−「富士河口湖町 世界遺産富士山講座」の前身である「歴史文化財講座」は、どんな意図で始められたのでしょう。
文化財を守るために、地元のみなさんに文化財の大切さを知っていただこう、ということで始めました。その後、富士山の世界文化遺産登録がいよいよ現実的になった2012年に「世界遺産富士山講座」と名前を変えて、富士山の文化的価値を伝えていく、という役割も担うようになりました。それまで富士山を当たり前の存在として捉えていた地元のみなさんの意識も変わり、なぜ世界遺産になったのか、その理由を知りたい、と思う方々の声に応えようという思いもありました。当初は年間7〜8回でしたが、徐々に拡充し、2017年度からは年間11回、開催しています。“信仰の対象”と“芸術の源泉”のという二本柱で世界文化遺産に登録されたわけですから、1年を通して富士山の全容がわかるようにするためにも、それぞれに関する講座が同じバランスでなければいけないと思ってはいますが、なかなか難しいです(苦笑)。“芸術の源泉”については作品を見れば納得できる部分がある一方、“信仰の対象”については時代とともに変遷し、さまざまな要素が入ってくるため単純に説明できないこともあって、どうしても信仰に関する講座が多くなってしまいますね。
−そういえば当初は並行して世界遺産登録に関するお仕事もされていたとか。ご苦労もあったのでは?
2007年に教育委員会に勤めてすぐ、行政の立場で初めて地元に関わった仕事が、世界遺産に関する仕事でした。登録するためにクリアしなければいけないいくつかの課題があり、なかでもハードルが高かったのは、富士五湖を名勝に指定するという課題でした。当時、湖で生業をされている方々の視線は疑問や不安などさまざまなものが交錯していましたから、それを払拭してみなさんの同意を得ることが本当にできるのだろうか、と私自身も不安だった時期があります。何十回と住民説明会を開き、説得を繰り返し、最終的にみなさんから同意をいただくまでの4年間は、正直大変でした。町と県が一丸となり、またいろんな先輩方が手助けをしてくれたからこそクリアできたことだったと思っています。
−富士山が世界遺産になるには、さまざまな経緯があったんですね。この講座を通してみなさんに伝えたいのはどんなことですか。
私はとくに考古学で奈良・平安時代を研究していますが、『万葉集』でも歌われているように、富士山は古代から日本の宝でした。それは今も少しも変わらず、なおかつそれが世界の宝になった。富士山は日本人の心を映し出している山だと思いますし、世界遺産の二つの柱である“信仰の対象”と“芸術の源泉”としての歴史を、日本人がいかに積み上げてきたかを地元のみなさんに知ってもらえるいい機会になれば嬉しいです。富士山にまつわる歴史や文化は、語り継いでいかないと消えてしまいますから、住民のみなさんはもちろん、多くの人が心に留めて置いていただいて、次の世代にどんどんつなげていってもらえれば、と思っています。
−とくに受講者に人気があるのはどんなテーマですか。
やはり御師の話です。なかでも、今も富士講の方を泊めることを生業にされている方がいる上吉田地区の御師ではなく、今では完全に実態がなくなってしまった、富士河口湖町の河口地区の御師の話です。明治以降は“河口”に統一されましたが、江戸時代は“川口”と表記されていた地区です。
−河口地区の御師に、一体何が起きたのでしょう?
御坂山地の麓にある河口地区は、甲斐国と幕府があった鎌倉を結んだ鎌倉街道沿いにあり、御坂峠を歩いて越える人々のための宿場町として古くから栄えていました。富士山信仰が盛んになると、鎌倉街道は長野や群馬などの中部地方や北関東の人たちが富士参詣をする際のメインルートになり、河口地区の御師が大勢の参詣者を受け入れるようになったわけです。江戸時代の河口地区の賑わいは、かなりのものだったはずです。しかし1903年、明治36年に中央本線が新宿−甲府間で開通すると、参詣者たちのほとんどが、甲府から汽車に揺られて大月まで来るようになる。さらに大月から上吉田まで馬車鉄道が通ると、歩いて御坂峠を越える旅人は激減してしまいます。それで河口地区の御師たちは廃業せざるを得なくなった、ということですね。
−そんなことが起きていたんですね。
上吉田地区の御師の家は86軒で、河口地区で御師の資格を持っていたのは129人です。河口地区の御師のなかには、富士山を信仰する人たちがいる村々を回ってお布施を受け取ったり、お札を売ったり、祈祷やお祓いをするなどして収入を得ていた人もいるので、御師の家の数が河口地区の方が多かったとは言えませんが、御師の人数から河口地区のかつての繁栄ぶりをうかがうことはできる。地域の誇りを感じられるテーマなので、地元の参加者の数も多いのではないかと思います。
−ところで廃業した河口地区の御師たちはその後、どうなったのでしょう。
新たな生業を見つけるために海外に渡って農園を開いたりしています。やがて帰国した一部の人は“観光”というものに目をつけ、かつて自分たちが御師としてやっていた旅館業的なことを発展させて、アメリカのホテルを真似た近代的なホテル業を始めた。それが現在の河口湖湖畔の観光地の原型になっています。
−今後については、どんなことを考えていますか。
現在、富士山の麓にあったはずの参詣道について山梨県立富士山世界遺産センターと富士河口湖町で共同調査を行っていますが、そこでの調査成果を噛み砕いて地元のみなさんに知っていただくなど、新たな情報を少しずつ付け加え、常に内容を更新していきたいと思っています。また、鎌倉街道を歩く、というようなフィールドワーク的なことも年1回程度行っていますが、座学でパワーポイントを見ているだけでは伝わらないものもあるので、実際に現地で味わう機会をこれからどんどん増やしていきたいと考えています。
−地元の歴史について調査研究されてきた中で、最も印象的だったことをおしえてください。
6年前の発掘調査で、先ほども話に出た鎌倉街道が受け継いだとされていた、奈良時代の律令体制のもとで造られた官道の遺跡を見つけたことです。鎌倉街道を横切る形で新しく県道を造る工事があった時に丁寧に試掘・確認調査をしたところ、その遺跡が出てきました。その遺跡の発見によりそれまで通説だったものを証明できましたし、この富士河口湖町が、奈良時代から甲斐国を支える交通路が通っていた重要な町だったと改めて認識できました。それは今までの仕事を通しての私の一番の成果であり、一番の誇りです。その道を通って富士山信仰も広がっていったわけですし、青木ヶ原樹海ができるきっかけになった貞観の噴火(864〜866年)の時の緊迫した状況も、早馬がその道を都へと駆け上って朝廷に報告されていたんだな、と具体的なイメージを膨らませられるようにもなった気がします。その官道には馬を交代させる“駅”があったはずで、それに迫る出土品はかなり出ていますが、施設本体はまだ発掘されていない。次はぜひその遺跡を見つけたいですね。
−子どもの頃、富士山をどうご覧になっていましたか。
小学校の休み時間には自由帳に富士山の絵を描いていたくらい富士山には馴染みがありました。ずっと、そこにあるのが当たり前、と思っていた部分はありますが、東京の大学に進学して少し離れたことで、やっぱり特別な山だな、という意識は強くなりました。
−一番好きな富士山の景色は?
いろいろあって、ちょっと優劣はつけ難いですね・・。どこから眺めても美しい富士山ですが、今年一番感動したのは、8月に初めて富士山に登頂した時に富士山から見た富士河口湖町の姿です。周囲には青木ヶ原樹海があり、御坂山地の山々があり、湖がある。本当に豊かで美しい町なんだとすごく感動しましたし、こんな素晴らしい町に住んでいるんだ、と嬉しい気持ちになりました。
−杉本さんの初登頂が今年とは、意外ですね。
小学生の時にも登っていますが、その時は山小屋宿泊中に台風が接近し、八合五勺くらいで下山せざるを得ませんでした。その後はなかなか機会がなくて・・。この仕事をしていて登頂したことがないのは流石に恥ずかしいだろうとずっと思っていたので、この夏、登頂を果たせて安心しました。雲海がきれいに見える日だったので、昔の人たちが“あの世”を体験したというのはこういうことか、と思うこともありましたし、登って初めてわかることがいろいろあってよかったです。ただ、日帰り登山で時間がなかったのと山頂はとても強い風が吹いていて、吉田口の最高地点の久須志岳から先の剣ヶ峰に行けなかったのは非常に残念でした。それはまた次の機会に、と考えています。
−杉本さんにとって富士山の存在とは?
常に見守ってくれている存在ですし、見ることで自分の意識も高まり、頑張らなきゃと奮い立たせられるという意味では、いろんなパワーをもらえる不思議な山だな、と思います。
1979年 富士吉田市生まれ 小学生の頃から発掘や考古学に興味を持ち、日本大学文理学部史学科へ進学。卒業後は都留市、甲州市で学芸員・文化財調査員として勤務し、2007年からは富士河口湖町教育委員会生涯学習課で地元の文化財全般を専門に扱う。実家と伯父の家業が楽器・レコード店で、もう一人の伯父が作曲家という環境だったこともあり、楽器と音楽に囲まれて育つ。無類のビートルズ好き。複数の楽器を演奏し、現在も趣味でバンド活動を行う。日本考古学協会員、山梨県考古学協会委員。
*富士河口湖町 世界遺産富士山講座は3月を除く毎月第二水曜日に開催。どなたでも受講できます。
(問い合わせ先:富士河口湖町教育委員会生涯学習課 0555-72-6053)