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富士山インタビュー

信仰の山である富士山は、麓に住む人々の暮らしや生業の場でもあったんですよ

山中湖をぐるりと囲む森の一画に、東京大学が保有する演習林があります。
その広さは東京ドームのグラウンド部分が31個収まる40ha。
木漏れ日を浴びてそこに静かに建つ平屋が、富士癒しの森研究所です。
もともと林学や森林科学に関する教育や試験研究を行う場所だった演習林は、
時代と社会の変化に伴い、森林と人間の関係を研究し、教育する場に変わってきているようで、
多くの人が観光で訪れる山中湖に隣接する富士癒しの森研究所は、その最前線基地と言えるのかもしれません。
炎をあげる薪ストーブの周囲には放射能量を測定するために乾燥中のキノコが吊るされていたり、
研究所内は雑然としつつも山や森の気配が満ちていて居心地のよい空間でした。
齋藤暖生さんはとても大らかな雰囲気で、自由な発想と枠にとらわれない行動力を感じさせる方でした。
写真:井坂孝行/インタビュー・文:木村由理江

近い将来、この演習林の中に一般公開のエリアを作ることを計画しています

−こちらの研究所では2011年から2020年の10年計画で“癒しの森プロジェクト”を進めているそうですね。

 “癒し”をキーワードに森林と社会、森林と人をつなぎなおそうという試みです。山中湖村の森の所有者のほとんどはこの地域に古くから住んでいる方たちですが、みなさん、今は観光産業に従事されていて、森にはほとんど関心がない。手入れをすると赤字になるだけなので、森は枯れ木や倒木で荒れています。でも山中湖の森に魅力を感じて移住してきた人たちもいるし、森に癒しや安らぎを求めてやってくる観光客が多いのも確かです。お金は直接生まないけれど、森は立派な観光資源なんですよ。森に関心のある人たちに、例えば倒木や枯れ木を薪として有効利用してもらったり、その薪がストーブで燃える様子を見たり、木工品を作ることで癒しを感じてもらうことができれば、森が定期的に手入れされるようになるでしょうし、それが村の観光産業にも貢献し、森を所有する人たちのメリットにもなるはずなので、そのための流れや仕組みを作ることが、プロジェクトの目標でもあります。今年はプロジェクトの最後の年ですが、思い描いていた社会像に近づいているところがある一方で、まだまだできてないことがある。むしろやることが増えたような気がしています。

−2021年以降、このプロジェクトはどうなるのでしょう?

 今、次の10年計画を練っているところですが、医学部の先生たちと連携して“(仮)続・癒しの森プロジェクト”をやろうと思っています。森に触れることが“嬉しい”とか“楽しい”という癒しだけでなく、健康にも活かせることがわかってくるとそれは新たな癒しにつながっていくでしょうから、実際に患者さんを森に連れてきてもらって、エビデンスを得ていきたいと思っています。行政ともかなり密に連絡をとっていますし、最終的にそれを山中湖村の仕組み作りに落とし込んでいけたらいいんですけどね。

−今の段階で、山中湖周辺に観光に来た人が、地元の方に迷惑をかけずに楽しめる森、癒されるために入れる森はありますか。

 残念ながらないんですよ(苦笑)。それで今、この演習林の中に一般公開エリアを作ろうと考えています。土地がほぼ平坦なので、各地にある演習林(東大で7、全国で82)の中で最も歩きやすく、一般開放に向いているエリアだと思います。安全管理上の問題とかルール作りとか、色々クリアしなければいけないことはありますが、来年以降、具体的な検討をしていく予定です。そこには、ユニバーサルデザインで、誰もが楽しめる森の散策路も計画しています。うまくいくかどうかはやってみないとわかりませんが、大学の演習林は失敗が許されるので、僕たちがやることを参考にして、地元の人たちがそれぞれに森を活用してくれるといいなと思っています。ガーデニングした庭を開放してみんなに見てもらうオープンガーデンに似た形で、“オープンフォレスト”みたいなことをしてくれる個人の森が地元にできていけば、村全体で森の魅力をアップできるし、観光で訪れる人、移り住む人がさらに増えてくるんじゃないかと期待しています。

江戸時代、富士山は薬草の産地のひとつでもあったんですよ

−あまり想像したことはありませんでしたが、観光産業が盛んになる以前、この辺りの人たちは何をして、どんな暮らしをしていたのでしょう。

 いろんな仕事がありましたが、基本は林業や農業ですね。ただこの辺りは標高が1000m近いので涼しいですし、土地も痩せていて農耕にあまり適してない。そもそも溶岩の流れた場所では農耕ができませんしね。頼りになるのは山や森から得られる資源ですから、その資源の限界はよくわかっていたと思います。だから集落ごとに、資源の許容量をオーバーしないような仕組みやルールを作ってもいた。例えば茅だとか薪、木材は家単位で分配するとか、副業の運送業に使う馬は飼ってもいいけれど放牧はダメで、餌になる草は必ず人が刈ってきたものを与えるとか。

−分配は家単位とのことですが、人数は関係ないんですか。

 人数は関係ないんです。だから家の中の人数を増やしすぎないように各家で考える必要がありました。村も、新入りの家はなかなか受け入れなかったようで、これが戸数制限にもなっていたようです。20年居着いて、やっと村入りを認められるというような具合で。厳しい話ではありますが、自然と抑制が効きますから、当時としては賢いルールだったと思います。人口に対して十分にあった山菜は、自由に採れたと思いますけどね。

−この辺りに住んでいた昔の人たちの暮らしを調査する中で、驚かれたことはありますか?

 富士山に生育する薬草を採りに、村の人が2200mから2300m、五合目辺りまで行っていたことはとても興味深かったです。僕は山菜やキノコ採りをテーマに森の豊かさを追いかけてきましたが、村の人がそれほどの高山域に行くケースには出会ったことがなかったんですよ。しかも富士山の五合目辺りになると完全に“信仰の山”のイメージですから、実はそこも生活エリアと重なっていたことは、大事な事実だと思います。

−そういえば『古地図で楽しむ富士山』に収録された齋藤さんの原稿に、富士山には江戸時代、幕府の御用薬草を育てる「御薬園」があったと書かれていて、驚きました。

 当時、富士山は薬草の産地のひとつでもあったんですよ。植物を薬として使うというのは中国から入ってきて、江戸時代のはじめに盛んになった「本草学」の影響ですし、富士山で採れた薬草の名前も肉じゅう(くさかんむりに從)蓉(にくじゅうよう)、黄耆(おうぎ)、五味子(ごみし)と、どれも中国語から来ています。ただ、有名な本草学者の小野蘭山が富士山の薬草の調査をしてまとめた『甲駿豆相採薬記』を見ると、コケモモが“はまなし”という地元の呼び名で記されていますから、本草学が入ってくる以前から薬効を知っていて、季節になると薬草を採りに行き保存して使っていたんでしょう。あと、富士講が盛んだった頃の御師は、江戸などの遠隔地の講社に挨拶回りに出かける時の手土産に、富士山で採れた薬草を調合して持っていっていたんですよ。当時のラベルがいくつか残っていますが、富士山の絵と共に“不老丹”とか“神薬”と書かれています。今で言うブランディングを、当時すでにしていたわけです。この辺りに住んでいた人たちは富士山を生業の場として使いこなしていたということで、それが非常におもしろいなと思います。

−薬草は今でも採れますか。

 当時薬草を採っていた五合目付近は今、国立公園の特別保護地区になってしまって採取できないんですよ。ただこの麓辺りにもヘビイチゴとかクサボケとか薬効のある植物は多いですよ。クサボケの実は熱さましの効果があると言われていて、今も山中湖村で作っておられる方がいます。僕はそのクサボケの実の蜂蜜漬けを特産物にできないかな、と考えて増産プロジェクトを始めています。蜂蜜漬けだと料理に使えるし、お子さんも食べられる。酸味があって香りがすごくいいので、いろんな人に喜んでもらえるんじゃないかなと思っています。

森は利用するものではなく、お付き合いする相手だと思って欲しいですね

−いつ頃から山に関わる仕事をしようと?

 子どもの頃から山菜採りやキノコ採りをしていたこともあって、高校で進路を考え始める頃にはもう、山に関わる仕事を、と思っていました。それで農学部について調べたてみら京都大学の農学部は10学科くらいあって、これはすごいに違いない、と。それで目指すことにしたんです。受験の前年に3学科に統合されてしまったので、その中から森林の勉強ができる学科を選んで願書を出しました。でも大学の授業はつまらなかった(笑)。どの授業も林業を通していかに山からお金を引き出すか、という話に収斂していくんですよ。山にはもっと豊かな世界があるはずだ、その“山の豊かさ”について考えようと思って研究対象にしたのが“山菜とキノコ採り”でした。大学院時代は車でいろんな地域の山に行来ましたし、その地域の人の家に泊まり込ませてもらって、山の仕事から生活全般まですべてを見させてもらいうという調査をしていました。その中で改めて山や森の豊かさに気づけたようなところがありましたね。

−新型コロナウイルス感染症の影響もあって、最近はキャンプがブームになっていますし、自然に囲まれた地方に移住する人が増えています。私たちは山や森に触れる時にどんなことに気をつけるといいとお考えですか。

 まずは自然と触れ合って、自分なりの心地よい過ごし方を見つけ出していくことが重要だと思います。人によって自然や森に対する見方は違うし、違って構わないと思いますが、できれば自然や森は資源として利用するものではなく、お付き合いする対象だということを忘れずにいて欲しいです。その上で、自然に対する知識や技術を得たり、地域社会での振る舞い方に気を配ることも大事にして欲しいですね。

−富士山を最初に見たのはいつですか。高校の修学旅行でしょうか。

 修学旅行のない高校だったので、京都に大学見学に向かうのぞみから見たのが初めてだったと思います。「ああ、これが噂の富士山か」というくらいで、特別な感慨はなかったです。子どもの頃から見慣れてきた岩手山が原風景としてあるからでしょうね。

−富士山に登ったことはありますか。

 ないです。そもそも登頂することに全く興味はないんですが、こちらに赴任してきて、夏の夜に登山道に光が連なっているのを見て、より興味が失せました(苦笑)。山に行ってまで渋滞したくないですから。ピークをずらして9月くらいに登るといいのかもしれないですけどね。

−きれいだと感じるのは、どんな富士山ですか。

 雪をかぶった冬の富士山はきれいだな、と思います。真っ白な中に風紋のようなものや雪庇のようなものが見えますよね。ただ白いだけじゃなくいろんな陰影がある。あれはすごくきれいだと思います。

−癒しの森研究所のある山中湖村周辺の里山の風景は、どんなふうに楽しむのがおすすめですか。

 2013年から山中湖村のいくつかの地区の人たちと取り組んでいるフットパスでしょうか。植物や景色だけでなく地域の歴史や文化を、ゆったり歩きながら楽しんでもらおうという取り組みです。山中地区と長池地区と平野地区の散策マップは、観光案内所で手に入るはずです。長池地区には古い茅葺屋根が残っていますし、どの地区でも、みなさんが知ってる山中湖とは別の表情が見られておもしろいと思います。最近も地元の人たちと一緒に勉強会をして、村の新しい楽しみ方を開拓しているところです。いずれそれが、外の人を呼び込む観光資源になるといいんですけどね。

−癒しの場としての森の活用だけでなく地域の新たな観光資源の開発までも守備範囲なんですね。お仕事の幅がとても広いですね。

 これは仕事なのかな。最近、仕事と遊びの境がわからないんですよ(笑)。森と人間の関係を考えるのが僕の仕事ですけど、その一環で焚火をしていたりするので、“お前、遊んでるだけじゃないか”と言われたりもするし(苦笑)。とにかく“肩肘張らずやってみる、楽しむ”を、すべてにおいて大事にしているということなのかもしれないです。

齋藤暖生
さいとうはるお

1978年 岩手県盛岡市生まれ 岩手県立盛岡第一高等学校卒業後、京都大学農学部生産環境科学科から同大学院農学研究科森林科学専攻へ進学。2006年3月、農学博士の学位を取得。2006年4月から大学共同利用機関人間文化研究機構総合地球環境学研究所・プロジェクト研究員を務め、2007年12月から東京大学附属秩父演習林助教、2008年10月に富士演習林に着任し、2019年11月より講師、現在に至る。専門は森林政策学、森林−人間関係学、植物・菌類民俗、コモンズ論。

東京大学富士癒しの森研究所HP:http://www.uf.a.u-tokyo.ac.jp/fuji/

インタビューアーカイブ
山田淳富士登山のスペシャリスト
田中みずき女性絵師
青嶋寿和マウントフジ トレイルステーション実行委員長
森原明廣山梨県立博物館学芸課長
渡邊通人富士山自然保護センター自然共生研究室室長
田近義博富士山ツーリズム御殿場実行委員会事務局長
中島紫穂富士山レンジャー
植田めぐみフリーカメラマン
外川真介上の坊project代表・天下茶屋三代目
山本裕輔印伝職人・印伝の山本三代目
金澤中シンガー・ソングライター
池ヶ谷知宏goodbymarket代表・デザイナー
田代博一般財団法人日本地図センター常務理事・地図研究所長
宮下敦成蹊気象観測所所長
加々美久美子御師旧外川家住宅館内ガイド&カフェ「北口夢屋」オーナー
土器屋由紀子認定NPO法人富士山測候所を活用する会理事・江戸川大学名誉教授 農学博士
福田六花医学博士・ミュージシャン・ランナー
舟津宏昭富士山アウトドアミュージアム代表
小松豊特定非営利活動法人 土に還る木 森づくりの会代表理事
菅原久夫富士山自然誌研究会会長・富士山の自然と花を観る会主宰
新谷雅徳一般社団法人エコロジック代表理事
堀内眞富士山世界遺産センター学芸員
杉山泰裕静岡県文化・観光部理事(富士山担当)
前田宜包富士山八合目富士吉田救護所ボランティア医師・市立甲府病院医師
高林恵梨子静岡県人事委員会事務局職員課任用班
今野登志夫陶芸家
遠藤まゆみNPO法人三保の松原・羽衣村事務局長、羽衣ホテル4代目女将
佐野彰秀バンブーアート作家
オマタタツロウ音楽家・画家
高橋百合子富士吉田市教育委員会 歴史文化課 課長補佐
内藤恒雄手漉和紙職人・駿河半紙技術研究会会長
太田安彦一般社団法人 ヨシダトレイルクラブ代表理事・富士吉田市公認富士登山ガイド
影山秀雄機織り職人 手機織処 影山工房主宰
江森甲二裾野市もののふの里銘酒会会長
中尾彩美富士山ビュー特急アテンダント
渡辺義基渡辺ハム工房
古屋英将株式会社ミロク代表取締役社長
井出宇俊井出醸造店・井出酒類販売株式会社営業部
望月基秀製茶問屋 株式会社静岡茶園 常務取締役
関根暢夫・ふじゑさん夫妻ふじさんミュージアム 手話ガイド
御園生一彦米久株式会社代表取締役社長
rumbe dobby手織り作家
小山真人静岡大学 教授 理学博士
勝俣克教富士屋ホテル 河口湖アネックス 富士ビューホテル支配人
漆畑信昭柿田川みどりのトラスト、柿田川自然保護の会各会長
日野原健司太田記念美術館 主席学芸員
渡井一信富士宮市郷土資料館館長
大高康正静岡県富士山世界遺産センター学芸課准教授
渡辺貴彦仮名書家
望月将悟静岡市消防局山岳救助隊員・トレイルランナー
成瀬亮富士山写真家
田部井進也一般社団法人田部井淳子基金代表理事、
クライミングジム&ヨガスタジオ「PLAY」経営
齋藤繁群馬大学大学院医学系研究科教授、医師、日本山岳会理事
吉本充宏山梨県富士山科学研究所 火山防災研究部 主任研究員
柿下木冠書家・公益財団法人独立書人団常務理事
菅田潤子富士山文化舎理事『富士山事記』企画編集担当
安藤智恵子国際地域開発コーディネーター
田中章義歌人
千葉達雄ウルトラトレイル・マウントフジ実行委員会事務局長、
NPO法人富士トレイルランナーズ倶楽部事務局長
松島仁静岡県富士山世界遺産センター 学芸課 教授(美術史)
大鴈丸一志・奈津子夫妻御師のいえ 大鴈丸 fugaku×hitsukiオーナー
有坂蓉子美術家・富士塚研究家
小川壮太プロトレイルランナー、甲州アルプスオートルートチャレンジ実行委員会実行委員長
飯田龍治アマチュアカメラマン
篠原武ふじさんミュージアム学芸員
吉田直嗣陶芸家
春山慶彦株式会社ヤマップ代表
中野光将清瀬市郷土博物館学芸員
久保田賢次山岳科学研究者
鈴木千紘・佐藤優之介看護師・2014年参加, 大学生・2015と2016年参加
松岡秀夫・美喜子さん夫妻「田んぼのなかのドミノハウス」住人
三浦亜希富士河口湖観光総合案内所勤務
石澤弘範富士山ガイド・海抜一万尺 東洋館スタッフ
大庭康嗣富士山裾野自転車倶楽部部長
杉本悠樹富士河口湖町教育委員会生涯学習課文化財係 主査・学芸員
松井由美子英語通訳案内士・国内旅程管理主任者
涌嶋優スカイランナー、富士空界-Fuji SKY-部長、日本スカイランニング協会 ユース委員会 委員長・静岡県マネージャー
岩崎仁合同会社ルーツ&フルーツ「富士山ネイチャーツアーズ」代表
門脇茉海公益財団法人日本交通公社研究員
渡邉明博低山フォトグラファー・山岳写真ASA会長
藤村翔富士市市民部文化振興課 富士市埋蔵文化財調査室 学芸員
勝俣竜哉御殿場市教育委員会社会教育課文化スタッフ統括
前田友和山梨自由研究家
杉山浩平東京大学大学院総合文化研究科 特任研究員 博士(歴史学)
天野和明山岳ガイド、富士山吉田口ガイド、甲州市観光大使、石井スポーツ登山学校校長
井上卓哉富士市市民部文化振興課文化財担当主幹
齋藤天道富士箱根伊豆国立公園管理事務所 富士五湖管理官事務所 国立公園管理官
齋藤暖生東京大学附属演習林 富士癒しの森研究所所長
池川利雄ノースフットトレックガイズ代表、富士山登山ガイド
松本圭二・高村利太朗山中湖おもてなしの会副会長, 山中湖おもてなしの会会員
関口陽子富士山フォトグラファー
猪熊隆之山岳気象予報士・中央大学山岳部監督
髙杉直嗣2021年御殿場口登山道維持工事現場代理人
羽田徳永富士山吉田口登山道馬返し大文司屋六代目
内藤武正富士宮市役所企画部富士山世界遺産課主幹兼企画係長
河野清夏フジヤマミュージアム学芸員
中村修七合目日の出館7代目・富士山吉田口旅館組合長・写真家
野沢藤司河口湖ステラシアター、河口湖円形ホール館長
三浦早苗ダイビング&トレッキングぴっころ代表
田部井政伸一般社団法人田部井淳子基金代表理事
橋都彰夫半蔵坊館長・わらじ館館長
上小澤翔吾富士登山競走実行委員会事務局
杉村知穂富士宮市教育委員会教育部文化課
河野格登山ガイド

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