−仕事として富士山に関わり始めたのはいつですか。
2010 年度に、世界遺産推進課の3代目の課長になった時からです。
−どう思われました?
どうして私なのかな、と(笑)。世界遺産登録を推進するのは県としても初めてのことですからね。でも、そういうことだったのか、と思い当たることがあります。その話はまた後で(笑)。
−わかりました。2010年には、当初の目標だった文化庁への登録推薦書原案の提出を断念しています。山梨県の富士五湖の文化財指定に必要な同意書がなかなか集まらないなど、様々な課題が解消されずにいた時期のようですね。
そうでした。一言言っておきたいのですが、静岡県と山梨県はライバルのように思われていて、先日、山梨県の富士山世界遺産センターが開館した時も「静岡県も負けないような立派なものを作らないといけませんね」と取材に来た記者に言われました。でも山梨県に負けないように、という意識は、私には全くありません。山梨県は、同じ目標を持ち、同じ難しい課題を乗り越えてきた同志だと思っています。富士五湖についても、山梨県の担当者が本気になって同意書を得るために奔走されていることを知っていました。想いは必ず通じる、絶対に大丈夫だと信じていましたし、私ができる最大の協力は、信じることだと思っていました。
−杉山さんご自身は、地元の理解を得るためにご苦労されることはなかったんですか。
私が担当となった2010年当時は、構成資産候補の選定という課題はありましたが、文化財指定に関しては、山梨県ほど難しい局面はなかったですね。それでも、「観光振興のための世界遺産登録であれば、私たちは反対です」という地域の人たちに「地域の資産を世界遺産という枠組みを使って、子々孫々まで守っていきましょう。そのための登録にご理解をいただきたい」と説明を尽くし、同意していただいた経験はあります。地域の皆さまに協力していただき、本当に感謝しています。
−2013年4月、イコモスから「構成資産から三保松原を除外するように」と勧告された時には、どのように思われました?
2012年12月にイコモスから追加情報の要請と三保松原の除外を示唆する意見があり、2013年2月に追加情報として、三保松原に関する資料を、日本政府を通じてユネスコに提出していましたので、世界遺産委員会の決議に向けた、日本政府や関係者の努力を信じていました。実は、三保松原の除外勧告を受けて、国内では、様々な意見がありました。そんな中、当時の横内山梨県知事が「三保松原も含めて、最後まで理解を求めていきましょう」と言ってくださったのは、本当にありがたかったです。
−素晴らしいですね。最終的に、三保松原も構成資産に含まれました。
25の構成資産は物理的に離れていますが、イメージ的にはひとつの絵の要素です。富士山を描いたジグソーパズルのピースと考えてもらえると、わかりやすいと思います。イコモスが認めたパズルには、三保松原というピースはありませんでした。でも、日本はもっと大きなパズルを用意していて、そこに三保松原というピースを組み込んでいて、このピースがなければ、"富士山の顕著な普遍的価値"や日本人の精神性を説明できないと考えていました。2013年の第37回世界遺産委員会(6月16〜27日にカンボジアのプノンペンで開催)では、ほとんどすべての委員国が、このピースの持つ意味を理解し、物理的に離れていても、富士山と三保松原は精神的に「つながっている」と発言してくれました。静岡県の担当者としては、三保松原が入った意義はとても大きかったです。
−世界遺産の決定が出た時には、どんなお気持ちでしたか。
瞬間的に実感は湧きませんでした。ひとつの区切りにはなりましたが、これからが大変だな、と正直、思いましたね。皆さんもご存知だと思いますが、決議文には、多くの勧告事項と要請事項がありましたから、保全に対するエネルギーは、登録までのエネルギー以上に必要だろうと思いました。
−保全のための情報提供戦略のひとつとして杉山さんたちが進めているのが、子どもたちに富士山が大切な存在であることを学んでもらおうという「キッズ・スタディ・プログラム」ですね。
「キッズ・スタディ・プログラム」は、富士山世界遺産国民会議が、葛飾北斎の浮世絵「富嶽三十六景」を題材に開発した授業プログラムです。その後、静岡・山梨両県が協働して取り組みを進め、昨年度は、富士山世界遺産国民会議と両県で教材を改訂し、それを静岡県内の全小学校に配布しました。推薦書にも「19世紀前半の浮世絵に描かれた富士山の図像は、近・現代の西洋美術のモチーフとして多用され、西洋における数多の芸術作品に多大なる影響を与えたのみならず、日本及び、日本の文化を象徴する記号として広く海外に定着した」とありますが、江戸時代に、富士山を中心にいろいろな浮世絵が描かれ、その浮世絵とともに日本の文化が世界中に広がっていったことを、未来を担う子どもたちに伝えられれば、彼らの誇りにもつながるし、富士山を守ろうという意識も芽生えるでしょうし、将来彼らが国際的な活動をする時にその知識は必ず役に立つと思います。今は、両県の他に東京都の墨田区等の小学校の授業に活用していただいていますが、非常に好評なので、全国に広めていきたいですね。
−現在、地元の方が行っている三保松原の松林の害虫防除の方法の見直しも、杉山さんは求められているようですね。
日本では薬剤散布が害虫管理手段の標準ですが、私が確認したところでは、世界文化遺産でも、世界自然遺産でも、薬剤を散布しているところはありません。とくに自然に負の影響を与えることが明らかな浸透性殺虫剤は、持続可能な害虫管理手段ではない、と2014年に世界自然遺産の諮問機関であるIUCN(国際自然保護連合)の下に置かれた科学者集団が結論付けています。自然物ですから、人工的に管理するのではなくて自然の遷移に任せる、が世界の標準です。一刻も早く、自然と調和的な対策に切り替える必要があると思います。それができたら、三保松原が除外勧告を覆した意味もあるのではないでしょうか。
−保全し続けるのは、本当に大変なことですね。
終わりがありませんからね。私は、来年3月で公務員人生を終えますので、ぜひ、若い職員に引き継いでもらいたいと願っています。
−今後の富士山に期待することはどんなことですか。
世界文化遺産としての今回のストーリーには入らなかったけれども、世界遺産級の資産は、他にもたくさんあります。例えば、最後の最後まで構成資産の候補に残った清水町の柿田川や旧芝川町(現富士宮市)の大鹿窪遺跡など。それらの資産を守っていってもらいたいし、追加登録できたら素晴らしいと思っています。他にも、開発が進み、構成資産の選定から漏れた資産があります。せめて、これ以上は開発を進めない。できれば、少しでも元に戻すための努力を、地域の皆さまにしてもらえたら嬉しいですね。
−ご出身は静岡県内ですか。
生まれたのは静岡県浜松市ですが、1歳になる前に引っ越しました。父は転勤族でしたので、その後も何度か引っ越しを経験しています。私が15歳の時、父が自分の出身地の小田原ではなく静岡市(旧清水市)に居を構えると決めたんですよ。それも岡山に単身赴任中に。結果的に私が静岡県に根付いたのは、静岡県庁に就職してからですが、それもその時の父の決断があったからですね。
−なぜ、お父さんは静岡を選ばれたんでしょうね。
かつて、父に「なぜ、静岡に居を構えたのか」と訊ねたことがありますが、「富士山が見えるからだよ」と、当然のように答えました。2013年冬、小田原の本家で葬儀があり、居合わせた親戚に確認したら、「小田原からも富士山は見えますよ」と。
−他にも理由がありそうですね。高校時代、富士山を意識するようなことはありましたか。
いや、全く。常にそこにある存在、ですからね。県の国際課に籍を置いていた1998年くらいから、日本のアイコンである富士山の写真だとかグッズをよく、海外の人たちにプレゼントとして持っていくことがあり、その時に初めて、富士山を意識したかもしれないです。2000年に、再び両親と同居を始めてから、さらに意識するようになりました。リビングから富士山が見えるので、今日は雲がかかっているな、雪が積もっているな、と変化もわかるし、見るたびにきれいだな、と思います。今の時期、雪のない夏の富士もいいですよ。富士山はいつ見ても、毎回印象が違います。当たり前ですが、不思議ですね。
−世界遺産の登録という使命を持って対峙した時、富士山に対する思いは変わりましたか。
美しい、神聖というイメージは、ずっと持っていましたが、仕事で学術的な検証をしていく中で、なぜそこに日本人が神々しさを見たかを、頭ではなく、もっと深いところで理解しました。富士山は万葉の時代から文献に登場しますが、その美しさや神々しさは筆舌に尽くし難い。富士山は神仏が住まう山だと感じますが、それはインスピレーションです。自宅に居るとよくそう感じますし、なぜ父が静岡に居を構えたか、納得できます。実は最近、もうひとつ、納得することがありました。今年、父が他界したのですが、命日が3月22日。3月22日の数字を逆にすると223です。
−"ふじさん"ですね。
ええ。それと、私の娘の誕生日が6月26日です。富士山が世界遺産に登録された2013年6月26日は、娘の22歳の誕生日でした。22は"ふじ"です。冒頭、この仕事に関わることになった時に、どう思ったかと質問を受けましたが、そういう"運"があったのかなと、今になって思い当たります。
−結局、公務員人生の何年、富士山に関わられたんですか。
最後の7年です。私ぐらいの年齢になると、2年で異動することがほとんどですから、"幸運"です。直接仕事に関わらなくなる来年度以降も、私にできることがあれば、力になりたいですね。
1957年 静岡県浜松市生まれ その後、転勤族の父親と一緒に各地を転々。静岡市内の高校を卒業後、東京の大学へ進学。1980年、静岡県庁入庁。2010年から、静岡県の職員として富士山の世界遺産登録推進に携わり、登録決定後は保全に尽力。今年2月1日までにイコモスから提出を求められていた、保全状況報告書も担当。1男1女の父でもある。