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富士山インタビュー

京の都から見る富士山の正面だったのが、今の富士宮市です

富士宮市職員として富士山の世界遺産登録に尽力し、退職後の今も嘱託職員として地元のために精力的に働いている渡井一信さん。
2015年に放映され、今年のお正月にも再放送された人気番組「ブラタモリ」が富士山を取り上げた3回に、案内人としても登場しました。
穏やかで、郷土愛の溢れる方でした。
写真:飯田昂寛/取材・文:木村由理江

あまり知られていませんが、富士山の4分の1は富士宮市なんですよ

−富士宮市富士山世界遺産課長になったのはいつですか。

 2007年1月末に富士山が世界文化遺産の暫定リストに加わって、富士宮市が新たに世界遺産担当の富士山文化課を設けた時です。登録が決まった2013年に定年退職するまで担当しましたから、足掛け7年、ですか。登録が決まった後に、課の名前が富士山文化課から富士山世界遺産課に変わったんですよ。

−当時はたくさんご苦労があったんでしょうね。

 いろんなことがありました(笑顔)。ご承知だと思いますが、世界遺産登録の推薦書に盛り込まれる構成資産は、国指定の史跡や文化財になってないといけない。指定されることで箔がつく、という考え方もありますが、そのことで細かな規制がかかる可能性があるんじゃないか、という懸念を持つ人も多くて、なかなか地元の同意が得られない、ということもありましたね。

−最終的に、複数の周辺地域が関わる富士山域を除く24の構成資産のうち、富士宮市から五つが選ばれました。

 忍野八海と御師の家を個別に考えなければ構成資産は17。山体を除いた16のうちの五つということになりますから、最初は評価していただけたことが嬉しかったし、自分でも何かを成し遂げたという充実感がありましたが、だんだんそれらを整備していかなければいけないという責任の大きさ感じるようになりました。しかもあまり知られていませんが、富士山の4分の1は富士宮市ですからね。

−そんなに!? それは負担が大きそうですね。市内にある五つの構成資産、富士山本宮浅間大社、山宮浅間神社、村山浅間神社、人穴富士講遺跡、白糸の滝について少し教えてください。

 25の構成資産の1が富士山域で、2が富士山本宮浅間大社です。806年、天皇の命により坂上田村麻呂が現在の地に社殿を造営したという、まさに浅間信仰の中心です。溶岩流の末端であり、かつ清らかな富士山の伏流水がこんこんと湧き出る湧玉池があることで、この場所が選ばれたと考えられています。噴火を水によって鎮めるということですね。3の山宮浅間神社は、富士山本宮浅間大社の前身だったところです。数百年間、遥拝所としての機能を持っていました。社はなく、流れ着いた溶岩流の末端の溶岩を積んだ石列によって一つのエリアを作り、その真ん中に立って富士山を遥拝していたと考えられます。そこからは正面に富士山がドン、と見えますから、まさに富士山体を信仰するにはふさわしい場所です。天候により必ず見えるわけではありませんが、見えた時には本当に感動します。溶岩流の末端を一つのポイントとして遥拝所をつくるところは多いんですよ。

−そうなんですね。村山浅間神社は?

 富士山の修験道の中心地だったところです。明治の廃仏毀釈運動が起きるまでは興法寺という仏教系の施設で、大宮・村山口登山道や山頂にあった多くの仏像を管理していました。

−廃仏毀釈により破壊された仏像は火口に投げ捨てられたとも聞きました。

 当時は山頂の八つの峰には釈迦岳とか薬師岳とか仏教的な名前がつけられていて、火口はご内院といって大日如来とされていたんですよ。結局それらの仏像は破壊され、またひっそり下山することになってしまうんですけどね。

−人穴富士講遺跡と白糸の滝は? 二つは関係があるそうですね。

 ええ。4キロくらい離れていますが、人穴富士講遺跡と白糸の滝は一体と言っていいでしょうね。どちらも江戸初期、富士講の祖となった長谷川角行が修行をした場所で、その後、関東各地から多くの富士講の講員が修行に訪れたという記録が残っています。ここで修行した人たちが登るのは吉田口なんですけどね。

−え、わざわざ山梨県の吉田口へ移動して?

 江戸から見る富士山の正面にあるのは吉田口ですからね。富士吉田から鳴沢村を経て人穴に至る、標高線に沿った歩きやすいルートをつくっていたんですよ。

古くは、奥宮がある山頂が富士宮と呼ばれていたようです

−富士山信仰の歴史についても、教えてください。

 先ほども坂上田村麻呂の名前が出ましたが、それよりももっと前、噴火を続ける富士山そのものを信仰の対象として、祈りを捧げることで鎮まってもらおうとしたのが一番古い浅間信仰で、富士山の周辺に浅間神社がつくられました。それが平安時代末から鎌倉時代になり噴火が収まってくると、今度は山岳信仰の修験の山になってくる。そして戦国時代から江戸の初めにかけて長谷川角行が溶岩洞穴の人穴にこもって悟りを開き、その教えが広まってたくさんの富士講が組まれることになるわけです。角行が亡くなったとされる人穴は富士山の真西にあり、富士講の西の浄土とされたことも、多くの講員がやってきた理由でしょうね。

−富士講はなぜ江戸で広まったんでしょう?

 富士講が江戸から火がついたのは、気づきだと思います。江戸の町から見て富士山はシンボルですよね。しかも、街道が整備されてお伊勢参りのような旅行ブームが起きた。その中で富士講が広まり、富士山に登ろうということになったんでしょうね。富士講は江戸が中心と思われがちですが、三重や奈良などの関西方面でもいまだに富士講は残っているんですよ。毎年は登らないけれど、12年に1度、ご縁年の申年には必ず登るという具合に。

−先ほど、浅間大社は溶岩流の末端と伏流水が湧く場所を選んで建てられた、というお話がありましたが、その二つの要素を満たす場所は他にもいろいろある気がするのですが・・。

 都があった京都から街道を来た時に見える富士山の正面がここだった、ということも大きな理由だったと思います。

−それでずいぶん古くから、富士宮、と呼ばれていたわけですね。

 富士宮市になったのは、近隣の村と合併した1942年からです。それまでこの辺りは、富士山本宮浅間大社という大きなお宮があるというので大宮と言われていたんですよ。埼玉県の大宮と同じです。向こうは氷川神社ですけどね。

−もっと古い文献の中に“富士の宮”という地名が出てくるとどこかに書いてあった気がしますが。

 その“富士の宮”は、奥宮のある富士山頂のことのようですね。市の名前を富士宮にする時に内務省に提出した申請書に“古い時代から山全体がお宮と考えられていて、奥宮は富士の宮と呼ばれていた”というようなくだりがあります。今もそうですが、徳川時代に、八合目以上は富士山本宮浅間大社の境内地、と認められた。そんなゆかりもあって、富士宮、という名前にしたようです。

−神仏習合の時代、大日如来とみなされていた火口に多くの人がお賽銭などを投げ入れ、その火口の底が八合目に至っているために境内地だと認められた、と「ブラタモリ」でもご説明をされてましたね。

 そうでしたね(笑)。

富士山は偉大な存在。いつも感謝しています

−富士宮市役所ではどんなお仕事をされてこられたんですか。

 学芸員として最初の10年くらいは遺跡だとかの埋蔵文化財の発掘をやりまして、その後は文化財の管理、保護や芸術文化の振興など、学芸員が関わって不思議はないという分野は、全部やってきました。文化課長になってからは、芸術文化の分野を含め、歴史的、考古学的、民俗学的な文化財の総括をやらせてもらいましたね。富士宮という郷土の歴史の引き出しを、学者とは違う立場でみなさんに説明し、紹介するような仕事ですね。

−郷土の歴史や文化を大事にすることはとても大事ですよね。

 ええ。“郷土愛”は行政の一つの基本だと思います。とくに今は教育委員会、という部署の中にいますから、義務教育の子どもたちを通して後世に、富士宮とはどういう町かをきちんと伝えていくことの大切さを感じています。郷土に特化した独自の教科書の副読本を作って、その中にまさに郷土愛を盛り込んでいます。青春時代に至るまでの時代を、こんなに大きな富士山、そして見事な大自然に抱かれて過ごせるというのは本当に恵まれているし、子どもたちの心も豊かになると思いますね。

−渡井さんにとって富士山とはどんな存在ですか。

 私は富士山の麓で生まれて、子どもの頃から毎日のように富士山を見て育ちました。私のように富士山南麓に住んでいる人たちは、富士山というと三つの峰と右の裾野の中間に宝永噴火の名残のコブを描くんですよ。それが当たり前だと思っていましたが、この仕事について、どこから見るかによって形が少しずつ違うと気づいたのは、おもしろかったですね。ここで暮らす人たちは、縄文時代の昔から富士山とともに苦楽を共にし、富士山のもとで培われた伝統文化に育まれてきた。水が出るという恩恵がある一方で、火山灰土でなかなか作物が育たないという苦労もありますからね。でも一番の恩恵は、屏風になって北風を防いでくれることだと思います。富士山を背中に背負っていると言うよりも、守られている、という感覚です。本当に偉大な存在なので、常々感謝しています。朝、富士山に手を合わせている老人も、よく見かけますしね。

−どんな富士山が一番好きですか。

 どれか一つ、と言われると難しいですね。赤富士は神秘的ですし、シルエットで見るのもいいし、いろんな種類の笠雲がかかっている様子もおもしろいし・・。でも一番かっこいいのは、台風一過の富士山かな。空気が澄んで、間近に見えるし、木々の緑が高低差によって違うのもよくわかる。それは素晴らしいですよ。

渡井一信
わたいかずのぶ

1954年 富士市生まれ 東京の大学へ進学後、地元に戻り富士宮市役所に。勤続36年ののちに定年退職し、現在は嘱託で富士宮市教育委員会文化課埋蔵文化財センター社会教育指導員と郷土資料館館長を務める。構成資産や郷土史に関する執筆、講演も多い。趣味は30代から始めた俳句。教室もいくつか持っている。俳号は師匠がつけてくれた“一峰”。またライフワークとして、地元にゆかりのある『曽我物語』の曽我兄弟に関する伝承を調査研究中で、地元紙に連載していたことも。

インタビューアーカイブ
山田淳富士登山のスペシャリスト
田中みずき女性絵師
青嶋寿和マウントフジ トレイルステーション実行委員長
森原明廣山梨県立博物館学芸課長
渡邊通人富士山自然保護センター自然共生研究室室長
田近義博富士山ツーリズム御殿場実行委員会事務局長
中島紫穂富士山レンジャー
植田めぐみフリーカメラマン
外川真介上の坊project代表・天下茶屋三代目
山本裕輔印伝職人・印伝の山本三代目
金澤中シンガー・ソングライター
池ヶ谷知宏goodbymarket代表・デザイナー
田代博一般財団法人日本地図センター常務理事・地図研究所長
宮下敦成蹊気象観測所所長
加々美久美子御師旧外川家住宅館内ガイド&カフェ「北口夢屋」オーナー
土器屋由紀子認定NPO法人富士山測候所を活用する会理事・江戸川大学名誉教授 農学博士
福田六花医学博士・ミュージシャン・ランナー
舟津宏昭富士山アウトドアミュージアム代表
小松豊特定非営利活動法人 土に還る木 森づくりの会代表理事
菅原久夫富士山自然誌研究会会長・富士山の自然と花を観る会主宰
新谷雅徳一般社団法人エコロジック代表理事
堀内眞富士山世界遺産センター学芸員
杉山泰裕静岡県文化・観光部理事(富士山担当)
前田宜包富士山八合目富士吉田救護所ボランティア医師・市立甲府病院医師
高林恵梨子静岡県人事委員会事務局職員課任用班
今野登志夫陶芸家
遠藤まゆみNPO法人三保の松原・羽衣村事務局長、羽衣ホテル4代目女将
佐野彰秀バンブーアート作家
オマタタツロウ音楽家・画家
高橋百合子富士吉田市教育委員会 歴史文化課 課長補佐
内藤恒雄手漉和紙職人・駿河半紙技術研究会会長
太田安彦一般社団法人 ヨシダトレイルクラブ代表理事・富士吉田市公認富士登山ガイド
影山秀雄機織り職人 手機織処 影山工房主宰
江森甲二裾野市もののふの里銘酒会会長
中尾彩美富士山ビュー特急アテンダント
渡辺義基渡辺ハム工房
古屋英将株式会社ミロク代表取締役社長
井出宇俊井出醸造店・井出酒類販売株式会社営業部
望月基秀製茶問屋 株式会社静岡茶園 常務取締役
関根暢夫・ふじゑさん夫妻ふじさんミュージアム 手話ガイド
御園生一彦米久株式会社代表取締役社長
rumbe dobby手織り作家
小山真人静岡大学 教授 理学博士
勝俣克教富士屋ホテル 河口湖アネックス 富士ビューホテル支配人
漆畑信昭柿田川みどりのトラスト、柿田川自然保護の会各会長
日野原健司太田記念美術館 主席学芸員
渡井一信富士宮市郷土資料館館長
大高康正静岡県富士山世界遺産センター学芸課准教授
渡辺貴彦仮名書家
望月将悟静岡市消防局山岳救助隊員・トレイルランナー
成瀬亮富士山写真家
田部井進也一般社団法人田部井淳子基金代表理事、
クライミングジム&ヨガスタジオ「PLAY」経営
齋藤繁群馬大学大学院医学系研究科教授、医師、日本山岳会理事
吉本充宏山梨県富士山科学研究所 火山防災研究部 主任研究員
柿下木冠書家・公益財団法人独立書人団常務理事
菅田潤子富士山文化舎理事『富士山事記』企画編集担当
安藤智恵子国際地域開発コーディネーター
田中章義歌人
千葉達雄ウルトラトレイル・マウントフジ実行委員会事務局長、
NPO法人富士トレイルランナーズ倶楽部事務局長

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