−前身は富士吉田市歴史民俗博物館、だそうですね。
実は今も正式名称は富士吉田市歴史民俗博物館なんです。富士山の信仰や産業や祭りなど、富士吉田市にまつわる歴史的な資料を展示してきましたが、世界遺産登録を機に、みなさんに富士山の価値をもっとお知らせし、また世界の宝である富士山を後世にどう残していくか、という課題を投げかけるために富士山信仰を展示のメインに据えた施設にしようと、2015年4月にリニューアルし、そのタイミングで"ふじさんミュージアム"という愛称になりました。
−昔は金鳥居から上吉田の通りに沿って、富士講の方を迎える御師の家がずらりと軒を連ねていたとか。今も営業をされている御師の家があるそうですね。
お江戸からの登山者が多かったからでしょう、登山道の中で一番多くお客様がいらしていたのがこの吉田口登山道です。富士講の方は、富士吉田では手に入らないようなさまざまなものを持ってきて御師の家に奉納された。当館の宝物の一つである木花開耶姫像も、江戸時代に千葉県の富士講の方から御師の家に奉納されたものです。
−先ほど展示を案内していただいた時に拝見しましたが、保存状態がとてもよく、着物の柄や冠の細工がとても綺麗でした。一つ一つの展示が楽しいだけでなく、深く知るための入り口になっているようですね。東京から来た小学生たちが目を輝かせていたのも印象的でした。
ありがとうございます。常設展示では「富士山信仰」と「富士山とともに歩む」という2つのテーマで10項目の展示をしています。自画自賛で申し訳ないんですが、本当に楽しい展示が多いんですよ(笑)。お江戸日本橋から富士山までの行程を表した「富士山デジタル今昔絵巻」では、江戸時代から現代まで、景色がどう変わってきたかをタッチパネルで見比べられますし、富士山の中腹から雲が湧いて、笠雲になっていく様子がよくわかる映像もあるし、地元に伝わる昔話を紹介したアニメーションもあるし・・。本当に、どれも見ていただきたいものばかりです。
−機織りも盛んだったとわかる展示も、印象的でした。壁に貼られたいろいろな布に直接触れるのがいいですね。
農業を補う生産手段としてはじまった機織りですが、高度な技術と品質を誇り、今もネクタイ地の生産量は日本有数です。織りで模様を出すのが特徴で、傘やスカーフなどにも幅広く使われているんですよ。
−富士山の立体模型を使ったプロジェクションマッピングも素晴らしかったです。
「ヘリテージ富士」ですね。1/2000の縮尺立体模型にいろんな映像を投影していますが、ご覧いただいた「吉田の郷と富士山の四季」は20分間隔で流れるメイン映像。見ていただいた方から拍手があがる展示は、そうそうないと思います。本物の富士山が見えていない時でも、4分で富士山の1年を楽しめます。あと、4階には、富士山と対峙できる「ふじさんラウンジ」もありますし、エリア内には古民家があったり、富士桜や紅葉が楽しめる庭もあります。ぜひ、いらしていただきたいです(笑)。
−高橋さんは富士吉田市役所に入られてからずっと教育委員会のお仕事をされているんですか。
いえ。採用されて8ヶ月後に教育委員会に配属になって、20代はずっと高齢者や保育園児を相手に交通安全教室のお姉さんをしていました。そのあとは税務課で課税をしていたり、市民課で住民票を出していたり(笑)。福祉課で障害者福祉を担当していた2015年春、人事異動でリニューアルしたこちらにやって来ました。最初に話を聞いた時には驚きました。大きな使命を持った施設なので、正直、プレッシャーでしたね。地元出身とはいえ富士山信仰についてはほとんど知らなかったので。
−ふじさんミュージアムでは具体的にどういうお仕事を?
みなさんをどうお迎えするか、どうしたらより楽しんでいただけるかを考えて、スタッフに投げかけることが多いですね。例えば、"ようこそ"という思いを込めて、予約してくださった団体のお名前を入り口に掲げたいんだけど、どうかな、とか。そこでスタッフから出てきたのが、富士講の人たちが、登山の時に自分たちの名前を書いて金剛杖の先に付ける"まねき"を作るのがいいんじゃないかという案だったんですね。
−入り口脇のボードに、いくつも団体名の書かれたものが貼り付けてありましたが、あれですね。
そうです。山小屋や御師の家では、奉納されたまねきを軒先に掲げて歓迎の意を表していました。ここでは2枚作って1枚は持って帰っていただいて、使い終わったものは館内に飾っています。それもスタッフから出てきた案でしたね。スタッフ一人一人に想いがあるから、私が何か投げかけると、みんながいろんな知恵を出し、広げていってくれる。本当にありがたいです。
−もしかして、「富士山デジタル今昔絵巻」のところにあった、指差し棒も高橋さんの発案ですか。
そういうわけではありません。タッチパネルに直接手が届かない小さなお子さんや車椅子の方たちにも楽しんでいただくにはどうしたらいいだろう? という想いがスタッフにもあって、指さし棒を用意しました。いらしてくださったすべての方に、展示を楽しんでいただきたいんですよね。
−今、高橋さんが富士山信仰について思うのは、どんなことですか。
当館の展示には富士講に関するものがたくさんありますが、それだけが富士山信仰ではありません。富士山が見えただけでありがたい気持ちになったり、思わず手を合わせたくなる神々しさもありますから、多分、富士講というわかりやすい形式ができるずっと以前から、特別な存在だったんだろうと思います。私としては、富士山の歴史や富士講を紹介することによって、古来から人々が抱いていた富士山への想いを感じてもらえたら嬉しいです。
−身近すぎて、地元の方は意外に富士山に無頓着だ、とよく聞きますが、高橋さんはどうですか。
富士山の存在が嬉しくて、子どもの頃からよく富士山を眺めてました。言葉にはしないけど、みんな同じように感じているんだとばかり思っていたら、大人になって"えっ、そうじゃないの?"って(苦笑)。日本一だからとか、どの山より綺麗とかいう以前に、富士山の美しさに惹かれていたし、雄大さ、神々しさにも惹かれていた気がします。
−一番印象に残っている富士山は?
日本第2位の日本アルプスの北岳から見た富士山です。20代後半だったかな。峰々の向こうに、白い雪をかぶった富士山がとても穏やかに悠々と見えました。とてもいい天気だったんですが、山頂では今もきっと強い風が吹き荒れているんだろうな、と思った時に、凛とした強さを感じましたね。あと、私はここ10年くらい毎年、大晦日から家族で車に泊まり込んで富士山と初日の出の写真を撮っているんですが、東日本大震災の翌年の富士山と初日の出は印象深かったです。私は"富士山を見ればみんな元気になる"と思い込んでいるので(苦笑)、いつにも増して気合を入れて撮りに行ったんですが、元旦は晴れる確率が高いのに、その年は山頂は見えているのに中腹まで厚い雲があって・・。その厚い雲を突き破るように初日の出が出てきた時は、感動的でした。頑張れ、と励まされた気がしました。
−富士山に登ったことはあるんですか。
山登りの最初が富士山だったんですよ。20代の頃、1度は登っておかなきゃ、と思ってお友達2人と登りました。その2人が乗った高速バスが事故渋滞で遅れて、登り始めたのは陽が落ちる頃で、星だけが綺麗に輝いていたのと、遠く下に音もなくポコンと浮かぶ花火が見えたのを覚えてます。大変な思いは全然せずに山頂まで行けたんじゃないかな。ご来光にはとても感動しましたが、立っていられないくらいの強い風で、ああ、やっぱり富士山は実は厳しい山なんだな、と思いました。
−高橋さんにとって富士山はどんな存在ですか。
私の"人生観"そのもの、なのかもしれないですね。カッコつけすぎな気もするけど、他に言葉が浮かばないですね。20代の頃に、吉川英治の『宮本武蔵』の中の「あれになろう、これになろうと焦るより、富士のように、黙って、自分を動かないものに作り上げろ」という言葉を引用して私に人生を教えてくださった方がいらっしゃるんです。何があっても揺るがない自分でいようと思えるのは、富士山があればこそ。本当にいつも何かを教えてもらっています。
−迷った時にも富士山と向き合うようなこともありますか。
他の人はどうかわからないけど、富士山と向き合っている時は雑念が消えるし、自分を取り繕うことができないというか・・。そのくらい、大きな存在です。自分を見直す鏡のようなものなのかもしれないですね。
−そういう存在がいつも身近にあるのはありがたいと同時に厳しいことでもありそうですね。
ええ。いつも見守ってもらいながら、同時に叱咤激励もされています(笑)。富士山は、私にとって本当に特別な存在なので、言葉にはならない富士山の精神性みたいなものをもっとみなさんに深く知っていただけるように、これからも力を尽くし行きたいですね。
富士吉田市下吉田出身 高校卒業後、1年間、都内の専門学校で富士吉田市の産業の一つである織物の企画やマーケティングについて学ぶ。その後、地元に戻り富士吉田市役所に入庁。教育委員会を皮切りに、さまざまな部署で勤務。庁内で接遇の講師も担当している。夫、息子(19歳)、娘(15歳)の4人家族。趣味は芸術鑑賞と車の運転。東日本大震災以降、被災者支援の活動も。年に1、2回家族で宮城県気仙沼市に車で出かけている。今年の夏は、熊本にも。
ふじさんミュージアムHP http://www.fy-museum.jp/