−富士山と佐野さんは、生まれた時からのお付き合い、ということになりますね。
そうです。富士山は子どもの頃から“そこ”に存在しているし、頭の中に常にある。だから意識したことはほとんどないんですよ。別の土地から引っ越して来た人は、富士山を見るのが毎日の日課になるんだろうけど、見ようと思って見ることはほとんどないですね。地元を離れて東京に出ていた20代の頃も、たとえ富士山が見えなくても、“富士山はそこにあるものだ”という感覚でした。遠くの富士山を見つけて「あれが富士山だ!」とみんなが騒ぐと、「富士山はあんなにちっちゃくないよ!」って思ったりね(笑)。
−初めて登ったのはいつですか。この辺りの小学生や中学生は、遠足や学校の行事で登ったりしそうな気もしますけど。
今はどうかわからないけど、僕が中学生の時は、学年全員で登りましたね。朝、学校を出て、5合目から頂上まで登って、夕方には戻ってくるという強行軍。中には高山病になる子もいたけど、みんなと一緒だから、辛かったけど我慢して登った記憶がある(笑)。頂上に着いた時? 日本で一番高い富士山の頂上だっていう意識はほとんどなかったですね。ただ火口を見た時には、ちょっと感動したかな。40年以上も前で、当時は今と違って火口の中に少しだけ入ることができて、そこでみんなで遊んだのがすごくおもしろかった。そのあとも友だちが遊びに来た時に何度か一緒に山頂まで登ったりしたけど、だんだんしんどくなってますね(苦笑)。
−一度地元を離れたことで、富士山に対する意識が変わるようなことはありましたか。
ないですね。ただ、どこか遠くから帰って来る時に富士山が見えると、ああ、家が近くなったなって毎回思うけど、20代の頃に東京から帰って来る時には、とくにそう感じていた気はします。30歳過ぎて地元に戻ってきてしばらくは、よく富士山を見ていたし。すぐにまた、当たり前になっちゃいましたけど(笑)。あと、東京に行って実感したのは、地元の富士山の水がおいしいこと。富士宮の特産品にも、富士山の水を大事に作られたものが多いんですよ。だから地元に戻った直後は、近くの川で湧き水を汲んで、そこでコーヒーを淹れて飲んだりもしたし。「贅沢な時間だなぁ」と思ったけど、3日したら飽きちゃいました(笑)。缶コーヒーでいいやって。
−(笑)。でも水がおいしいのはいいですよね。
ただね、結石になるんですよ。富士山の水は硬くてミネラル分が多いから。同級生は軒並み結石で苦しんでいるし、「富士宮市や富士市は結石率が高い」って医者も言ってました。結石はかなり苦しいらしいから、僕も気をつけてますよ。料理には地元の水をそのまま使っているけど、飲む水は買うことが多いです(笑)。
−いつ頃からバンブーアートを始められたんですか。
地元に戻って2年くらい、何をしようかずっと模索していたんですよ。図書館に通っていろいろ本を読んだりいろんなことをやってみたり、すごく贅沢な時間だった。で、ある時、たまたま竹細工を始めた方たちの作品を見せられたんです。みんな、「すごいすごい」って感心してたけど、僕は「自分でもできる!」って。それでその場ですぐに作ったんです。
−すごい! 小さい頃からものを作るのが得意だったんですか。
絵を描くのはずっと好きでしたね。アルバイトで雑誌のイラストを描いたりもしていたし。それが大きかったんでしょうね。立体造形は、デッサンができれば割と簡単に作れるから。最初は、カマキリとかクワガタとか昆虫をリアルに作ってましたけど、ある時ふと、動くものの影っておもしろいな、影を使ったインスタレーションをしたらおもしろそうだな、と思って、富士宮の工芸品である“ゆらりトンボ”を作ったんです。たくさんのゆらりトンボに、一点からライトを当てて、影を天井や壁に飛ばすインスタレーション。影の高さを子どもの身長に合わせると、そこに入った子どもに作品の一部になってもらえておもしろいな、と思って。そういう現代アートっぽい作品も作ったりしているんですよ。
−材料の竹は、地元でとれるものを使っているんですか。
そうです。地元の竹と言っても、この辺りの竹は中国から来たものなんですよ。遣唐使とかの時代に、中国から持ってきて伊豆に移植したみたいです。それがだんだん富士宮の方まで広がってきた。今は、竹が増えすぎて竹害と言われてますね。昔はザルとか海苔の棚とか田んぼの掛け干しとか、全部竹だったけど、今はほとんど竹を使わないから。僕らが使うのも微々たるもので、竹を減らす助けにはならないんですけどね。
−佐野さん自身は、竹にこだわりはあるんですか。
素材を竹に限定すると限界があるので、近頃は、いろんな素材で作ることも多くなっています。絵と違って、立体造形は人によって使い方が違う。それがおもしろいですね。最近、帯に刺す帯刺しを作ったりもするんですけど、着物や帯との組み合わせで見え方が全然違ってくる。今はそれがおもしろいので、アクセサリーで終わらないような、実用の彫刻をやりたいなあと思っています。和の小物に近いのかな。それをちゃんと作るための技術も、もっと身につけたいですね。
−小さいものを作ることが、もともとお好きだったんですか。
小さいものは場所をとらないのがいいですよね(笑)。日本の住宅事情にも合っているし。最近は手のひらに収まる“掌(なたごころ)の中の彫刻”というテーマで展示会をすることも増えています。それに・・。“そこ”に富士山というでっかいオブジェがあるじゃないですか? 勝負にならないな、と思うから、大きな作品は作らない、と決めています(笑)。富士山も近くに行って見れば、ちっちゃい石の塊の積み重ねでできているんですけどね。地元でものを作る人間にとってあれほど大きなプレッシャーはないと思いますよ。ある意味、シンメトリックで、形も美しい。どんなにすごいものを作っても、描いても富士山には勝てませんからね。遊びに来た友だちに「持って帰れるならあげるよ」って言うんだけど、誰も持っていかないね(笑)。
−佐野さんは小・中学校をはじめいろんなところでワークショップを開いています。子どもたちにはどんなことを伝えたいと思っているのでしょう。
ものを作ることの楽しさ、が伝えられればそれでいいと思っています。あとは自分で考える、ということかな。一度ものを作っているのを見ると、どうやって作るんだろう? って考えるようになるでしょ。それがいいなあ、と。この間、小学校でワークショップをした時に「伝統工芸を守るにはどうしたらいいですか?」と質問されたんですよ。その時に「新しいものを作ることだよ。新しいものができることによって、過去のものが守られるから。だからあなたたちがオリジナルで新しいものを考えなさい。教わることも大事だけど、考えることも大事だよ」っていうようなことを、子どもたちには言いましたね。
−佐野さんは、どんな富士山をきれいだな、と思うのでしょう?
例えば、夜の富士山。夜、外に出ると暗い夜空に影がくっきり浮かんで見える。それはきれいですね。あと、4月の終わりから5月にかけての風のない朝や夕方に、水を張ったこの辺の田んぼに映る逆さ富士もきれいですよ。年に1週間とか2週間くらしか見られませんけどね。あとは・・。秋が近づいて台風が過ぎたあとの富士山かな。雨で空気中の埃が全部落ちて空気が澄むでしょ。そうすると森林限界から何からくっきりと見える。富士山にはこんなにたくさん植物があるんだってつくづく思うし、凛とした緊張感があって、あれは本当に美しいです。意識して見るわけじゃなくて、家の外に出たら見えるから見るっていうだけですけどね(笑)。
−(笑)。意識して見ることは、ほとんどないんですね。
意識してみるのは、初冠雪の時くらいですね。あ、雪が降ったんだ、季節が変わるなって思って。この辺は冬、夜が寒いんですよ。冬の富士山は氷柱みたいなもので、冷やされた空気が下に降りてくるから。おかげで夏も、ちょっとは涼しかったりしますけどね。
−最後に、佐野さんが考える富士山の魅力を教えてください。
難しいですね(笑)。“そこ”にあるんだけど毎日見えるものではないというところが、魅力の一つかもしれないですね。あと、毎回色が違って見えるところとか・・。静岡側に言えることだけど、駿河湾の深いところから裾野が始まって、途中に街があって、畑や水田があって、森があって、森林限界があって、その上に頂上があってというのを、一望できるところもすごいと思うし・・。なにしろでかいですよ。日本で一番高いし、単独峰ですからね。質量が大きいっていうのが、魅力かな(笑)。
1962年1月1日 富士宮市生まれ 地元の高校を卒業後、就職。20歳過ぎに上京し約10年、化学系の会社に勤務する。その間、雑誌のイラストを描くアルバイトも。30代に入って地元に戻り、その2年後くらいからバンブーアート作家として活動をスタート。展覧会だけでなく、ワークショップなども精力的に行っている。
佐野彰秀 掌の中の彫刻展 11月24日(木)〜29日(火) 亀山画廊 (静岡市葵区鷹匠2-4-40 サン・サウス静岡1階)