−山本さんは"印伝の山本"の三代目。印伝職人になると決めたきっかけは何だったんですか
私が中学生の時に父(山本誠さん)が甲州印伝の伝統工芸士の資格を取りまして、その時に通産省(現在の経済産業省)からもらった"伝統工芸士"と書かれた盾を見て、「あ、これが欲しいな」と思ったんです。学校に休まず行って皆勤賞をもらっても賞状1枚で、盾というのはなかなかもらえないですよね。勉強に優れているわけでもない自分がどうしたら盾をもらえるかと考え、「よし、父と同じ印伝をやろう!」と決めました。
−印伝職人として働き始めたのはいつからですか。
大学を出てからです。中学を卒業してすぐ印伝の仕事をすることも考えましたが、それは大人になってからでもできるな、と。ゲームが好きでパソコン関係の仕事にも興味があったので、両方を一緒に勉強できたらベストなんじゃないかと思って、高校でコンピューター系のことを学びながら、家で父の仕事を見ていました。大学には、経営を学ぶために進学しました。1980年代まではすごくよかった印伝の売り上げが1990年代に入って落ち始めたらしいんですよ。「伝統工芸は後継者が不足している」、「伝統工芸品は売れなくなった」というニュースを目にするようになって、伝統工芸の印伝を知ってもらうためのマーケティングや商品を買ってもらうための流通を学ぼう、と思ったんです。製品を次々と新しくすることより、そういう地ならしが必要な気がしたんですよね。
−22歳からお父さんのもとでみっちり修行。どれくらいで一人前に?
約5年です。子どものころから父の隣で10年以上、鞣(なめ)して染色した鹿革に伊勢型紙を置いて漆を擦り込み、型紙を剥がして室で漆を硬化させて仕上げる、という工程を見ていたので、他の人よりはちょっと早かったかもしれないです。
−印伝作りはどんなところが難しくて、どんなところが楽しいですか。
型紙通りの模様と、印伝独特のあのぷっくりとした漆の手触りを出すのが難しいですね。漆は1回擦り込んだら、修正がきかないんです。だから擦り込む時の漆の量や力加減、型紙を剥がす手際がすごく大事だし、そこが難しいですね。力加減を間違えると、模様のつぶつぶが潰れて1本の線になってしまったり、型紙が破れてしまったりしますから。型紙は紙でできているので、すぐ破れてしまうんですよ。作るのに10万円くらいかかった伊勢型紙が、試しに漆を擦り込んだ1回で破けたりするとかなり痛いです(苦笑)。模様のつぶつぶが潰れた鹿革は、潰れてないところを使って小さな製品にできればいいんですが、そうでなければ廃棄するしかない。成功率をいかに上げるか、いつも考えています。楽しみは・・。鹿革を製品にしていく、その過程ですね。印伝は比較的自由度が高いんですよ。柄に決まりがないから自分の考えた模様を柄にできるし、鹿革に漆が載った2Dの状態で印伝だから、何を作っても印伝なんです。どんな柄で何を作るかを考え、実際に形にしていくのは本当におもしろいです。
−富士山柄を考案しようと思ったのはいつごろですか?
06年ごろです。山梨県内に印伝の会社は4社あるんですが、印伝屋さんという大きな会社があって、自社がどうがんばっても売り上げでは金メダルは獲れない。銀メダルで最高の結果を出すためにはどうするか、と考えた時に、自社の特徴を出した製品を出そうと思ったんですよ。祖父の代から鹿革の染色にこだわっていて、自社には20種類以上の色があるので、それをもっと知ってもらえるような製品を作ろうと思ったことも大きかったですね。そのためにも珍しい色と柄を組み合わせて、新しい商品を作りましょう、と。どういう柄にしてどういう色と合わせて何を作ろうかと、ずっと考えていく中で、富士山柄を作ろう、と思ったんです。代々山梨に住んでいて、祖父の代から山梨の工芸である甲州印伝の仕事に携わっている山本ですから、"山"には縁が深い。富士山柄を出すならうちだ! という強い思いが昔からありました。
−柄を考案する上で最も悩んだのは?
印伝の特徴のひとつでもあるつぶつぶ模様でどう富士山を表すか、です。富士山を囲む二重丸が表しているのはリングです。山梨から見える富士山の絶景といえばダイヤモンド富士ですからね。あとは、日本一のジュエリーの産地である甲府を表そうと七宝柄から抽出した花。さらに、印伝はもともと甲冑などの武具に使われていたものでもあるので、武将・武田信玄の紋である武田菱と組み合わせてみました。富士山と花の組み合わせは結構あるんですけど、この3種の組み合わせは、印伝ならではなんじゃないかと思います。
−富士山柄の製品はいつから売り出しているんですか。
富士山が世界遺産に登録された2013年です。伊勢型紙が出来上がったのは前年でした。ひとつの柄でいくつかの製品を展開するには最初にある程度のストックが必要なので、ずっと富士山柄の印伝をストックしていたんですよ。ちょうどストックが充実してきた4月にイコモスからの登録の勧告があったので、6月に富士山が世界遺産に登録された週のうちに富士山柄の製品を店頭に並べることができました。
−タイミングにも恵まれたんですね。
そうですね。おかげさまでいろんなメディアで取り上げていただけて、お客さまの反応も上々です。今は自社を代表する柄のひとつとして知っていただいています。
−富士山は子どものころから見ていたんですか。
そうです。甲府からだと雪をかぶっている頭の部分くらいしか見えないんですけどね。
−甲府の小、中学生は遠足で富士山に行くこともあるのでしょうか。
私は行ってないし、おそらく行かないと思います。車で入れる5合目まではかなりの甲府市民が行っていると思うし、富士吉田とか河口湖の方から富士山の景観を楽しむ人も多いと思いますけど、頂上まではなかなか。登ったという話は、周りでもあまり聞かないですね。
−山本さんも1度も?
1回だけですね。2012年8月に高校時代からの友人と2人で行きました。朝8時に富士吉田口の5合目をスタートして、その日の夕方5時に下りて来ました。
−どうして登ろうと思ったんですか。
急に「登ろう」と思ったんです。地元なのに富士山に登ったことがないというのがずっと自分の中で引っ掛かっていたし、1度は頂上に行ってみたいと思っていたんですよ。30歳になる直前だったから、20代の最後に登るべきだ、と思ったんでしょうね。富士山柄の印伝をすでに作り始めていたので、たくさん売れるように祈願もしようと思って革の状態で持って行きました。頂上で浅間大社にお参りもして、神社の脇で富士山柄の印伝を手に記念写真も撮ってきました。
−富士登山はどうでしたか?
修行だなあと思いました(笑)。登りながら、初めての山登りなのにどうして富士山に登ろうなんて考えたんだろうと、何度も思ってました。8合目辺りは、一番キツかったです。でも頂上に着いたら天気もよくて、すごく晴れやかな気分になりました。富士山に登るのが好きだという人の気持ちがわかる気がしたし、山登りもいいなあ、と思って、以来、山登りを趣味にしています。口伝えなので本当かどうかわからないですけど、私は山本家としては六代目で、もともとは甲府ではなくて南アルプスの方に山を持っていて、その麓に住んでいたから山本姓を名乗るようになったらしいんですよ。山本家には潜在的に山岳信仰があるんじゃないかな、という気がします。山本家のお墓は、ダイヤモンド富士のビュースポットですしね(笑)。
−山本さんが考える富士山の魅力を教えてください。
やっぱりあのスケール感ですね。学校の校歌にも"富士"という言葉が必ず入っているし、山梨県の観光ガイドや甲府市の観光冊子を見ても、必ず富士山の写真が表紙を飾る。静岡の人もそうだと思うんですが、日本を代表する富士山が地元にあるというのが、自分たちのアイデンティティであり、また誇りだという気がします。
−富士山を見てると、どんな気分になるんですか。
落ち着きますね。印伝の販売で県外へ出張することが多いんですが、東京方面の出張からの帰りには、中央線の笹子トンネルを抜けて甲府盆地と富士山が見えると、それから、静岡方面からの帰りには身延線の富士宮駅をすぎた辺りから富士山が見えると、「ああ、帰って来たな」と思います。いつも富士山に見守られている気がします。
1982年9月 山梨県甲府市生まれ。中学時代に祖父、父と同じ印伝職人を志す。印伝の将来を見据えて大学で経営を学んだあと、本格的に職人の道へ。現在では日本で唯一の甲州印伝伝統工芸士の資格を持つ父と弟(山本法行さん)と3人で印伝を製作。製品やデザインには母や、育児の傍ら妻も協力。印伝の伝統を守りつつ、新しい柄、新しい製品にも意欲的。http://www.yamamoto-inden.com/