−2017年秋の太田記念美術館の企画展「葛飾北斎 冨嶽三十六景 奇想のカラクリ」では、「冨嶽三十六景」が一堂に展示され大盛況でした。この「冨嶽三十六景」を、北斎はなぜ、描こうと思ったのでしょう。
北斎はそもそも街並や自然など様々な風景を描くことに関心があり、また当時の江戸の人たちと同じように富士山に対して親しみや憧れを持っていたと思います。ただ、富士山をいろんな視点で描きたい、富士山を眺める場所も季節も天候もそれぞれ違う絵を描きたい、というのは他の浮世絵師にはない、北斎ならではのアイディアです。富士山をテーマにしてあらゆるものを描きたいと思ったんでしょうね。おそらく他の誰よりも強く富士山からインスピレーションを受けていて、そのために筆が止まらなかった、というのが一番の理由かもしれませんね。
−描いたのは70歳を過ぎてから。バイタリティと意欲に驚かされます。
それくらいの年齢になると、ほとんどの浮世絵師はそれまでの延長線上で絵を描きますから、新しいことにチャレンジしたのは素晴らしいと思います。ただ北斎の場合、70歳になってから地方を旅して富士山を描いたわけではなくて、体力のある40代、50代のうちにある程度各地を回った経験があり、富士山を描いていますので、その蓄積が新しい形として「冨嶽三十六景」に結びついた、ということです。
−「冨嶽三十六景」を描いたことは、北斎にとってどんな意味が?
“三十六景”と言いながら、実は46枚、富士山を描いています。人気が高まり、予定より10枚多く描くことになったわけです。北斎はお金に頓着せず、“社会的な成功”にも興味がなかった人のようですが、絵師として、自分の描きたい世界に近づいているという実感は得ていたでしょうね。「70歳を過ぎてようやく動物や植物を生き生きと描けるようになってきた」というようなことを述べていますし、数え90歳で亡くなりますが、命ある限り成長し続けるんだ、という意識が強かったので、「冨嶽三十六景」の成功は大きな自信につながったと思います。北斎がこの作品を描く前に亡くなっていたら日本の浮世絵の歴史は変わっていたでしょうし、北斎の知名度も今とは違うものになっていたと思います。
−「冨嶽三十六景」は外国の作家にも大きな影響を与えていますね。
50代で描いた『北斎漫画』がヨーロッパで高く評価されていますが、最も海外の人々に知られているのは「ビッグウエーブ」と呼ばれている「冨嶽三十六景」の「神奈川沖浪裏」でしょうね。1905年に出版されたドビュッシーの交響詩「海」の楽譜の表紙にも「神奈川沖浪裏」の波の部分が使われていて、インスピレーションを受けただろう、と言われています。おそらく日本美術全体を通しても最も知られた作品でしょう。生活様式とか歴史とか宗教とかの違いを超えて、誰が見ても波と認識しやすく、またこういう表現があるんだ、という驚きとともに心に残る作品だろうと思います。ただ「ビッグウエーブ」と呼ばれているくらいですので、波の印象が強くて“富士山の絵”という認識は低いかもしれません。
−「冨嶽三十六景」をさらに楽しむためのポイントを教えてください。
富士山の存在をしっかりと認識し、どのように描かれているかに注目することです。例えば、先ほども出た「神奈川沖浪裏」。海外の人は波に注目しますが、富士山をしっかり認識すると絵のイメージはだいぶ変わってくると思います。まず、巨大な富士山が小さく描かれていることで、富士山が遠く離れた場所にあることが一目でわかる。また富士山との比較で、波の巨大さも感じとれると思います。そしてこの波の動き。1秒後には波が崩れて船の人たちは飲まれてしまい、その次には波が消滅した静かな海が現れることでしょう。しかし、この波に富士山が飲み込まれることはありません。その静と動の対比が素晴らしく、また波に負けない富士山のどっしりとした存在感が伝わると思います。北斎自身も、回転する波の動きから自然に富士山に視線が誘導されるように描いていますし、富士山が絵の核であると意識することで、絵のおもしろさは一層深まると思います。実際には見えないものを描いている絵もありますしね。例えば、「甲州三坂水面」では、夏の富士が映っているはずの水面には雪をかぶった冬の富士で描かれている。見える景色をそのまま描くのではなく、北斎が富士山から得たインスピレーションに基づいて、自由な発想で描いているのがわかります。当然、絵によって見方は違いますが、富士山をどう描いているかに注目することで、北斎の魅力、個性が伝わると思います。
−浮世絵にとって富士山はどういう存在だったのでしょう。
富士山は古代から描かれていますから、モチーフとしてはありふれたものだったと思いますが、浮世絵では江戸の町を象徴するモチーフとして認識されていました。江戸の町の中心地のひとつである日本橋の風景を描く際、街道の起点になっている日本橋、徳川家の将軍が住んでいる江戸城、遠くにそびえる富士山という三つがセットで描かれることが多いです。富士山がいかに江戸の町の人たちにとって欠かせない存在だったかということがわかります。
−江戸からは遠くに、しかも小さくしか見えないのにもかかわらず、欠かせない存在だったんですか。
おもしろいですよね。当時は高い建物も少なかったでしょうし、日本橋周辺をはじめ、ちょっと小高い、見晴らしのいい場所からは遠くに富士山が見えた。暮らしの中で欠かせないランドマークであり、心の拠り所として、非常に身近に捉えていたと思います。江戸の町を描いた浮世絵は、地方からやって来た人のお土産として持ち帰られましたから、江戸の町と富士山の密接な結びつき、また富士山のイメージを日本各地に伝播する役割も担っていたと言えると思います。
−いつ頃から日本の美術に興味を持たれたのでしょう。
美術館や博物館に行くのは子供の頃から好きでした。自分で描くのではなく、違う形で美術に関わりたいと思い、歴史の一部としての美術や文化を勉強しようと大学の文学部に進学しました。ヨーロッパの美術にも興味や憧れはありましたけれど、言語や文化の違いを考えた時に、研究するなら日本の美術が一番いいのかな、と。浮世絵にも、非常に興味が湧いていたので。
−どんなところに惹かれたんですか。
純粋に絵としてのおもしろさです。一番のきっかけは北斎の作品であり「冨嶽三十六景」でした。なぜ、こんな絵が描けたのか、という北斎のイマジネーションに対する驚きがスタートになっています。そこからどんどん関心が広がっていきました。浮世絵は江戸時代の庶民のニーズに合わせて制作されましたから、200年前、250年前の私たちの先祖がどんなことに関心を持ち、どんなものをおもしろいと感じていたかが詰まっています。理屈抜きで共感できるところがある一方で、どうしてこれが? と思うような、ちょっと不思議なズレを感じることもあるのもおもしろいです。自分自身の感覚も、年齢や時代の変化とともに変わってきますので、飽きない世界だと思います。この浮世絵のおもしろさをいかに多くの人に伝えられるかが、仕事としての醍醐味であり使命感を感じるところでもありますね(笑)。あらゆる文化や伝統に通じることですけれど、おもしろいと思う人、大事に思う人がずっといてくれないと、廃れてしまいますから。
−太田記念美術館についても、少し教えてください。
東邦生命保険相互会社会長も務めた五代目太田清藏という実業家が、個人的に蒐集していた肉筆浮世絵約500点、浮世絵版画約1万点などの膨大なコレクションを基に、浮世絵の素晴らしさを伝える美術館として1980年1月にオープンしました。その後も寄贈をされたり購入をしたりしながら、公益財団法人として、原宿のこの地でずっとやっています。
−若者たちの町にある日本の伝統に親しめる美術館なんですよね。
太田家が所有していた土地だったこともあってここに建てられましたが、江戸時代、浮世絵は流行の最先端を行くものでしたから、浮世絵の魅力を発信するにはぴったりの場所だと思います。毎月展示替えをしていますが、都内で、年間を通して、本物の浮世絵を確実に見られる貴重な場所です。最近では日本の伝統的な文化に触れたいという外国人観光客も増えています。
−日野原さんが「冨嶽三十六景」の中で一番好きな作品は?
「山下白雨」です。「神奈川沖浪裏」と“赤富士”とも呼ばれる「凱風快晴」とともに「冨嶽三十六景」を代表する三作品のひとつです。タイトルからわかるように、山の麓で雨が降っている状況を描いていますが、よく見ると、画面上半分の富士山の山頂は完全に晴れていて、画面下半分に黒い雨雲が描かれている。晴れの景色と雨の景色を、現実には見られない視点から、巨大な富士山を使って上下に対させているというアイディアに、まず驚きました。それから、雨の表現。黒い雨雲とそこに赤で斜めの線で雷を描くことで、富士山の裾野全体に、かなり激しい夕立が降っていると想像できる。シンプルに、でもたくさんのことを表現している点にも驚きました。
−富士山が存在しなかったら、日本の絵画はどうなっていたのでしょう?
山に注目し、単独で描いた絵画は近代までほとんどない西洋と違い、日本では、崇拝の対象としての山が単独で描かれることは非常に多かった。中でも富士山は、その巨大さ、円錐形できれいな稜線を描いていることから、古代から和歌に詠まれ、絵に描かれてきました。誰でもさっと富士山の絵が描けて、またどれだけ簡略化されていても、これは富士山の絵だと認識できるというのも、かなり特殊なことだと思います。それだけ富士山というアイコンの力がすごいということですから、これがひとつ失われるとなると・・。その影響は計り知れないですね。
1974年 千葉県生まれ 慶應義塾大学大学院文学研究科前期博士課程修了後、公益財団法人 太田記念美術館に勤務。現在は慶應義塾大学の非常勤講師も務める。江戸から明治にかけての浮世絵史などの研究者として知られる。『かわいい浮世絵』、『歌川国貞 これぞ江戸の粋』(いずれも東京美術)、『戦争と浮世絵』(洋泉社)など著書多数。
太田記念美術館HP:http://www.ukiyoe-ota-muse.jp