持っていった生卵を置いて火口をぐるっと1周してくると、ちょうど温泉卵みたいになっている。それを食べるのも楽しみでしたね。あと山頂のレーダードームがとても魅力的でした。富士山頂で青空にくっきり映える白い姿は、本当にかっこよかったんですよ。大人になってからはたくさん写真も撮りました。役目を終えたレーダードームが2001年に麓に降りてからは、山頂よりも日の出館周辺の高山植物や麓の街を撮ることが増えました。
-写真はいつ頃、何がきっかけで?
高校を卒業して地元の会社に勤めていた頃です。最初は絵を描きたい、絵を習いに行こうと思いましたが、週に1回しかない休みを絵だけに費やすのは難しくてね。そこで思い浮かんだのが、シャッターを押すだけでいい写真でした。とはいえ1万2000〜3000円だった当時の私の月給では、カメラにはとても手が出せない。そしたら当時付き合っていた今の家内の母親が、自分の弟も東京でカメラ関係の仕事をしているから、とカメラを買ってくれましてね。もう嬉しくて嬉しくて。山の上から街の夜景を撮ろうと夜中の墓地を通り抜けたりもしましたけど、怖さなんか全然感じなかった(笑)。
-その頃からすでに富士山を撮られていたんですか。
夜景など風景から始めて、その後はしばらくスナップを撮っていました。でも肖像権の問題が出てきて、ちょっと難しいな、と。いい写真が撮れたとしても、本人の承諾が得られなければすべてが無駄になってしまうわけですからね。ちょうどその頃知り合ったのが、富士吉田に移住して富士山の写真を撮られていた飯島志津夫先生(1934〜2007)でした。先生に誘っていただいて、二科会写真部の公募に応募したら、初回で入選しましてね。畳職人さんを撮った写真でしたけど、これから自分が二科会写真部展で発表するのは富士山の上から撮った写真にしようと決めました。飯島先生は麓から撮る富士山が専門でしたし、私には日の出館がありましたからね。その頃から10年くらい、秋山庄太郎さんや林忠彦さんや白川義員さんといった先生方に指導を受けに東京に通った時期もありましたけど、自分のイメージに適った写真を撮るのは、いまだに難しいですね。
-どんな富士山を撮りたいと思われているのでしょう?
今までに見たことのない富士山、ですね。同じ場所でも天候や時間帯によって撮れる富士山は毎回違いますから、撮影に出かける時はいつも「今日はどんな富士山が撮れるだろう」と楽しみでしょうがないです。やっぱり、写真が好きなんですね。だから、富士山が見えない時には植物とか滝とか、「これは!」と思うものを探して撮ってきます。せっかく出かけていったわけですからね。
-インターネットで中村さんが撮られた富士山の雷の写真も拝見しましたが、まさに見たことのない1枚でした。
雷はなかなか撮るのが大変でした。次にどこで光るか、まったく予測がつかないでしょう。だからどうしても後手に回ってしまう。しかも当時はフィルムでしたから、撮れているかどうかは現像するまでわからない。36枚撮って1枚に白い光のようなものが写っているだけ、ということもありました。それでも諦めずに撮り続けていたら、3年目くらいにやっと撮ることができた。そこからさらに自分が納得できる雷の写真が撮るにはどうしたらいいか、コツを掴んでいったわけです。二科会写真部展最高賞の二科賞、会友努力賞、会員努力賞、どれも雷の写真でいただきました。そういえば以前誰かに「ご来光と雷を誰よりも撮っているのは中村さんじゃないですか」と言われたことがありましたね(笑)。
-何十年も富士山の写真を撮ってこられてもなお、もっと撮りたいと思われるのは何故だと思いますか。
やっぱり富士山に魅力があるからでしょうね。とくに雲と富士山の織りなす表情の変化は素晴らしいと思います。よく冬の湖畔にカメラマンがズラーッと並んでいますけど、撮っている写真はそれぞれ違う。ひとつの富士山でありながら、見え方、切り取り方は千差万別、しかもどこを切り取っても絵になる。それも富士山の魅力でしょうね。写真を撮る人間にとって富士山はとっつきやすい被写体ですけど、とても奥が深いんですよ。だからいくら撮っても撮りきれない。しかも写真のように“芸術”と名のつくものに「これでいい」と満足することはないですよね。満足したらそこで終わり、そこから進歩することもなくなってしまいますから。だから富士山を撮り始めた人のほとんどは、結局死ぬまで富士山を撮り続けるんだろうな、と思います。何を撮るにしても、撮れば撮るほど見えてくるものがありますしね。
-最新作がご自身の一番の進化形ということですね。
まあそういうことです。
−日の出館は中村さんで7代目。創業は江戸時代後期でしょうか。
そうだと思います。日の出館の囲炉裏には、講の名前と“文政九年吉日”という彫り込みがある茶釜がぶら下がっています。うちを富士登山の常宿にしていた富士講の人たちが、文政九年の1826年に納めてくれたものでしょうから、創業はそれより古いと思います。今ではどの山小屋も近代的になって、囲炉裏があるのは日の出館を含めて2軒だけになってしまいました。
−日の出館は以前、“不動尊室”と呼ばれていたとも聞きました。
“不動小屋”ですね。やはり富士講の人たちが納めてくれた銅製のお不動さんを祀っていたんですよ。寛永時代のものと言っていたかな。そのお不動さんが、銅が高値で買い取られた戦時中に盗まれてしまった。本当かどうかわかりませんけど、先先代が麓の野良仕事の合間に昼寝をしていたら、お不動さんが夢枕で「今、男たちに担がれて山道を下っているから迎えに来るように」とおっしゃったそうです。半信半疑ではあったけれど気になるので行ってみたら、お不動さんを担いだ男たちが降りてきた。それで「ちょっと待った、これはうちのお不動さんだ」と取り返したと伝わっています。一旦七合目から下に降りてしまったので再び上に返すことはせず、現在は自宅の裏の祠に祀ってあります。
−今は5月下旬。山小屋の準備はどのように進んでいますか。
今は電話で予約を受けているところです。6月になると必要な物資を小屋に運び上げたりと、本格的に準備が始まります。感染防止の規制がずいぶん緩められているとはいえ、都内の1日の感染者数は(2022年5月下旬の段階で)まだ4桁ですし、いつまた新しい変異株が出てくるかわかりませんから、まだまだ気は抜けない。ですから今年も去年同様万全の対策で受け入れの準備を進めています。去年の登山者の合計数は約7万9000人で、2019年の約23万6000人の約3割。富士吉田口登山道の登山者は約5万5000人で、そのほとんどが日帰りでした。去年は新型コロナウイルスのことが心配で控えたという方からもいくつか予約が入っていますから、今年はもう少し多くの登山者に宿泊していただけるのではないかと期待しています。事故やクラスターの発生なくシーズンが終えられたら何よりですね。
なかむらおさむ 1949年 富士吉田市生まれ 高校卒業後、地元の会社に就職する傍らカメラに興味を持ち、風景写真やスナップを撮り始める。1975年、写真家飯島志津夫氏に師事。1979年に二科会写真部展初入選以降、同展に連続11回入選し、1984年には二科賞を受賞した。1990年前後から、並行して七合目日の出館の主人として夏季シーズンは日の出館を切り盛りし、合間に写真撮影も怠らない。「趣味? プロだから写真が趣味とは言えませんけど、撮影に出かけるのが一番の楽しみ」と話す。奥様にも「撮影に行く時だけはニコニコしていますね」と言われるそう。二科会写真部会員、日本写真家協会会員、日本写真家ユニオン会員。主な著書は『四季富士山の撮影』、『富士山四季の撮影入門』など。