−今、特別展示中の「富士越龍」を見てきましたがとても興味深かったです。富士と龍の組み合わせにはどんな意味が?
当初は、大地の中に龍が栖むという風水的なイメージから描かれたと思います。江戸初期の代表的な漢詩人である石山丈山が『富士山』という七言絶句で“富士山には神龍が栖んでいる”と書いていますし、同時代の狩野探幽も富士山とその中腹に漂う龍を描いています。それが江戸中期以降、龍が明確に富士山を昇って行くようになる。今回展示した、狩野素川彰信の「富士越龍・菖蒲夏雨・撫子秋風図」は、富士越龍を中幅に、夏の雨に打たれる菖蒲、秋の風に吹かれる撫子が左右に描かれています。富士山自体が吉祥性の高いものですし、菖蒲と撫子は男の子と女の子の象徴でしょうから、子どもの無事な成長や立身出世を願って描かれたと考えられます。めでたいものとして好まれたのだと思います。
−なるほど。
「富士越龍」は、今年9月末から約2ヶ月にわたり“シリーズ 江戸文化のなかの富士山”の第一弾として始まった特別展「富士山絵画の正統」の第二部です。富士山絵画、また江戸画壇の黄金期である18世紀末から19世紀前半の絵画界の状況を、「富士越龍」をテーマに描かれた同時期の絵画を比較することで検証しようというコンセプトです。第一部は狩野探幽以来の江戸狩野派を正統的に継いだ、将軍家御用絵師筆頭だった狩野伊川院栄信(いせんいんながのぶ)と晴川院養信(せいせんいんおさのぶ)父子を定点観測地として、富士山絵画の定型の成立と展開について狩野派の作品を時代の流れに沿って検証しました。一部、二部を通して、江戸時代に描かれた富士山絵画の豊かさを感じていただけたのではないかと思います。
−富士山絵画の定型、というのは?
狩野探幽が作り出したものです。雪舟が描いたと伝えられる室町時代の「富士三保清見寺図」の富士山、三保松原、清見寺というモチーフ構成を基本構図とした富士山図の新しい型です。それが狩野派に発展的に継承され、他の絵師にも浸透していった。「洛中洛外図屏風」に第一定型、第二定型という典型的な構図があり、「源氏物語絵巻」に各帖ごとの決まった場面選択=型があるようなものです。定型の成立は、絵画ジャンルの確立のためのひとつの条件と考えられます。その意味において富士山図というジャンルも江戸時代に確立されたと言えます。
−狩野探幽はなぜ富士山図の型を作ったのでしょう。
狩野探幽は御用絵師であり、徳川将軍家の技能官僚として絵画に関する全般を統率する立場にありました。こうしたことから富士山図の型の構築をめぐっても徳川幕府の要請があったのだと思います。将軍にとっても富士山は特別なものでしたから。残念ながら江戸城の障壁画は全て失われてしまいましたが、将軍の寝室兼執務室とも言える中奥休息の間の上段の床の間に狩野晴川院養信が描いた富士山の絵が、現在下絵として残っています。富士山を描いた床の間の前に将軍が座り、家臣たちは下段の間からそれを仰ぎ見ていた。つまり、将軍と富士山が一体化して見えていたわけですね。葛飾北斎『富嶽三十六景』「江戸日本橋」には、江戸城の背後に富士山が象徴的に描かれています。将軍と富士山、また江戸城と富士山は一体である、というイメージは当時、江戸人の間に定着していました。
−幕府側がそういうイメージ操作をしたわけですか。
自然に定着していったという方が正しいと思います。江戸城の巨大な天守閣は明暦の大火(1657年)で焼け落ちてしまいますが、その後、天守閣は築かれず、富士見櫓がその代わりになります。富士見をする将軍のイメージがあり、それが富士山と江戸城を重ね合わせることにもつながっていったのだろうと思います。
−徳川家康は幼少期を駿府で過ごし、その後、駿府に本拠地を置いています。それもあって富士山には思い入れが強かったのでしょうか。
例えば三代将軍の徳川家光は、寛永11年(1634年)に11万を越える人数を引き連れて東海道を西へ上って行く際に、家康ゆかりの駿府城に立ち寄り富士山が見えるまであえて日延べをして滞在しています。単に富士山が好きだからというより将軍が富士見をし、富士山と一体化する行為が必要だったということです。富士山は非常に強い政治的な意味を持っているんです。鎌倉時代には源頼朝が“富士の巻狩り”を行い、将軍権力の強化を図った足利義満や足利義教は、富士見をするために京都から駿河まで下向してきている。織田信長も、武田を滅ぼして安土城に凱旋する途中に今の富士宮あたりで派手に富士見をしていますし、豊臣秀吉も“富士山を一見したい”という書状を、未だ自らになびいていない関東の武将たちに送ったりしています。
−現存する富士山を描いた最も古い絵は、聖徳太子が富士山に登るものでしたね。
延久元年(1069年)秦致貞(はたのちてい)が描いた「聖徳太子絵伝」です。聖徳太子の伝記にある、聖徳太子が黒い馬にまたがり雲に乗って富士山に登頂したという逸話を表したものです。当時、王法仏法相依論=政治権力と宗教権威は一体化したものである、という政治思想がありまして、それを体現する存在が、理想的な王と考えられていた聖徳太子だったわけです。富士山の政治的な意味合いは、その頃すでにあったのかもしれないですね。
−明治以降、富士山の政治的な意味合いというのはどう変化していますか。
富士山と一体化する王、というイメージは、近代以降も続いています。明治以降の天皇は、それまでの天皇の役割に加え軍を統括する存在として将軍の職能も兼務していたのではないかと思いますよ。明治元年に出版された、大井川を渡って江戸に向かおうとする明治天皇をいただく官軍を描いた浮世絵がありますが、官軍が目指す先には富士山が描かれていますし、摂政時代の昭和天皇が富士山に登って鳩を放っている姿が絵葉書になったりもしている。さらに1940年昭和天皇に献上された横山大観の「日出処日本」では、国体たる天皇と国家の比喩として富士山と旭日が表されています。
−大学では最初にドイツ文学を専攻していた松島さんは、どんな経緯で日本の美術史を研究することに?
もともとドイツ表現主義の絵画に興味がありましたが、将来とても食べていけそうにないというので、両親の勧めもあってドイツ文学科に進みました。大学3年の春休みにシルクロードを横断しつつパキスタンからイラン、トルコと回った時に、西洋文明とは違う、陰影のあるイスラームの芸術や建築に惹かれ、そこからアジア、そして日本美術に興味を持ち、美学美術史が学べる哲学科に再び学士入学したわけです。
−徳川家と狩野派も研究をされていたそうですね。
恩師である小林忠先生の「狩野派の社会的役割を考えてみたらどうだ」というご助言と、また同じ頃にヘルマン・オームス著の『徳川イデオロギー』を読み、徳川将軍のイデオロギーをうまく視覚化し得たのが狩野派の画家たちであり、狩野派は単なる画家ではなく徳川将軍の技能官僚でもあったと考えまして、そちらを研究していました。
−富士山絵画の研究はいつ頃から?
静岡県富士山世界遺産センターに来た3年前からです。富士山は代表的なテーマ過ぎて、あえて避けていたようなところもあります。こちらで富士山を研究していくうちに、先ほど話したような政治的な視点に気づけましたし、富士山とそのイメージを通して日本の政治史、政治思想史を古代から近代までつなぐこともできるのではないか、と思っています。富士山からいろんなアイディアをいただいています。
−東京のご出身ですから、小さい時から富士山には馴染みがあったのでは?
生まれ育ったのは阿佐ヶ谷で、中央線のホームから西に富士山が見えることがありましたし、庭にあった築山も、富士山の形をしていたような気がします。後年、母の介護でしばらく外出できない時期があったあと、一緒に母を見送った父と久しぶりに出かけた場所が富士宮でした。もう十数年前のことですが、富士山の麓を一周し、構成資産になった神社を全部回っています。いずれ富士宮に来るとは全く予想していませんでしたから、何か運命づけられている気もします。
−どんなところに魅力を感じますか。
やはりエレガントな姿ですね。私の家は富士宮市内の高台にあるので、富士山の稜線が、愛鷹山の方まで遮るものなく見ることができますが、あんなに優雅な稜線を広げている山はほかにありません。愛鷹山のあたりから昇ってくる朝日を浴びて朱に染まったり、夕日を受けて茜色に染まったりする姿は、本当に美しいと思わず見とれてしまいます。
−富士山の近くに住み始めたことでの内的な変化みたいなものはありますか。
自覚はしていませんが、あるとは思います。今では退職後も富士宮に住みたい、と考えています。富士山はあるし、富士山がもたらす湧水が街のあちこちに清流を作っている。大変清らかな土地で、心が洗われます。今回の展覧会に出品する作品を借りるために、東は山形県から西は島根県までトラックで回ってきました。肉体的にも精神的にも疲れることもありましたが、ここに戻って富士山を見ると、やっぱりホッとしますし、ああ、帰ってきたな、という気がしました(笑顔)。
−次回はどんな企画の特別展を考えているか教えてください。
“シリーズ 江戸文化のなかの富士山”の第二弾として、谷文晁を考えています。“写山楼”の号を持つ谷文晁は、北斎に勝るとも劣らない富士山の画家であり、富士山図もたくさん残しています。時期は2019年11月からと考えています。またいずれは、狩野派でありながら浮世絵や琳派ほか諸派の画風をハイブリッドさせた狩野素川や了承という画家の展覧会も行わねばと考えています。静岡県富士山世界遺産センターは“富士山学”の構築を目標としていますので、それにふさわしい独自の切り口で、またより踏み込んだ形でさまざまな作品をご覧に入れていければな、と考えています。
1968年 東京生まれ 1991年に学習院大学文学部ドイツ文学科を、1999年に学習院大学文学部哲学科を卒業。2005年に第3回徳川奨励賞を、2006年に第13回鹿島美術財団優秀者を受賞。2009年に学習院大学大学院人文科学研究科哲学専攻博士後期課程修了。趣味は音楽鑑賞と旅行。最近は古楽に凝っていて、バッハの楽曲など考証を重ねて当時を復元した様々な演奏を聴き比べているそう。6月にはライプツィッヒで開かれる“バッハ音楽祭”へも。富士宮に引っ越してからは近隣の温泉地巡りを楽しんでいる。