−堀内さんが富士信仰に興味を持たれたきっかけを教えてください。
私は富士山の山もとに生まれ、学生時代の一時期を除いて、富士山の北麓で暮らしているので、富士山を特別な存在と思ったことはありませんでした。それが地元の役所の職員として自治体史の編集に関わり、調査に来られる先生方とお話する中で、外部の人たちが富士山をどのように認識し、また興味や関心を抱きながら調査に取り組んでいるかを知るにつけ、富士山の山もとで暮らす私たちと外部の人たちが富士山に寄せる認識に大きな違いがあることに気づかされました。それが出発点でしたね。その後、博物館で仕事を継続しましたが、集積される資料は富士山のものが圧倒的に多く、本人の興味関心にかかわらず、職務上引きずりこまれた、というのが本当だと思います(笑)。
−富士信仰のどんなところに興味を持たれているのでしょう。
江戸時代中頃に成立した、江戸を中心とした富士信仰を、一般に富士講と呼んでいますが、富士山の大衆登山が盛んになるのは、それ以前の室町時代後期のことです。それがどういう経緯を経て、江戸時代に富士講と呼ばれる信仰的な組織に発展していったのか、というあたりに関心を持っています。山もとに暮らす人たちや、江戸・東京など富士山を望むことができる地域に富士信仰があり、さらにその外側の地域にも富士信仰が展開します。そのような信仰の広がりにも、興味を持っています。
−見えない地域でも、富士山を信仰している人がいるんですか。
はい。例えば、山梨、長野、岐阜にまたがる中部高地の山がちな地域、熊野灘の沿岸地域、遥か東方の海上に富士山を遠望する伊勢湾岸にも信仰的な講が今も存在しています。今年は、"申年の富士参り"の年に当たり、富士山を信仰する人たちは12年に一度の特別な富士登山を実施することになります。
−なぜ申年の今年は特別なのでしょう。
雲霧に隠れて見えなかった富士山が初めて姿を現したのが申年だ、という伝説に基づくものです。通常、申は"去る"に通じるので縁起のよい日や年ではありません。しかし、富士山の北麓の地域には、申の日や申の年に慶事を忌避しない伝統があります。富士山の神使は申だ、という認識によるものです。前回の2004年の申年には集団で富士登山にやって来た伊勢湾岸の集落の人たちの様子を拝見させてもらいましたが、非常に興味深いものでした。
−その地域の人たちは、何のために集団で富士登山をするんですか。
成人儀礼と考えられます。今は20歳で大人の仲間入りですが、昔は15歳から大人とみなされましたので、前の申年の後に成人した15歳(実際には高校受験を終えた16歳)から27歳までの男たちが登山にやって来ました。彼らは事前に集落の前浜に模造の富士山(蓬莱山)を造って準備します。当日、スバルラインの五合目についた一行が登山を始めると、登山に送り出した家の祖母や母親が蓬莱山の周りを道中歌に合わせて歌い踊ります。それを休憩を挟みながら一行が山頂に着くまで続けるのです。
−山に登る人と送り出した人は一体なわけですね。
ええ。残念ながら2004年は台風が襲来して8合目で登頂を断念しました。古くは登山者が登山中もにも踊りを奉納する伝統があったようで、スバルラインが開通する前は、北口の浅間神社と五合目と山頂で踊っていたとも聞きました。私は北口の神社の氏子ですが、このような行事が神社でなされていることを全く知りませんでした。関東の富士講のことしか念頭になかったのです。揃いの白い衣装を着てやって来る関東の富士講の人たちと違い、西国の人々は通常の登山スタイルでやって来るので、外見的には信仰登山者だとは気づきませんが、多様な富士信仰の伝統が各地に残っているのは大切なことだと思います。
−富士山を信仰していない人も、富士山に登るのはなぜだと思いますか。
経験的には、人が富士山に登ろうとするのは、順風満帆な時というよりはむしろ、何か事情があったり、人生のシフトチェンジしようと考える時が多いように思われます。人生の大きな節目となる還暦の登山や病気からの回復を期しての登山など、自らの経験談を語る人たちも少なくありません。登頂できたことで、それからの人生に展望が開けたという話なども聞かれます。
−信仰はなくても特別な山だ、と誰もが感じているんですね。
遠くから遥かに仰いでも尊い山だというだけなく、実際の登山を通じて、信仰の山だ、という実感が湧くと思います。そのための宗教的な仕掛けが見られます。例えば、登山者は山小屋で仮眠程度に体を横たえ、山頂から朝日を見るために未明に登山を再開します。信仰的な絵画「富士参詣曼荼羅」にも、松明をかざして登っている道者(富士山の信仰者のこと)が描写されています。道者も夜間の神や仏と交信できる時間帯に登り上げ、山頂で朝日を迎えていたわけです。現在も伝統的な登山のあり方を引き継いでいると言えると思います。
−ご来光を見ることだけでなく、夜に登る、その過程も大事なんですね。
今は"ご来光"と言いますが、江戸時代は"御来迎(ごらいごう)"と表記しました。吉田口を例にとると、北東方向に登頂することになり、東方から昇りくる朝日を見ることになりますが、江戸時代までは、朝日を背にして弥勒菩薩が住む内院と考えられていた噴火口に賽銭を投入し拝んでいました。条件がよければその時、自分の影に光の輪ができるブロッケン現象を見ることができます。それを西方浄土の仏、阿弥陀のお迎え=御来迎と見なしたのです。明治時代の神仏分離以降、「迎」の字を「光」に変え、御来光というようになったのです。
−構成資産は神社が多いですし、山体がご神体と言われていますが、富士山は仏教的な信仰の対象でもあったんですね。
山体は、神の領域といわれていますが、山頂はむしろ仏の領域だと私は考えています。山頂を八葉ともいいますが、神仏分離以前は山頂を大日如来を中心にして八尊の仏たちが取り囲む中台の八葉院としていた名残です。火口を巡回するお鉢巡りという言葉も、お八葉巡りからきています。かつては久須志岳は薬師ヶ岳、伊豆岳は観音ヶ岳と仏教的な名前が付けられ、山頂のそこかしこに、仏像・仏具が祀られていたのです。
−山頂に祀られていた仏像は、どうなったんですか。
神仏分離以降、山から下ろされたり、打ち壊されて火口に捨てられたりしたようです。去年の秋に山梨県立博物館で特別展「富士山」を開催しましたが、下山した仏たちを並べようと、柴又の題経寺帝釈天にも借用に行きました。機会があったらぜひ見てください。本堂前の庭に、ブロンズの坐像が二体あって、かつて富士山頂に祀られていたことが背面の腰のあたりに記されています。
−その仏像が、去年、里帰りしたわけですね。
山もとまで、ですけどね。数多くの仏たちが下山していますが、どの仏も富士山の山頂や山内にあってこそ意味のある尊体です。神仏分離から150年ほどを経過した今、山に戻されてもよい時期ではないかと思います。富士山は神仏の住まう山だったという認識をもっと踏まえるべきではないか、と。富士講も、仏教的な要素がそぎ落とされて、今では神社への信仰とほとんど変わらないように思われて、私はある種の物足りなさを感じています。
−堀内さんが考える富士山の魅力は?
一つにはあの秀麗な山容。もう一つには、存在そのものが特別、ということでしょうか。人を励ます力を持つ山だという人もいます。
−これからの富士山に期待することはどんなことですか。
世界遺産に登録をされて以降、富士山のイメージの一面を切り取って商品化する、というようなことが進んでいる気がします。安易な商品化が目につきます。そんな短絡的なものではなく、来訪者がもっと富士山に親しんで、本来あるべき姿や信仰のあり方などをじっくり考えたり、今後を模索したりする必要があると思います。
−そのためにはどういうことが必要だとお考えですか。
富士山に登りましょう、という提案をしたいですね。それは、単なるスポーツ登山ではなく、登ることそのものに意味がある登山、自分を省みることにつながるような登山にみなさんを誘うことができれば、と考えます。機能や快適さ、便利さを求めるのではなく、ある種の精神的な登山を提案したいと思います。
−富士山に関する調査は果てしがなさそうですね。
この富士山世界遺産センターは、富士山を保全し、富士山を調査研究していく拠点ですから、これからも調査研究して行こうと思います。申年の今年は、海浜部の富士信仰を調査する年であり、また長野県にも申年に因んだ行事がありそうですから、調査に出かけて行こうと考えています。
1952年7月10日 山梨県生まれ 大学卒業後、富士吉田市で自治体史の編纂に従事し、その後、同歴史民俗博物館等を経て、山梨県立博物館で富士山総合学術調査研究を担当する。今年4月からは富士山世界遺産センターに勤務。「富士山内の信仰世界」、「富士に集う心」などの論考がある。
富士山世界遺産センターHP http://www.fujisan-whc.jp