−2013年の富士山の世界文化遺産登録に際して、主にどんなことをされていたのか教えてください。
当時、日本で世界文化遺産登録を目指すには、まず、国の文化財に指定する必要があったんですよ。山梨県が登録のために動き始めた2005年、富士山そのものはすでに文化財でしたけど、富士山信仰に関わる神社や富士五湖などはまだ文化財に指定されていなかった。それらの文化財指定を進めることと同時に世界遺産登録について地元住民に理解を求めるというのが、主な業務でしたね。その後は、登録に必要な推薦書を仕上げるための国際会議を何度も開いたり、ペルーのマチュピチュなどの世界遺産を視察に行ったり、海外でのユネスコ世界遺産委員会の会場に詰めて、富士山の絵葉書を手にロビー活動をしたりもしましたね。県の職員として働いていたら滅多にできない「世界を相手にする」という貴重な経験もたくさんできた。密度が濃くて、とてもおもしろい8年でした。
−県庁では以前から、文化財に関するお仕事をされていたんですか。
私は大学時代に考古学を勉強していて、埋蔵文化財の専門職員として県に採用されました。山梨県内の文化財の保存のための調整をしたり、必要なお金を文化庁に申請したり、道路工事やダム建設の際に地下から出て来た遺跡は壊されてしまうので、発掘調査して記録、分析し、報告書をまとめたり、という仕事をしていました。私の考古学の専門は、卑弥呼のような強力な指導者が出て来た古墳時代でしたが、入庁して間もなく、ダムに沈む村から出た縄文時代の遺跡とそれと一緒に出て来た江戸時代のお墓の発掘調査をする機会があって、その時に江戸時代の考古学に触れられたのは、とてもいい財産になりました。その後、ご縁があって、アラビア湾に面したバーレーンの神殿の学術調査に研修で参加させてもらえたのも、自分にとってはすごく大きかったですね。古いものを見つけて研究するだけじゃなく、そこから何を学び、どう人々に伝えていくかということにより深い関心を持つきっかけになりました。ちょうどその頃、富士山の世界文化遺産登録に関わることになったんです。
−富士山の世界遺産登録に関わることになった経緯を教えてください。
2005年9月に山梨県庁内で富士山の世界文化遺産登録のためのプロジェクトチームが発足して、翌月にその業務の核となる知事直属の政策秘書室に異動になりました。辞令が下りる前、プロジェクトチーム発足のニュースをTVで見た時には、「大変なことになったなあ」と、他人事のように思っていたんですけどね(苦笑)。というのは、その数年前、富士山の登山道の中で唯一麓から頂上まで登れる富士吉田口登山道が文化庁の「歴史の道」に選定された際に文化庁の補助金をいただいて行った登山道の整備事業に関わって、富士山周辺の"複雑な土地利権"という問題に何度も直面していたからです。だから「これは簡単なことではない」、と。
−実際、仕事を進められて、どうでしたか。
富士五湖の文化財指定はとくに大変でした(苦笑)。富士五湖は富士箱根伊豆国立公園に含まれている国有地ですが、管理は山梨県にほぼ任されている。でもだからといって県が「文化財にしましょう」と言えばそれで済む、というわけじゃないんです。そこに、湖にボートを浮かべ営業する権利とか桟橋を設置する権利とか、たくさんの権利がかかっていますから、権利を持っている個人や団体全てに説明して、「文化財に指定してもいいですよ」という同意書に判子をもらわなくてはいけない。数えてみたら、権利を持っている個人と団体が350以上ありました。たいてい複数の権利を持っていますから、権利数はさらにその倍近く・・。空前絶後の大事業でした(笑)。
−すぐにみなさんの賛同が得られた、というわけではないんですね。
文化財に指定すると、ある種の規制がかかってしまう。富士五湖はすでに観光地として確立していますから、ルールを決めて新たな規制がかかるおそれがあるということを地元のみなさんはあまり歓迎しないわけです。地元の経済活動を制約しかねないわけですから、反発はかなりありました。
−でもそれをやり遂げられたわけですよね。
地元の役場のみなさんの協力がなければ無理でしたね。「県に言われた仕事だからやる」ではなくて、"文化財指定をきっかけに富士山や富士五湖という地域の宝物を守り、未来へつなげていきたいんだ"という思いが共鳴し、地元の方、一人ひとりから了解を得るために有効なアドバイスをたくさんしてくださいましたし、ともに行動していただくことができました。区とか団体とか一定の単位で反対されている場合、「だったら、この人にまず話すのがいい」、「こういう段取りでいこう」とか。そういう人間関係や交渉手法は、その土地で生まれ育った人にしかわからないですから。それでも何度も足を運びましたし、何度も説明して回りました。最初の1、2年はまったく出口が見えなくて、今だから言えることですけど、富士山を見ると気持ちが重苦しくなる時期もありました(苦笑)。時間もずいぶんかかりましたから、文化庁、連携していた静岡県、同じ山梨県の関係各位、富士山の世界遺産登録を応援してくださっていた多くの方々をずいぶんじりじりさせてもしまったし。でも最終的には権利者のほぼ全ての方から同意を得ることができて、2011年2月に文化庁へ文化財指定の申請の同意書を、図面、測量データなどと一緒に提出した時には、同意書の数の多さに驚かれました。その時は感慨無量でしたね。
−森原さんが考える富士山の魅力を教えてください。
私は東京の出身で、毎日富士山を見て暮らすようになったのは山梨県庁に務めてから。現地調査や趣味登山で数えきれないくらい登っています。自然公園として厳しい規制がかかる本栖湖を含め、富士山とその周辺の手つかずの自然の美しさには、本当に息を呑みます。頂上に立つと、日本で一番宇宙に近い所にいるんだな、とも思います。でも富士山の魅力はなんといってもあの神々しさですね。「あの山はすごいんだぞ」と誰に言われなくてもわかる美しさがある。富士山が昔から神のおわす山として多くの人の信仰の対象であったという歴史を、私たちが知っているからそう感じるのかもしれませんけどね。世界遺産では"信仰の対象と芸術の源泉"という価値づけをしていますけど、あの神々しいまでの美しさをどう表現するかに、名だたる芸術家は挑まずにいられなかったんでしょうね。
−8年間の世界文化遺産登録のお仕事を通して、富士山の見え方が変わるようなことはありましたか。
相変わらず富士山の四季を愛でるのは大好きですし、いつもきれいだなあと思って眺めていますけど、同時に富士山を支えている人たち、様々な形で富士の恩恵を受けて暮らしている人たちをイメージするようになりました。「山開きが近いから、みんな準備で大変だろうな」とか、開山期に夜、登山者のヘッドライトのつながりが点々と続くのが見えると「今日も山小屋は大忙しだろうな」とか、人を介して富士山を見るようになった。それが、仕事として関わって変わった所でしょうね。
−今後の課題についてはどのように考えていますか。
一番の課題は、今の富士山をどうやって守っていくか、だと思います。富士山が他の山と違うのは、登る人、その恩恵を受けて暮らす人たちとともにあり続けて来たということ。今後もそうあり続けるためにも、富士山に登る人たちに富士山の自然や歴史を大事にする気持ちを持ってもらえるようなガイダンスも必要になってくるんじゃないかと思います。そうすれば自ずとゴミも減っていくでしょうし・・。それをきっかけに、人間が本来持っている自然や歴史文化に敬意を払う気持ちが育まれ、そこから何を学び、それを未来にどうつなげていくか、ということを多くの人が考えるようになったら、嬉しいですね。
−100年、200年後、富士山にどうあって欲しいですか。
今と変わらない富士山でいて欲しいです。何も足さない、何も引かない。でもそれを繰り返すことでより美しくなっていく、というのが理想です。それによって観光のスタイルも通過型から滞在型になっていったり、地元の方の暮らしも変化したり、世界文化遺産登録されたことがいい影響を与え続けていって欲しいな、と思い続けていますね。でもそれは、1年や2年で結果が出ることじゃない。100年、200年後の人たちが、「昔の人たちが頑張って世界遺産登録してくれたから、富士山と湖がこんなにきれいに見えているんだね」って思う時があったら、関わった人たちの大変さは、富士山の風でさーっと消えてなくなるんだろうな、と思います。ただその素晴らしい景色を私たちが見ることはないんですけどね(笑)。」
1966年 東京都出身 実家の寺の周辺から古い土器などが見つかっていたこともあり、幼い頃から歴史や遺跡に興味を持つ。大学では考古学を専攻し、発掘調査にいそしむ。卒業後、山梨県庁に文化財の専門職員として入庁。2005年10月に「富士山世界文化遺産登録庁内プロジェクトチーム」に異動、以後、8年にわたり富士山の世界遺産登録に関わる。2014年4月からは山梨県立博物館学芸課長に在籍。今秋、山梨県立博物館では"世界遺産登録記念・開館10周年記念特別展「富士−信仰と芸術−」"を開催予定。