−丸嘉講武州田無組中里講社について教えてください。
丸嘉講は近江屋嘉右衛門を講祖とする富士講です。嘉右衛門の名前が丸嘉講の由来です。その富士講が1733年(享保18年)に嘉右衛門の弟子から田無の秀行道栄という人物に伝えられ、その後、秀行道栄の熱心な布教により、現在の練馬区や西東京市、武蔵野市、調布市、埼玉県所沢市など近隣の村々に広がり“田無組”と呼ばれる講社の連合体が形成されたわけです。講は地域ごとに独立して活動するのが一般的ですから、“田無組”はかなり珍しい存在です。最盛期にはおよそ30の講社が所属していたようで、中里講社はそのひとつです。田無組では他に、東久留米市の下里講社と落合講社が現在も活動中です。
−中里講社が残った理由にはどんなことが考えられますか。
講のまとめ役である“先達(せんだつ)”の中から、連合体である田無組をまとめる“大先達”が選ばれますが、明治時代以降、その大先達に中里講社と下里講社の先達が選ばれていることが、理由のひとつだと思います。また、明治時代に大先達でもあった中里講社の先達が熱心に布教活動を行いながら、富士講の行事をちゃんと残そうと尽力したことも大きいと考えられます。さらに、古い文書がきちんとたくさん残っているのも中里講社の特徴のひとつですから、伝えていこうという強い意志とそれをバックアップできる体制が整っていたからこそ結果的に残った、ということだと思いますね。
−中里講社はどんな活動をされているのでしょう。
1月上旬の御師・上文司家への初詣、6月1日の山開き、7月上旬の火の花祭の大松明に使う麦の棒打ち、7月下旬の富士登拝、8月下旬の吉田の火祭りへの参加、9月1日の中里の火の花祭、12月22日の星祭、というのが主な活動でしょうか。江戸時代からの祭事や富士塚が今もちゃんと残っているところは都内ではほとんどありません。大変貴重であることから、1985年(昭和60年)に中里の富士塚が東京都の有形民俗文化財に、中里の火の花祭が東京都の無形民俗文化財に指定されました。
−先ほど連れていっていただきましたが、中里の富士塚は住宅街のど真ん中にありますね。
昔の地形図で見ると、中里の富士塚があるのは柳瀬川に向かう河岸段丘の先端部分です。その地形を活かして富士塚を作ったのでしょう。直径約15メートルで、明治時代に2メートルかさ上げしたため、現在はおよそ9メートルの高さです。作られた年代ははっきりしていませんが、奥宮を表す頂上の石祠の側面に“文政八年三月”の銘があることから1825年と考えられています。都内の富士塚をご存知の方は、富士山の溶岩を貼り付けたゴツゴツしたものを思い浮かべられるかもしれませんが、中里の富士塚は赤土のみで作られた土饅頭型で、全体に草花が生い茂っていて非常に牧歌的な印象です。これは中里の富士塚だけでなく、北多摩地区の富士塚の特徴です。以前、品川にある富士塚を見ていたので、初めて中里の富士塚を見た時には、同じ富士講でもこんなにも富士塚の印象が違うのか、と驚きました。
−確かにのどかな雰囲気でした。頂上に立つと思っていた以上に高さを感じるし、周りに茂った木々が住宅街であることを忘れさせてくれて、なんだか清々しい気持ちになりました。
柳瀬川に向かって周囲が傾斜しているのが、高さを感じる理由だと思います。富士塚の裏の方に宝永火口を模した石造物が作られていますから、吉田口を正面にした富士塚だとわかります。現在は、安全上の問題で開いていませんが、胎内も存在します。富士塚に存在する石造物も当初の配置のままですので、本当に貴重なものだと思います。講員さんたちのおかげで、いつも手入れが行き届いていますしね。
−中里の富士塚で9月1日に行われるのが中里の火の花祭ですね。
火の花祭は火伏せや無病息災などを祈願するお祭りで、富士塚の山頂での講員さんたちによる祭事が始まる午後6時くらいから約3時間にわたって行われます。クライマックスには富士塚の前に据えられた、藁を円錐状に積み上げた高さおよそ2メートルの大松明が燃やされ、講員さんが交代で大松明の周囲を走り回りながら観客のお祓いをする中、燃え盛る炎を間近で見られます。初めて中里の火の花祭に立ち会った時には、古い日本のお祭りはこういうものだったんだろうな、と非常に感動しました。大松明に火をつける直前に、富士塚の登山道沿いに立てられた108本の蝋燭に火が灯される様子も、かなり幻想的ですしね。たくさんの方が見に来られるのがよくわかります。
−想像しただけでワクワクします。観客の方たちは大松明の灰もお目当てだとか。
その灰を畑にまくと作物に虫がつかない、家に持って帰ると魔除けや火伏せになると言われています。消防署の方々が鎮火を確認したあと、みなさん、持参したスチールのバケツやフライパンに灰を入れて持ち帰ってますね。
−荒天の時には順延になるんですか。
いや、日程が変更になったことはないそうです。過去に中止したのは2回か3回と聞いています。去年はゲリラ豪雨に襲われましたが、大松明はちゃんと燃やしました。祭りの終わりはかなり遅い時間になりましたけど、必ず大松明に火をつけて祭りを終わらせるんだ、という講員さんたちの強い意志を感じました。中里の火の花祭はそれだけ富士講と講員さんたちにとって大きな行事であり、伝統を継承していくというのは、そういうことなんでしょうね。
−富士講と富士山への講員さんの強い思いがそこに反映されている、ということですね。
そう思います。あれだけの行事を続けるのは容易なことではないと思いますが、やり続け、この先も守り続けていこうとされているわけですからね。あと、中里講社は古い文書がかなり残っているんですよ。江戸時代の終わりから平成に入る直前までの資料が、きれいに残っている。他にはあまり例のないことです。日本の象徴であり、霊験あらたかだと代々伝えられてきた富士山への思いが、講員さんたちは非常に強いんだと思います。それを受け継いで欲しい、という気持ちがある反面、少子化や核家族化で講員の数も減っていくし、時代も変化していくとそれもなかなか難しいのではないか、という思いもあるようですね。
−難しいですね。現在、中里講社の講員は何人いらっしゃるんですか。
中里講社は家が単位ですので、現在35軒です。最盛期に比べると、やはり減少してきていますね。それを食い止めるために私たち郷土博物館としてできることは、中里の富士塚や中里の火の花祭の魅力を広く発信していくことだろうと思い、できることをコツコツやっています。
−富士塚に興味を持たれたきっかけは?
3年前に清瀬市郷土博物館に入り、清瀬市に現存する中里講社と出会ったことが一番のきっかけです。以前いた品川歴史館で品川神社にある富士塚について多少調べたことはありましたが、実際に活動している講員さんたちの話が聞けたり、たくさん残っている資料や文書に触れられることはとても大きかったです。
−実際に富士山に登られた経験は?
残念ながら五合目までです(苦笑)。昨年(2018年)夏に、清瀬市郷土博物館の企画展として「清瀬の富士講ー清瀬から富士を目指した人々ー」という展示をするにあたり、かつての中里講社の講員さんたちが実際に歩いたルートを北口本宮冨士浅間神社から五合目までたどってみました。
−考えてみれば、ここから富士山頂まで、歩いて行っていたわけですよね。
そうです。鉄道が開通するまでは途中で宿泊しながら甲州街道を歩き、大月を経て富士吉田口へ向かうのが基本でした。往復で1週間から10日の行程です。先ほど言ったように田無組は連合体ですから、途中で他の講社の講員と合流しながら向かったようです。最盛期には100人前後の田無組の講員が、甲州街道を富士山へ向かう姿が見られたはずです。
−壮観だったでしょうね。
ええ。普通の富士講は、富士山に行くとしてもだいたい4、5人、多くて2桁ですからね。100人前後の人たちが、揃いの白い装束を着て甲州街道沿いをずっと歩いて行くわけですから、かなり目を引いたと思います。初期の頃には山梨側だけでなく静岡の方にも足を伸ばして富士山を目指していた時期もあったようで、世界遺産の構成資産のひとつである人穴富士講遺跡には田無組の先達の石碑が何個か建っています。
−中野さんにとって印象的な富士山というと?
私は幼い頃から電車が大好きでしたから、新幹線から見る富士山のイメージがとても強いです。いつも写真に撮っていました。構図としてはありきたりですが、一番きれいかな、と。とくに雪をいただいた冬の富士山が美しいと思うし、好きですね。
−富士講の研究をされて、富士山に対する印象が変わるようなことはありましたか。
富士山はただ見るものだと思っていましたが、富士山は体験するものだ、と思うようになりました。大変な思いをして山道を登り、最後に山頂でご来光を見る、という体験をしなければ、なぜ富士講の人たちがこれだけ長く富士山に登り続けているのかわからないし、今後、自分が富士講をどう研究していくかもきちんと考えられない気がします。なぜ、人は富士山に登るのか。せっかく中里講社に巡り会えたわけですから、私なりの答えをどこかで出したいですね。だから近いうちに登ることになると思います。
1979年 東京都多摩市生まれ 高校卒業後に立正大学文学部史学科に進み考古学を学ぶ。その後、2012年、立正大学大学院文学研究科史学専攻博士後期課程研究指導修了。品川区立品川歴史館学芸員を経て、2016年から清瀬市郷土博物館に勤務。江戸時代の陶磁器の研究を主体とするが、近年は煉瓦・鉄道・ガラスのような近代産業も研究中。