−ボランティアを始めたきっかけから教えてください。
2001年に山梨医科大学附属病院が試験的に開設し、その翌年から富士吉田市も加わって本格的に運営を始めたのが八合目救護所です。私は山梨医科大学の第1期生で、当時大学病院におりましたので、山梨県の顔である富士山の救護活動は大学病院にいる者として当然やるべきだろう、と。それで2002年から協力させていただくようになりました。本格的な山登りの経験は、それまでほとんどなかったんですけどね(笑)。
−それなのにいきなり八合目まで!? 高山病は大丈夫でしたか。
最初は多少頭が痛くなったりもしましたけど、まだ若かったから、ほとんど気になりませんでした。最近はだんだん、体にこたえるようになってきました(苦笑)。
−そう言いながら、ずっと続けられているのはなぜですか。
大学時代からずっとお世話になっている橋本敬太郎先生(現山梨大学名誉教授)が、70歳を超えた今もボランティアで八合目救護所に行かれているんですよ。ですから、橋本先生が続けられている間は、やめられないなあ、と(笑)。ボランティアの3分の2くらいは固定メンバーで、毎年行っている人がほとんどです。
−ボランティアはみなさん、大学病院関係の方なんですか。
最初の頃は大学病院の医療従事者がほとんどでしたが、今は県内外から来ています。東京から来てくれる先生もいますし、愛知医科大学病院高度救命救急センター教授も来てくれています。
−4人1組で班を組み、2泊3日で滞在されると聞きました。
基本は医師、医学生か研修医、看護師、事務の4人で1班ですね。24時間態勢ですから、救護所の2階にある宿泊のためのスペースで、交代で休憩や睡眠をとりながら対応しています。とはいえ、基本は医学生か研修医、もしくは看護師が対応して、対応しきれなかった場合に呼ばれる、という感じですから、私はある意味"象徴的存在"と言っていいかもしれません(笑)。
−(笑)。食事はどうしているんですか。
隣接している山小屋の太子舘が、提供してくれています。
−開山期の富士山の救護施設の様子を何度かテレビで見たことがありますが、登山者がひっきりなしに助けを求めに来ているイメージがあります。
天候にもよりますが、1回の滞在中に診るのは平均10人から20人くらいです。救護者の数を時間帯別に集計すると、ピークが2つあるんですよ。それは、お昼くらいに五合目を出発した人たちが山小屋に着く午後6時、7時頃と、仮眠をとらない弾丸登山の人たちが八合目に着く午前2時、3時頃。昼間はほぼ誰も来ませんから、体を休めたり、景色を眺めたり、写真を撮ったり、交代で山頂に登ったりしています。
−八合目救護所に来られる方の症状に、何か特徴はありますか。
6割強は高山病です。日本に3000メートル超の山はごくわずかですから、国内で本当の意味で高山病になるのは富士山くらいなんです。本格的な登山は初めて、という人が多いし、標高2200メートルの五合目まで車で簡単に来られますから、そこから3000メートルまで登るというのがどういうことか、よくわからずに気楽に登ってくる人が多い気がします。八合目救護所は、吉田口登山道の五合目から山頂までのちょうど中間地点。手前の七合目の最後が岩場なので、そこを越える時にみなさん、バテるんですよね。
−難関の岩場を越えたのに高山病で具合が悪くなるなんて、悔しいでしょうね。
でも、そこでちゃんと引導を渡してあげるのが私たちの仕事だと思っています。今は血液中の酸素濃度を指先で測れる機器がありますから、「この数値だと、地上では相当危険な状態です。もう、諦めて下りた方がいいですよ」と言うと「わかりました」と。おそらく本人は「もうギブアップだ」と思っているんだけど、一緒に登ってきた仲間が「頑張れ、頑張れ」と励ましてくれるし、自分からやめるとは言いかねて救護所に来る、ということが多いような気がします。
−「この状態で登るのはもう無理です」と言われることで、後ろ髪を引かれつつもどこかホッとしていたりするわけですね。
そう思います。ただ、1人で下山させるのは私たちとしても心配なので、誰かに付き添ってほしいんですけど、他の仲間は先に登って行ってしまっていたりするとそれができない。そういう時は、困りますね。
−他にも困ったなあ、と思われることはないですか。
相手が外国人で言葉が通じない、というのも困りますけど(笑)、一番困るのは、家族で登ってきたのに、具合の悪くなった子どもだけ「よろしく」という感じで八合目救護所に置いてどっかに行っちゃう人たちですね。
−どこか、というのは、山頂ですよね。
おそらくそうなんでしょう。ちょっと常識としてどうなんだろう、と思いますね。まあ昔からそういう人はいましたけどね(苦笑)。
−最も思い出深い出来事を教えてください。
2007年に、吉田口登山道の7合目以上にある14の山小屋すべてがAEDを装備したんですよ。私は救急の活動をしていますから、その時に山小屋を始め、いろんなところで心肺蘇生の講習会をしましたが、翌年の2008年8月7日、ちょうど私が救護所に滞在している時に、山小屋の太子舘近くの登山道で男性が倒れている、どうも心臓が止まっているみたいだ、という連絡がありましてね。太子舘に配備されていたAEDで私がその人に電気ショックをかけたら、蘇生に成功し、ちゃんと助かった。心肺停止はそれまでにも何例かありましたけど、山で心肺停止状態から救助される例は極めて少ないので、とても印象に残っています。
−ご出身は横浜とお聞きしました。なぜ山梨の大学を選ばれたんですか。
ずっと都会暮らしだったので、自然に囲まれたところで大学生活を送ってみたい、と思ったんでしょうね。神奈川県と山梨県は隣接していますから、そう遠からぬ所だというのも、良かったんでしょう。人や建物が密集している都会よりも自然豊かな田舎の方が好きだし、医師だと都会じゃなくてもそれなりに仕事はある。それで居ついてしまいました。山梨県での暮らしには非常に満足しています。
−子どもの頃は富士山にはどんな印象を持っていましたか。
横浜からも富士山はチラッと見えますが、新幹線から見た富士山の印象が強いですね。日本一高くて、形もきれいですから、日本の象徴、と捉えてました。
−山梨県に来られて、それまでとは違う富士山を眺めた時にはどんな印象を持ちましたか。
よく静岡県側から見る富士山と山梨県側から見る富士山はどっちがきれいか、と競っている番組がありますけど、私はそこに割って入りたいんですよ(笑)。それぞれ見え方が違って、それぞれにきれいだとは思うけれど、神奈川県人の私としては、裾野まで見えて、しかも宝永噴火口の影響が一番少ない神奈川県の箱根から見る富士山が一番きれいなんじゃないか、と言いたいですね(笑)。
−八合目救護所のボランティアを始めて今年で15年。ボランティアに臨む時の心構えに変化はありますか。
最初は単なる"救護所の一員"という意識でしたけど、今は、富士山での救護態勢を作る立場になってきていますから、物事の見方が違ってきているのは確かです。八合目救護所から山頂まで行き来しながら考えるのも、通報があった時に倒れている人の位置を正確に把握するための連絡態勢をどうするか、そしてそこからどう運ぶのか、というようなことですね。富士山は、特殊な山なんですよ。すり鉢を逆さにしたような形なので、笠雲が出ることからもわかるように、竜巻が起きやすい。だから、山岳救助の常識になってきているヘリコプターも、かなり条件が良くないと近づけない。その中で救助態勢を整えなくてはいけませんから、他の山とは違う取り組みをしないといけないわけです。富士山で起きたことは国内の全国ニュースになるだけでなく、世界にも報道されかねませんから、富士山でしっかりとした救助態勢を作ることは、とても意義が大きいと思います。これまで一歩一歩積み重ねてきて、大分整ってきたかな、という感じはありますが、まだまだ考える余地はあると思っています。
−救急がご専門だそうですが、最初から救急の専門家になろうと思われていたんですか。
何かきっかけがあったわけではなくて、いつの頃からかそう思うようになってましたね。目の前に具合の悪い人がいた時に、その人をなんとかできる技術を身につけよう、すべてを診られる医者になろう、というのが出発点だったと思います。それなりに何でも診られる医者にはなれたのかな、と思っています(笑)。
−前田さんが考える富士山の魅力を教えてください。そしてなぜみなさん、富士山に登ろうとするんだと思いますか。
日本一高い山だ、というところだと思いますよ。日本一高い場所に行ける、というのがたくさんの人をひきつけるんだと思います。実際、山頂に立つと眺めはいいし、頑張って登ってきたなぁ、という達成感もありますからね。しかも形はきれいで、日本の象徴でもある。「富士山に登った」と言えばあとは説明が要らないところも、いいんじゃないでしょうか。
−最後に、富士山に登る人たちに意識してほしいことを教えてください。
山小屋で仮眠をとらずに登るような無謀な人は、以前に比べて減ってきてはいますが、まだまだたくさんいます。登山の常識ですけど、山小屋で1泊するとか、ゆっくり体を慣らしながら楽しんで登ってほしいですね。
1961年 横浜市生まれ 山梨医科大学卒業後、同大学病院外科の医局に入る。その後、慈恵医科大学柏病院救急診療部、山梨大学病院救急部、富士吉田市立病院を経て、現在、市立甲府病院に勤務。救急が専門。毎夏開催される、ウルトラトレイル・マウントフジの救護にも関わっている。趣味はテニスとバイク。