−“裾野市もののふの里銘酒会”とはどんな会なのでしょう。
沼津小売酒販組合青年会裾野支部を母体に、1992年に結成された会です。バブルもピークを過ぎ、酒販免許の規制緩和やディスカウントショップの増加など酒屋を取り囲む環境が厳しくなってきた頃で、後に初代会長になる服部憲昌氏から、将来を見据えた独自商品の開発が必要ではないかという提案があり、それに賛同した23軒で立ち上げました。沼津小売酒販組合青年会裾野支部では、それまでにも雲仙普賢岳の噴火に際して裾野市限定で「雲仙普賢岳義援缶ビール」を製造販売して売上金の一部の100万円を寄付させていただいたりといった独自の活動をしていましたし、気概のある方たちが多かったんです。私も、世の中の流れは止めようがない、リスクはあるかもしれないけれど、ただ不満を言っているより適正な利潤を得るための新しい道を自分たちで探す方が確実だと考えて、市内の同業者43軒を1軒1軒回って、協力を呼びかけました。
−そして最初の独自商品として日本酒「もののふの里」が開発された。
地産地消とよく言いますが、当時から私たちは地元の原材料にこだわっていて、裾野産の米を100%使い、富士山の伏流水で仕込みました。日本酒は冬場に作り、3月くらいに新酒が店頭に並びますが、1種類だけじゃおもしろくないしもったいない、もっとお酒に物語を持たせようと、ひやおろし、原酒、熟成酒など徐々にバリエーションを増やしました。その後は別の蔵元で、裾野市内のJAなんすん良質米組合の有志によって栽培されている、酒造りに適した「五百万石」を使った「純米すその」を開発し、しぼりたて原酒、古酒などを出してますね。地産地消のパイオニア的存在と自負しています。
−その次に開発されたのが本格茶焼酎の「富士山すその三七七六(さんななななろく)」ですね。
実は当時すでに静岡の名前の入った茶焼酎があったんですが、福岡の八女で作られていることがわかりましてね。それが静岡のお土産として売られている現状に、これはなんとかせにゃいかん、と。同じ頃に富士山本宮浅間大社一二〇〇年祭、富士山ナンバーの創設、富士山静岡空港の建設、世界遺産登録の申請だとか、これからは富士山がキーワードになってくるな、と感じさせる動きがいくつもあって、これはなんとしてでも静岡産のお茶を使った焼酎を作りたい、と考えたわけです。それで2003年から試験醸造を始めて、完成したのが2006年。2007年から販売を始めました。発売当初より、茶焼酎の売上金の一部を富士山基金に寄付しています。またその後、東日本大震災被災地にも同様に寄付を継続しています。
−開発に丸3年ですか。結構時間がかかるものですね。
発酵物質のないお茶の葉から本格茶焼酎を作るには、いろいろ工夫が必要だったんですよ。最初は720ml瓶を3776本限定で、シリアルナンバーのついたものを発売し翌年から一升瓶も販売しました。ただそれだけではそのうち下火になるのは明らかでしたから、富士山を型取った「とっくり」と「おちょうし」の容器を作りました。おかげさまで評判がよくて、名前やメッセージを入れられるような企画もしています。私たちは小さな集まりなので、宣伝にかけるお金はない。企画によってマスコミに取り上げてもらうということを、常に意識しています。日本酒も茶焼酎も“すその”と平仮名にしたのは、将来的に裾野市に限らず富士山周辺のお酒屋さんみんなで売っていこう、みんなで元気になろう、という意図があったからです。ただすでに酒屋は元気のない業種になってきているので、みんなでやろうといくら声をかけても、新しいことをやるのはなかなか難しい、というのが現状ですけどね(苦笑)。
−最近はイチゴワインも作っていると聞きました。
「すそのいちごわいん」ですね。実は裾野市は隠れたイチゴの産地だったんですよ。かつて章姫(あきひめ)というイチゴは特に評判が良くて、全部東京の市場に行っていた。その裾野市産の章姫と紅ほっぺを甲府のワイナリーに運んで、作っています。
−“裾野市もののふの里銘酒会”は酒屋さんという枠を飛び越えた精力的な活動をされているんですね。
確かに珍しい団体だと思います。お酒以外には、富士山型のシリコンの食品成形器も作っています。東日本大震災の時に、石巻市の大川小学校では多くの子どもたちが逃げ遅れたけれど、釜石市あたりでは率先してみんなが逃げて助かった小学校もある。大事なのは自分で考える力を養うことだと思っていて、その食品成形器を使ったマグマカレーというのを提案しています。「マグマって何?」、「富士山が噴火したら出てくるかもしれないよ」という親子の会話から、いざという時にどう行動したらいいかを考えるきっかけになったらいいな、と思って。富士山は生き物で、いつ何が起こるかわからないんだ、と理解してもらうことが、子どもたちの安全確保に一番役立つと思うんですよね。
−23軒で始まった銘酒会。今、何軒の酒屋さんが参加しているんですか。
亡くなったり廃業される方もいて、現在は7軒です。軒数が減ると難しい部分もいろいろ出てきますけど、すでに2019年のラグビーワールドカップや2020年の東京オリンピックに向けた準備も進めています。中小企業団体中央会などの援助もいただきつつ、これからも常に3年先、5年先を見ながら、自分たちの少ない資金でアイディアを出して活動していこうと思っています。
−小さい頃、富士山を意識することはありましたか。
近場にありますから、特に意識することはなかったです。ただ、さっきも話しましたが、2003年くらいかな、富士山本宮浅間大社一二〇〇年祭とか富士山ナンバーといった動きが出てきた時に、富士山は特別なんだなあ、と。そこから富士山のことを勉強し、知れば知るほど富士山はすごい山なんだな、地元の自分たちにとっても素晴らしい財産だな、と思うようになりました。
−思春期の頃にも特に何も?
そうですね。高校時代は陸上競技部でやり投げをやっていて、練習の最初と最後に、グランドと富士山に挨拶はしていましたけどね(笑)。でもだからと言って神々しいと感じていたわけではなくて、それが決まりだったというか。
−富士山がよく見えたんですね。
富士市にある富士高校という高校で、富士山は大きく見えましたね。富士山から吹き降りてくる風はかなり厳しくて、投げたやりが邪魔されて逸れたりすることが何度もありました。当時富士高校は県内でも有数の陸上競技の強豪でした。私は小学校ではソフトボール、中学時代にはバスケットボールをやっていて、陸上の実績は何もなかったんですが、富士高校の陸上部に進んだ兄の応援に行って監督さんや先輩選手に憧れましてね。やり投げにしたのは、監督の勧めです。同期の連中はみんな優秀でしたから、追いつけ追い越せの気持ちでしたね(笑)。インターハイ東海予選で涙をのみましたが、記録的には、その年の高校ランキング28位だったと記憶しています。浪人して入った慶應義塾大学法学部法律学科時代も体育会競走部に入部して、主将を務めさせていただきました。最高成績は日本インカレ10位でした。
−富士山にまつわる一番の思い出を教えてください
思い出になるのかどうかわかりませんが・・。静岡県が「富士山の日」を制定した2010年
−一番好きな富士山を教えてください。
どの方も地元から見た富士山が一番いいと言いますが、私もやっぱり裾野市から見た富士山がいいですね。裾野市から見た富士山は、頂上もほとんど平らで左右対称。形が整ってるんですよ。
−富士山を見て、何か思うことはありますか。
富士山をなんとか活用したい、といつも考えています。例えば、市が管理する梅の里公園という場所があって、そこからは富士山が真正面に見える。春には梅祭りをやっていますが、冬は富士山のシルエットをバックにイルミネーションを飾るとかできないかな、と。新たに箱物を作るのではなくて、アイディアを出して、すでにあるものを生かして、もっと富士山の魅力を伝えたり地元を活性化できたらいいな、と思っています。冬場の富士山も綺麗ですよ。雪をかぶった富士山もいいけれど、夜になると暗闇の中にシルエットが浮かび上がって、それは幻想的な美しさです。その富士山の前にきれいなイルミネーションがあったら、もっと富士山が素敵に映るんじゃないかなあ、と想像したりしていますね。
1956年 裾野市生まれ 高校・大学時代は陸上競技部のやり投げで活躍。東京の大学を卒業後は地元に戻り、実家の酒屋を手伝う。趣味は「仕事とあれこれ考えること」。「走ることは全てのスポーツの基本」と地元で子どもたちに走ることや身体に関することを教えながら、その勉強も欠かさない。日本酒、ビール、ワインなど醸造酒が好きで、熟成酒造りにも造詣が深い。株式会社三七七六代表取締役であり、初代名誉唎酒師(SSIが認定した22人のうちの1人)、富士山裾野ガイド協会会員(静岡県登録世界遺産ガイド)でもある。
裾野市もののふの里銘酒会HP:http://www.3776-mononofu.com/