−去年から募集が始まった「富士山書き初め」には先生が常務理事をされている公益財団法人独立書人団さんにご協力いただいています。前回の作品をご覧になっていかがでしたか。
13,000点以上の応募がありましたけど、富士山に憧れて、また課題の言葉に心を動かされて筆をとっているな、ということをどの作品からも感じられたのが良かったですね。
−見えるところに住んでいる方は時折富士山を眺めながら、また富士山が見えないところに住んでいる方も、富士山の姿を思い浮かべて書いた、とおっしゃっていたそうです。富士山はやっぱり、イメージを喚起する存在なんですね。
やはり、ひとつだけ隔絶していますからね。自分と富士山とを相対させながら、“このくらいの修行や鍛錬で富士山の高さまで到達できるか”と自分自身を叱咤する人も少なくないと思います。そういえば次回は高校生の作品も募集するそうですね。
−はい。高校生の部は半切と呼ばれている、縦約136センチ、横約35センチ(縦使用)の紙に課題を書いてもらうことになっています。
小学生、中学生は書写ですから筆使い、形が大事ですが、高校は芸術科目ですから半切ではいろんな表現ができるでしょうね。
−パソコンやスマートフォンの普及で文字を書く機会が少なくなっていますが、墨を含ませた筆で紙に文字を書くことが若い人たちにどんな影響を与えるといいとお考えですか。
勉強が進んでお習字から書の世界に入ってくると、紙と墨と筆と書き手が一体となって生まれる世界の妙味がわかってきます。アートにも繋がる、東洋独特の美しい黒と白の世界ですね。何千本という毛がひとつの仕事をするという筆の神秘性、墨色や筆の捩れや弾きによって表れる律動性、五彩あると言われる墨の色の奥深さ・・・。そういうものを識別できるような鋭い感覚と繊細で遥かなものを見るような心を養ってほしいな、と私は思っています。
−奥深い世界ですね。
私は自分の足で富士山に登って感じたことを書にしていますが、実際に感じた大地の呼吸や息吹はちゃんと表せているか、と自分に何度も問いかけながら書いています。そういう過程を踏まないと、作品を見てくれる人に何かを感じさせることはできないと思う。もちろん筆使い、形といった基礎は大事ですけど、ただ筆順に従って書いていくだけではなく、自分が何を感じ、どう表現するかを大切にして書いてもらえるといいと思います。ですから、いずれは高校生の部には、課題だけでなく自由、という部ができてもいいかもしれないですね。富士山を遠くから思い、また実際に見たり触れたり体験した中から自由に言葉を選んで書いてもらう。その言葉には“自分”が投影されるわけですし、そうすることでさらに日本の象徴である富士山の存在がそれぞれに深く関わってくるのではないか、作品が出てくる裾野がさらに豊かになっていくんじゃないかと思います。
−今回の第56回抱一書展には「岑」という作品を出品されていますね。
音でシン、訓でミネと読む、“険しい山”という意味の漢字です。杉山寧という日本画家が富士山を描いて「岑」という題名をつけていますが、富士山と真向かった時に、私も自分の視点で富士山の険しさをキャッチできた。パンフレットには“不二の稜線の果ては無窮。”と言葉を添えました。
−先生はいつから富士山をテーマに作品を書かれているんですか。
2014年からです。静岡市に住んでいて、散歩のたびに近くのみかん山から富士山を見たり、元旦には太平洋から昇った太陽の光を受けた富士山を見たりしてきましたから、富士山はずっと身近に感じていましたけれど、せっかく地元にいるわけですから、遠くから眺めるだけでなく、自分で歩いて発見した富士山を書こうと思いましてね。またそれが私らしい追求の仕方でもあるだろうと思ったわけです。
−登頂されたんですか。
当然です(笑)。子どもの頃に富士山に行ったことはありましたが、2014年8月に初めて登頂しました。大井川の流域の山の中で生まれて、子どもの頃から自然との関わりが深かったこともあって、書作の上でも自然から教わったもの、感じたものをどう表現するか、を私は非常に大事にしています。だから足の裏を通して大地の湿度や温もりを感じ、実際の空気感に触れて造形したいと思ったわけです。登る時は苦労しましたけど、富士山の大きさ、偉大さを身体を通して実感できました。
−他にはどんな作品を書かれているんですか。
どうぞ見てください(と作品の写真を広げてくださる)。登る時に岩と石に痛めつけられたので、山頂に着いて何を書こうかと考えた時に思い浮かんだのが「岩」でした。眼下に広がる空間を抱いた「岩」という作品になったと思います。三保の松原に行き、木村武山という昔の絵描きの「羽衣」という作品からヒントを得て書いた「羽衣」も雰囲気がよく出ているし、富士山の九合目でほんの数十秒だけ日が射して、青空に出た 広大な虹をイメージして書いた「山虹」も気に入っています。私はどの作品も好きですよ(笑)。
−その後、登頂は?
来年か再来年、もう1回登ろうと思っていますけど、今は青木ヶ原樹海とか柿田川とか湧玉池とか麓周辺を回っています。富士山は山頂だけじゃないですからね(笑)。川根というところに生まれた私が、ひとつの感性や美意識を持って富士山と関わるわけですから、他の誰も注目しないようなものに注目して富士山を描きたいと思っています。横山大観の美意識を表す「天霊地気」という言葉がありますが、私が富士山から求めて得ようとする作品作りの根幹にあるものも同じく“天霊地気”であり“無窮”ということだと思いますね。
−2014年からすでに4年。富士山に今も意欲をそそられていらっしゃるわけですから、本当に奥深いテーマなんですね。
まだまだ何か書けるという気がします。仕事が進んでいくと新たな制作の糸口が見つかりますし、富士山に関するいろんな資料に触れ、富士山の知識が増えることで、見た時にまた別の感動があったり、理解も深まる。それによって新たに言葉を吟味できるということもありますからね。
−書との出会いはいつでしたか。
高等学校の書道部で書を始めました。高等学校の書は、書写とかお習字とは違う、芸術としての書ですから、先生方もいいところを見つけて褒めてくれる。そこにまず、自分が踏み出している道が開けていると感じました。でも書の道に進もうと決めたのは、山崎先生との出会いが大きかったですね。自分たちの書いたものを批評してもらえる静岡学生書道研究会で初めてお目にかかりましたが、山崎先生の高潔な人間性に触れて感銘を覚えました。それで19歳の時に師事しまして、その後、山崎先生が尊敬されている手島右卿先生にも師事しました。当時、「大学に行ってはどうか」と父に言われましたが、「僕は手島山崎大学に入る」という気持ちでした。
−その後、一度も迷うことなく?
山崎先生も手島先生も明治の人ですから、お二人で「この仕事は男児一生の仕事として命をかけてやる価値があるか」ということを、よく議論されてました。私はまだ若かったから、その様子を見て、凄まじい世界に入ったなあと思いましたけど、それに引き込まれていった、というか。楽しいことより苦しいことの方が多かったですが、このお二人について辛抱していけば、将来は繋がっていくかもしれないと思いながらやってきました。本当に、嵐の中にいるみたいでしたけどね。山崎先生には先生が亡くなるまでの30年間、手島先生には26年間ご指導いただきました。
−両先生からの印象的な言葉はありますか。
手島先生からは、ある錬成会の席で参加者みんなに「なぜ書をやるのか」とおたずねがあった時に「先生と書が好きだからやっています」と私が言ったら、「好きだったらやめろとは言えんな」と(笑)。山崎先生からは、「僕のように借金しないように気をつけた方がいい」と言われたことがありました。「もう手遅れです。手島先生と山崎先生についていくには、収支が合うようなことをやっていたらとてもダメです」と答えました。両先生は芸術家でしたし、とくに山崎先生は非常に純粋で、お金を儲けることがあまり得意ではなかった。結果的に私もその辺は先生に似てしまった気がします、先生には失礼ですが(苦笑)。
−柿下さんは音楽家とコラボレーションなどもされていますね。
私の原点は、さっき言ったように、天の霊気と地の気を受けた作品作りですが、山崎先生は「プロはどういう要求にも応えられるだけの備えがないといけない」とおっしゃっていましたから、コラボの時にはそのための勉強をして臨んでいます。そうすればある程度どんなことでも可能です。たとえば2005年に、ニューヨークのザンケルホール・カーネギーとアトランタのエモリー大学で音楽とのコラボをしましたが、生の演奏を聴きながらその中にある求心的なものを集約できる一文字を考えて書くというのは、楽しい経験でした。いろんな経験の積み重ねは自分の中の引き出しを増やすことになるでしょうし、すぐに書作に結びつかなくても、いずれ作品にプラスになっていくだろうと思っています。
−最後に、柿下さんにとって富士山の存在とは?
ある意味では生きる目標。富士山は遠くから見ると秀麗で美しいですから、最後にはああいうものに繋がっていきたいという願望があります。また、書作の源泉でもありますね。ただそれは私が言葉にすることではなくて、私の作品を見た方にそう思っていただけるかどうかだと思っています。
1940年 静岡県生まれ 19歳で山崎大抱氏に、21歳で手島右卿氏に師事。1972年、毎日書道展スペイン展の開会式のデモンストレーションに参加以降、1977年、米国ネブラスカ州オマハで第1回柿下木冠展を開催するなど、国内だけでなく海外でも精力的に活動。作品はシカゴ美術館、ジョスリン美術館、静岡県立美術館、土門拳記念館などにも収蔵されている。現在、公益財団法人独立書人団常務理事、毎日書道展審査会員、抱一会理事長も務める。米国オマハ市名誉市民でもある。