−ステラシアターとの関わりはいつからですか。
野外音楽堂の構想が生まれたのは私が1991年に町役場に入って間もないころで、職員が少ないこともあり、当初から設計の先生とのやり取りなどを担当していました。その後、1994年に野外音楽堂準備室ができてからは、オープンに向けた本格的な準備に入りました。自席で仕事をしていると、ふらりと目の前に座った当時の町長が「こんなことを考えているけどどう思う?」と声をかけてくるんですよ。「いいですね」と答えると、翌日には私が担当者になっていることがよくありました。「いずれ人口は減少する、その時に備えて魅力ある町を作っていくことが重要」、「魅力ある町づくりには文化度が大切」というお話や、“五感文化構想”は天候に左右される富士山と河口湖頼みの夏季限定の観光地であるこの地域を、文化的な施設も備えた通年型の観光地にし、それによって雇用を安定させ、地域に戻ってくる人、定着する人を増やしたいという想いがもとになっていることなどもよく伺いましたし、ことあるごとに意見交換をさせていただきました。
−野外音楽堂準備室での1年、ご苦労はなかったですか。
劇場の運営部門を担当する部署ですが、配属されたのは上司と私の2人だけ。建物に関する資料はありましたけど、運営に関する資料はほとんどありませんでした。でもやれることからやっていくしかありませんからね。そこから資料を集め、以前からアドバイスをいただいていた音楽プロデューサーの方の協力を仰ぎながら、劇場運営のコンセプトや方向性を明確にしつつ、エンタテインメントの世界についてもゼロから勉強させていただきました。大変なこともありましたけど、もともとものづくりをしたいと考えていたので、やっていけばなんとかなると楽観的に捉えていたと思います。準備室設置から間もない6月に、音楽プロデューサーの方の導きで、工事中の現場に玉置浩二さんが来てくださったことは大きかったですね。「こんな素晴らしい環境にこんな素敵な劇場を作ってくれてありがとう。完成まで頑張ってください」という玉置さんの言葉に、仕様などの変更続きで疲れ切っていた工事現場の人たちもそれを感じていた私たちも非常に力をいただいたし、1年後のオープンに向けて頑張ろうと、みんなの心がひとつになった瞬間だったと思います。
−とはいえ、開館後もしばらくはご苦労が多かったようですね。
正面に富士山が見える豊かな自然の中、生音でも十分楽しめる音響効果のある劇場で音楽を聴ける唯一無二の劇場ですが、当初は屋根がありませんでしたから、東京の音楽事務所に営業に出かけても、色良い返事はなかなかもらえませんでした。すべてのリスクを負って私たちが企画したコンサートのチケットは、毎回必死で売っていました。ですから2007年に可動式の屋根がついた時はとても嬉しかったです。今では「ぜひステラシアターで」と言ってくれるアーティストも増えました。かつてはワンシーズンに4、5回だけだったコンサートも、今では春から秋にかけて毎週土日に開催できるようになりました。地元以外からのお客さんが以前に増して増えるなど経済的な効果もあって、今では地元ぐるみでお客さんをお迎えするような雰囲気になっていますね。
−ステラシアターは今年で28年目。夏のステラシアターといえば富士山河口湖音楽祭です。何がきっかけで音楽祭を始めようと思われたのでしょう?
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団が年に1度行っている野外コンサートの映像を、1994年11月にたまたま観る機会があったんですよ。会場はベルリン郊外の豊かな森に囲まれたヴァルトビューネという野外音楽堂で、クラシックのコンサートなのにお客さんたちはカジュアルな格好で、芝生の上に横になったり、サンドイッチを頬張ったり、子どもを肩車しながら思い思いに楽しんでいる。その時に、こんな音楽祭こそが富士山の麓に建つこの劇場が目指すものなんじゃないか、と胸を熱くしました。開館から6年後の2001年に佐渡裕さん指揮のコンサートがあり、そのご縁で2002年、佐渡裕さん監修のもと、第1回目の富士山河口湖音楽祭を開催することができました。以来毎夏、開催しています。
-富士山河口湖音楽祭は“住民参加型の音楽祭”としても知られています。地域のボランティアの方たちが裏方となって音楽祭を支えているそうですね。
せっかく作った施設ですから、住民のみなさんに親しんでもらいたいし、大切にしてもらいたい。そのためにはみなさんに関わってもらう仕組みづくりが必要だと思い、ボランティアを組織しようと早い時期から考えていました。1995年のグランドオープンの記念コンサートでは、私の知り合いや近所の人など30人ぐらいにボランティアをお願いして、チケットのもぎり、案内、出演者への食事づくりなどをやっていただきました。その後はそのつながりを徐々に広げ、発展させ、1998年に「サポーターズクラブ」として組織化しました。今ではホール主催のコンサートの企画運営や会場の設置も含めた多くのことをボランティアのみなさんがやってくださっています。研修も熱心に受けられて、プロ意識を持っておもてなしの最前線に立たれていますし、その姿勢が若い世代のボランティアにも引き継がれています。
-この地域の方たちはもともとクラシックに馴染みがあったんですか。
いや(苦笑)。準備室当時、いろんな方に話を伺いましたが「クラシックは堅苦しい」とか「苦手」という意見が圧倒的でした。でもデメリットはメリットに変えられる、そのためにやれることがたくさんあるはずだからむしろラッキーだと思って、ボランティアの人たちや支えてくれる人たちの協力を得ながら、いろんな試みをしてきました。富士山河口湖音楽祭の期間中は近隣の様々な施設で無料コンサートを行いますし、100人収容の円形ホールでコンサートを開催するアーティストには必ず、自分ではチケットを買えない子どもたちや高齢者がいる学校と老人ホームでミニコンサートをお願いしています。地元の人たちや学生さんたちが楽器や合唱でステージに立つチャンスも富士山河口湖音楽祭にはあります。地域の人がクラシックに触れる機会は確実に増えましたし、裾野もしっかり広がっていると思います。音楽は人生を豊かにし、辛い時には勇気や希望を与えてくれるもの。音楽を愛する人が増えるのはとても嬉しいです。
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−地元出身の野沢さんですが、富士山の存在は意識されますか。
当たり前すぎる存在ですが、毎朝、見えるかどうか気になりますし、とりわけ素敵な富士山の時には写真を撮りに行き、それを国内外の知り合いにメールで送っています。音楽祭の開催をまだ夢見ていた頃、文化庁の研修で3ヶ月滞在させていただいたウィーン楽友協会の音楽資料館の館長はいつも、「富士山で英気を養えて元気になりました」と返事をくれます。私は海外に行く時には300枚くらい富士山のポストカードを持っていって、親切にしてくれた人や交流があった人に渡していますが、言葉でうまくコミュニケーションが取れなくても「フジ、フジ」と喜んでくれる。富士山はすごいなと思います。
−ステラシアターにとって富士山の存在は?
なくてはならない存在です。アーティストは感性が研ぎ澄まされていますから、富士山への想いも強く、とくに海外のアーティストは富士山へのリスペクトも格別で、ステラシアターで演奏する時にはいつもと違う胸の高鳴りを感じるようです。観客のみなさんも富士山の麓で大好きなアーティストのコンサートが観られることに特別な想いを持たれていますし、そういう出演者とお客さんの想いに触れて、もてなす側のボランティアのみなさんも、当たり前の存在だった富士山の素晴らしさを再確認しています。みなさんの想いの真ん中に富士山がある、というのかな。佐渡さんもステラシアターの舞台でよく、「富士山が見守り、応援してくれた」というようなお話をされますが、富士山って人の心をグッとまとめあげる大事な役割を背負っておられると思いますよ。
−最後に野沢さんがこの先ステラシアターでやりたいことを教えてください。
将来的には年に4回、季節ごとに音楽祭を開催したいですね。夏の富士山河口湖音楽祭、秋の富士山河口湖ピアノフェスティバルに続き、野外音楽堂が使えない冬に、100人収容の円形ホールで1週間から2週間の室内楽ウイークを開催できたらいいだろうな、と。室内楽の楽しみをみなさんに知っていただくと同時に、そこで海外の演奏家との国際交流演奏会の開催や、若い演奏家に活躍の場を提供し応援することができたらいいなと思っています。富士山の麓のこの地域で素敵な演奏会を開催し続けることで、訪れる人たちに幸せを感じていただきたいです。今の時代、感動できるものはたくさんありますが、自然の中に身を置き、五感を含めたすべての感覚を全開にする感動以上のものはないと思います。しかもそこに日本が世界に誇る富士山が存在する。他では得られない何かを、ここでは感じることができると思います。
のざわとうじ 1968年 富士河口湖町生まれ 地元の高校を卒業後、東京の大学に進学。大学時代はボランティア活動を精力的に行う。一方、服部克久氏作曲のピアノ曲『ル・ローヌ』が弾けるようになりたい一心で大学2年の時からピアノを始める。1991年、富士河口湖町役場に奉職。1994年4月から野外音楽堂準備室に配属。その後、ステラシアター、円形ホールの館長に。富士河口湖町文化振興局長。20歳の時に思い立って以来、これまで富士山に5回登頂。「もう1回は登りたい」と話す。趣味は組み立て式カヌーと釣り。
河口湖ステラシアターHP: https://stellartheater.jp
富士山河口湖ピアノフェスティバル2022(9月22日〜9月25日開催)HP: https://pianofes.stellartheater.jp