−山との出会いは20歳の夏だそうですね。
大学時代にやっていたボランティア・サークルの顧問の先生に勧めていただき、連れていっていただいたのがきっかけです。上高地、奥穂高、前穂高の縦走という、初心者向けとは言い難いルートでしたが、僕はもともと自転車で野宿しながら日本中を旅したりもしていたので、体力的には問題ないと判断していただけたのでしょう。日本にあんな美しい場所があるとは想像していなかったので、びっくりしました。山登り自体はすごくきつくて、どうして登っているのかまったく意味がわかりませんでしたけどね(笑)。非常に印象的だったのは、山から戻ってきたときに街の見え方がまったく違っていたことでした。山での経験を通して得た、“大きな宇宙の営みの中に自分たちの命はある”という感覚が大きかったんだと思います。人生において大事なことは、経験を積み重ねることであり、意味はあとからついてくる、と思うようにもなりました。自分にとって重要な経験でした。
−話は少しそれますが、何がきっかけでボランティアを?
厳しいことで有名な九州の予備校で一浪生活を送っていた11月頃、こんなに一所懸命勉強していることが自分のためだけにしかならないなんて虚しいな、本を読んで勉強しているだけで社会をわかった気になっていること自体、すごく恥ずかしいな、と思ったんです。それで「大学に入ったらなんでもいいから社会とのつながりから世界を見よう」と決めました。同志社大学に入学した1999年は、まだ関西に阪神・淡路大震災(1995年)の記憶が残っていてボランティア活動に活気があったこともあって、ボランティアを通して世界や社会とつながることは意義深いことなのではないか、と考えたんです。ボランティア・サークルでは、フィリピンの村に出かけ、村人と一緒に家を作ったり幼稚園の運動場を作ったりしました。
−大学卒業後はアラスカに行かれています。
大学時代に星野道夫さんの著作に出会い、「自分がやりたいのはこれだ!」というデジャブのような感覚を持ちました。それで、自分の目でアラスカを見たい。今も狩猟生活を続ける先住民の生活に身を置いて、他の生物の命をいただき、食料にしたり道具を作る暮らしを経験したい。狩猟生活を通して祈りや歌など人間の文化的な営みが生まれてくる人間の原初的体験を自分ごと化したい。そう強く思ったんです。星野さんが最初にアラスカでお世話になったシシュマレフ村にも1ヶ月くらいお世話になったりしました。
−そのまま冒険家、写真家としてアラスカや海外を回って生きていく、という選択もあったのでは?
写真家で生きていきたいという気持ちはありましたし、今もあります。ただ、海外を放浪するのは、その当時、もう珍しいことではなかったですし、冒険的ではないと気づきました。アラスカの先住民の人たちと暮らしながら教えられたのは、「私たちはどこから来て、私たちは何者で、私たちはどこへ行くのか」を自分なりに問い返すこと。自分と馴染みのある風土とつながり、風土とともに生きることを実践・表現することこそ冒険であり、写真家としてやるべき仕事なんじゃないかと思い、日本に戻る決意をしました。この気持ちは、今やっているYAMAPにもつながっています。
−帰国後は東京で『風の旅人』の編集部に入られたそうですね。
写真家で生きていきたいと思っていた20代、その当時、最高のグラフィック雑誌だと思っていたのが『風の旅人』でした。『風の旅人』の編集長に認めてもらえる写真が撮れなければ、写真家として食ってはいけないだろうと思い、撮りためた写真と手紙、『風の旅人』の感想を書き留めたノート数冊をアラスカから送りました。幸運にも編集長が受けとめてくださり、ご縁ができました。結果的に僕の写真が『風の旅人』に載ることはありませんでしたが、20代で尊敬する人の下で働くのは貴重な経験だと思い、アラスカから帰国後、『風の旅人』編集部で書店営業や編集アシスタントを約2年半やらせてもらいました。
−2010年にはカミーノ・デ・サンティアゴの巡礼路を歩かれています。
『風の旅人』の編集部を辞めたのが29歳のときで、30歳になる前のひとつの成人儀礼として1200キロを60日かけて歩きました。30代以降は、それまで受けてきた恩を社会にどう還元していくかの勝負になると考えていました。だから30歳を迎える前に、自分自身を見つめ直す時間を作りたかったし、『アルケミスト』という本が大好きだったので、著者のパウロ・コエーリョさんが歩いた道を自分もちゃんと歩きたかったんです。
−いかがでした?
僕はクリスチャンではありませんが、“巡礼の道”は偉大な発明だな、と思いました。巡礼路があることで人が往来し、人が往来することで村や町にお金や情報がもたらされ、文化が守られる。また、巡礼路に点在する小さな村に住む人たちは、自分たちは世界中から巡礼者を受け入れているんだ、という誇りを持てる。歩く旅がいかに地域を豊かにするかを実感しました。翻って、日本は歩く文化が根づいていた国だな、とも思いました。昔の街道には、ちょうど休みたくなる約4キロごとに一里塚が置かれていたり、宿場町が形成されていたわけですから。日本は自然も土地土地の文化も豊かです。今の時代に合う形で歩く旅をよみがえらせることができれば、地方創生と声高に叫ばなくても、自ずと地域を活性化できるんじゃないか、と思いました。そのときにはまだYAMAPのことは考えていませんでしたけど(笑)。あと、歩きながら一番感じていたのは、地球というすごい星に自分たちは生きているんだ、ということです。宇宙に行く人だけが宇宙飛行士なわけではなくて、人間は皆、生まれながらにして宇宙飛行士である。宇宙飛行士の感覚で、今を生きていこう。そんな気づきが降ってきたのも、巡礼路を歩いているときでした。
−私も時々、私たちは地球人と呼ばれる宇宙人だと思うことがありますが、その感覚に近いですか?
そうですね。その感覚があれば、国や文化の違いを認め合ったうえで仲良くしようとか環境に負荷をかけない暮らしをしようと当たり前に考えられるはずだし、より楽しく生きられるんじゃないか、と思います。
−地図アプリのYAMAP開発を思いついたきっかけは?
311、東日本大震災が直接的なきっかけです。僕は当時、“自分とつながりのある風土で仕事をして生きていく”というロールモデルを地方で作りたくて、福岡にて編集の仕事をしていました。311、とくに原発事故には衝撃を受けました。人類で初めて原爆を落とされたこの国で、その66年後、今度は自分たちが作ったシステムで被爆し、故郷を離れざるを得ない人々が今もいる・・。このことを思うと、同じ時代を生きる人間として、言葉にならない悶えというか、恥ずかしい気持ちになります。発災直後、ボランティアに行くことも考えましたが、今、自分がするべきことは、この辛い経験を再び繰り返さないために何ができるかを考え、それを仕事にしていくことだと思いました。そのときに僕は、今の日本社会の大きな課題は、自然の中で身体を動かす機会が劇的に少なくなっていることではないか、と思いました。つまり、自分たちがどういう風土や環境に育まれて生きているかを実感する機会が激減している。社会の都市化が進む一方で、自然との結びつきをどのように取り戻すのがいいのだろう? そのことを考えているときに、都市に暮らす人たちへ、登山・アウトドアを通して自然と触れ合う体験を提供することは、とても大切なことなのではないかと思ったんです。ちょうどその頃、九重連山を歩きながらスマートフォンがオフラインでも使えることに気がつきました。スマートフォンを窓口に、安全登山のプラットフォームサービスを立ち上げる。それこそが自分のやるべきことだと思い、YAMAPを立ち上げました。20代で経験してきたことがすべてYAMAPにつながった感覚をもっています。
−YAMAPは、富士市の「富士山登山ルート3776」の開発に協力するなど、富士山に関する取り組みもされていますね。
あるドイツ人の方が「日本の山には信仰が根づいている。登山と祈りが密接につながっているところが素晴らしい」と話していました。僕も、信仰があり、山と暮らしが渾然一体になっているところが日本の山のよさだと思っています。「富士山登山ルート3776」は、海抜ゼロからスタートする昔の巡礼路をたどり、麓周辺の町や文化、自然に触れながら日本一高い富士山に登って、そこから日本を見渡すという経験ができる。五合目から登るのとは別の実感が得られると思うし、何ものにも代えがたい経験になると思います。富士山に関してはもうひとつ、富士急行さんと新しいプロジェクトも始めたところです。富士急行線開業90周年を記念した「富嶽三十六景ハイキング」というハイキングイベントで、今年4月27日から来年3月31日までの期間に、富士五湖エリアを中心に、厳選した“富士山がよく見える36の山”のうち2つに登るとオリジナルピンバッジがもらえ、さらに他の山を登ると特別な記念品がもらえるというものです。富士登山は夏の一時期に集中しますが、今回のイベントは一年を通じて楽しめますし、周辺の文化や自然に触れられるのでおもしろいと思います。
−富士山にはこれまで何回くらい登られていますか。
実はまだ一度も登っていません。僕にとって富士山は “拝む山”です。登る人の気持ちもよくわかりますから否定はしませんが、僕自身は登らずにいようと思っています。
−どんなところに富士山の魅力を感じますか。
今年のお正月に、40年以上も富士山を撮られている写真家の大山行男さんが、静止画をつなぎ合わせて動画を作るタイムラプスという手法で撮った富士山を紹介する番組がありましたが、富士山は微動だにしないのに、その周りで雷が起きたり、雲が生まれたり、星が空を横切っていく映像を見て、富士山は生きているんだと実感しました。いつ噴火するかわからない怖さと美しさが表裏一体になっている。どの山よりも自然に対する敬意を忘れてはいけないと感じさせてくれる山であり、霊峰と呼ぶにふさわしい山だとあらためて思いました。
−最も印象的な富士山を教えてください。
2011年の夏に南アルプスの赤石岳辺りから見た月光の富士山です。僕のフェイスブックのカバー写真にもしています。すごく神秘的で、その時見た富士山はずっと心に残っています。富士山が神々しく、山への想い入れも強いから、あまり登りたくないのかもしれません。
−登らないまま、本当に終わるでしょうか。
多分。でも子どもが登りたい、と言ったら連れて行くことになるかもしれません。その時は、僕だからこそ連れて行ける富士登山にしたいですよね。例えば? 五体投地で登るとか(笑)。そのときにじっくり考えます。
1980年 福岡市春日市出身 同志社大学法学部卒業、アラスカ大学フェアバンクス校野生動物学部中退。株式会社ユーラシア旅行社『風の旅人』編集部で約2年半勤務し、退職した2010年にカミーノ・デ・サンティアゴの巡礼路を踏破。帰国後、地元福岡に戻りフリーで編集の仕事をしたのち、2013年7月、株式会社ヤマップを設立した。「最近、運動する時間がないので、普段の通勤を運動にしたいと思って」と、ビブラムのファイブフィンガーズを愛用中。
ヤマップHP
https://corporate.yamap.co.jp
クレジット
写真:河内彩/インタビュー・文:木村由理江