−富士宮市富士山世界遺産課長になったのはいつですか。
2007年1月末に富士山が世界文化遺産の暫定リストに加わって、富士宮市が新たに世界遺産担当の富士山文化課を設けた時です。登録が決まった2013年に定年退職するまで担当しましたから、足掛け7年、ですか。登録が決まった後に、課の名前が富士山文化課から富士山世界遺産課に変わったんですよ。
−当時はたくさんご苦労があったんでしょうね。
いろんなことがありました(笑顔)。ご承知だと思いますが、世界遺産登録の推薦書に盛り込まれる構成資産は、国指定の史跡や文化財になってないといけない。指定されることで箔がつく、という考え方もありますが、そのことで細かな規制がかかる可能性があるんじゃないか、という懸念を持つ人も多くて、なかなか地元の同意が得られない、ということもありましたね。
−最終的に、複数の周辺地域が関わる富士山域を除く24の構成資産のうち、富士宮市から五つが選ばれました。
忍野八海と御師の家を個別に考えなければ構成資産は17。山体を除いた16のうちの五つということになりますから、最初は評価していただけたことが嬉しかったし、自分でも何かを成し遂げたという充実感がありましたが、だんだんそれらを整備していかなければいけないという責任の大きさ感じるようになりました。しかもあまり知られていませんが、富士山の4分の1は富士宮市ですからね。
−そんなに!? それは負担が大きそうですね。市内にある五つの構成資産、富士山本宮浅間大社、山宮浅間神社、村山浅間神社、人穴富士講遺跡、白糸の滝について少し教えてください。
25の構成資産の1が富士山域で、2が富士山本宮浅間大社です。806年、天皇の命により坂上田村麻呂が現在の地に社殿を造営したという、まさに浅間信仰の中心です。溶岩流の末端であり、かつ清らかな富士山の伏流水がこんこんと湧き出る湧玉池があることで、この場所が選ばれたと考えられています。噴火を水によって鎮めるということですね。3の山宮浅間神社は、富士山本宮浅間大社の前身だったところです。数百年間、遥拝所としての機能を持っていました。社はなく、流れ着いた溶岩流の末端の溶岩を積んだ石列によって一つのエリアを作り、その真ん中に立って富士山を遥拝していたと考えられます。そこからは正面に富士山がドン、と見えますから、まさに富士山体を信仰するにはふさわしい場所です。天候により必ず見えるわけではありませんが、見えた時には本当に感動します。溶岩流の末端を一つのポイントとして遥拝所をつくるところは多いんですよ。
−そうなんですね。村山浅間神社は?
富士山の修験道の中心地だったところです。明治の廃仏毀釈運動が起きるまでは興法寺という仏教系の施設で、大宮・村山口登山道や山頂にあった多くの仏像を管理していました。
−廃仏毀釈により破壊された仏像は火口に投げ捨てられたとも聞きました。
当時は山頂の八つの峰には釈迦岳とか薬師岳とか仏教的な名前がつけられていて、火口はご内院といって大日如来とされていたんですよ。結局それらの仏像は破壊され、またひっそり下山することになってしまうんですけどね。
−人穴富士講遺跡と白糸の滝は? 二つは関係があるそうですね。
ええ。4キロくらい離れていますが、人穴富士講遺跡と白糸の滝は一体と言っていいでしょうね。どちらも江戸初期、富士講の祖となった長谷川角行が修行をした場所で、その後、関東各地から多くの富士講の講員が修行に訪れたという記録が残っています。ここで修行した人たちが登るのは吉田口なんですけどね。
−え、わざわざ山梨県の吉田口へ移動して?
江戸から見る富士山の正面にあるのは吉田口ですからね。富士吉田から鳴沢村を経て人穴に至る、標高線に沿った歩きやすいルートをつくっていたんですよ。
−富士山信仰の歴史についても、教えてください。
先ほども坂上田村麻呂の名前が出ましたが、それよりももっと前、噴火を続ける富士山そのものを信仰の対象として、祈りを捧げることで鎮まってもらおうとしたのが一番古い浅間信仰で、富士山の周辺に浅間神社がつくられました。それが平安時代末から鎌倉時代になり噴火が収まってくると、今度は山岳信仰の修験の山になってくる。そして戦国時代から江戸の初めにかけて長谷川角行が溶岩洞穴の人穴にこもって悟りを開き、その教えが広まってたくさんの富士講が組まれることになるわけです。角行が亡くなったとされる人穴は富士山の真西にあり、富士講の西の浄土とされたことも、多くの講員がやってきた理由でしょうね。
−富士講はなぜ江戸で広まったんでしょう?
富士講が江戸から火がついたのは、気づきだと思います。江戸の町から見て富士山はシンボルですよね。しかも、街道が整備されてお伊勢参りのような旅行ブームが起きた。その中で富士講が広まり、富士山に登ろうということになったんでしょうね。富士講は江戸が中心と思われがちですが、三重や奈良などの関西方面でもいまだに富士講は残っているんですよ。毎年は登らないけれど、12年に1度、ご縁年の申年には必ず登るという具合に。
−先ほど、浅間大社は溶岩流の末端と伏流水が湧く場所を選んで建てられた、というお話がありましたが、その二つの要素を満たす場所は他にもいろいろある気がするのですが・・。
都があった京都から街道を来た時に見える富士山の正面がここだった、ということも大きな理由だったと思います。
−それでずいぶん古くから、富士宮、と呼ばれていたわけですね。
富士宮市になったのは、近隣の村と合併した1942年からです。それまでこの辺りは、富士山本宮浅間大社という大きなお宮があるというので大宮と言われていたんですよ。埼玉県の大宮と同じです。向こうは氷川神社ですけどね。
−もっと古い文献の中に“富士の宮”という地名が出てくるとどこかに書いてあった気がしますが。
その“富士の宮”は、奥宮のある富士山頂のことのようですね。市の名前を富士宮にする時に内務省に提出した申請書に“古い時代から山全体がお宮と考えられていて、奥宮は富士の宮と呼ばれていた”というようなくだりがあります。今もそうですが、徳川時代に、八合目以上は富士山本宮浅間大社の境内地、と認められた。そんなゆかりもあって、富士宮、という名前にしたようです。
−神仏習合の時代、大日如来とみなされていた火口に多くの人がお賽銭などを投げ入れ、その火口の底が八合目に至っているために境内地だと認められた、と「ブラタモリ」でもご説明をされてましたね。
そうでしたね(笑)。
−富士宮市役所ではどんなお仕事をされてこられたんですか。
学芸員として最初の10年くらいは遺跡だとかの埋蔵文化財の発掘をやりまして、その後は文化財の管理、保護や芸術文化の振興など、学芸員が関わって不思議はないという分野は、全部やってきました。文化課長になってからは、芸術文化の分野を含め、歴史的、考古学的、民俗学的な文化財の総括をやらせてもらいましたね。富士宮という郷土の歴史の引き出しを、学者とは違う立場でみなさんに説明し、紹介するような仕事ですね。
−郷土の歴史や文化を大事にすることはとても大事ですよね。
ええ。“郷土愛”は行政の一つの基本だと思います。とくに今は教育委員会、という部署の中にいますから、義務教育の子どもたちを通して後世に、富士宮とはどういう町かをきちんと伝えていくことの大切さを感じています。郷土に特化した独自の教科書の副読本を作って、その中にまさに郷土愛を盛り込んでいます。青春時代に至るまでの時代を、こんなに大きな富士山、そして見事な大自然に抱かれて過ごせるというのは本当に恵まれているし、子どもたちの心も豊かになると思いますね。
−渡井さんにとって富士山とはどんな存在ですか。
私は富士山の麓で生まれて、子どもの頃から毎日のように富士山を見て育ちました。私のように富士山南麓に住んでいる人たちは、富士山というと三つの峰と右の裾野の中間に宝永噴火の名残のコブを描くんですよ。それが当たり前だと思っていましたが、この仕事について、どこから見るかによって形が少しずつ違うと気づいたのは、おもしろかったですね。ここで暮らす人たちは、縄文時代の昔から富士山とともに苦楽を共にし、富士山のもとで培われた伝統文化に育まれてきた。水が出るという恩恵がある一方で、火山灰土でなかなか作物が育たないという苦労もありますからね。でも一番の恩恵は、屏風になって北風を防いでくれることだと思います。富士山を背中に背負っていると言うよりも、守られている、という感覚です。本当に偉大な存在なので、常々感謝しています。朝、富士山に手を合わせている老人も、よく見かけますしね。
−どんな富士山が一番好きですか。
どれか一つ、と言われると難しいですね。赤富士は神秘的ですし、シルエットで見るのもいいし、いろんな種類の笠雲がかかっている様子もおもしろいし・・。でも一番かっこいいのは、台風一過の富士山かな。空気が澄んで、間近に見えるし、木々の緑が高低差によって違うのもよくわかる。それは素晴らしいですよ。
1954年 富士市生まれ 東京の大学へ進学後、地元に戻り富士宮市役所に。勤続36年ののちに定年退職し、現在は嘱託で富士宮市教育委員会文化課埋蔵文化財センター社会教育指導員と郷土資料館館長を務める。構成資産や郷土史に関する執筆、講演も多い。趣味は30代から始めた俳句。教室もいくつか持っている。俳号は師匠がつけてくれた“一峰”。またライフワークとして、地元にゆかりのある『曽我物語』の曽我兄弟に関する伝承を調査研究中で、地元紙に連載していたことも。