−北海道出身の石澤さんが富士山に来ることになったきっかけから教えてください。
地元の居酒屋でアルバイトをしていた20歳の時に、母親が清掃の仕事で行っていた大学の掲示板で富士山の山小屋のアルバイト募集を見つけ、僕に勧めてくれたんです。当時の僕にはとくにやりたいこともなくて、「じゃあ行ってみるか」と。でもね、僕、日本一、ということ以外、富士山のことは何も知らなかったんですよ。山小屋自体がどんなものかも知らなかった(苦笑)。
−もしかして、山に登ったこともなかったとか?
なかったです。だからお昼前の飛行機で北海道を発って、河口湖駅から登山バスで五合目に着いた時にはレッド・ウィングの革靴とジーパンとジージャンという格好で、手には着替えの入ったバッグとコンビニで買ったお弁当一個という状態でした。しかももう夕方でね。で、言われていた通りに五合目からテレホンカードで小屋に電話をしたら、「上がって来て」って。その格好のまま登って来たんです。すごくないですか(笑)。
−大丈夫だったのか、ドキドキします(笑)。
しかもどんどん辺りは暗くなるし、懐中電灯もない。もうね、心細かったですよ。で、途中の山小屋で「ここから三つ目の山小屋だよ」と教えてもらって、この辺りのはずなんだけど、と思うところに着いたものの、それらしき建物が見当たらない。「本当に困った!」と不安がピークに達した時に、足元でバン! と明かりがついたんです。気づかないうちに仕切りの鎖をまたいで登山道を外れて歩き、小屋の屋根に上がっていたんですね。回れ右をして石の階段を降りて来たら看板に“東洋館”って。ホッとしました。
−初めての山小屋での仕事はどうでしたか。
楽しかったです。その夏は僕が最初に来たバイトで、徐々に日本各地からバイト仲間が集まって増えていくわけですよ。今は15人くらいですけど、当時は30人近い数のアルバイトがいて、その仲間との生活が楽し過ぎました。8月15日までの予定を、30日まで延ばしてもらったくらいです。それから22年間、夏は毎年、東洋館で仕事をしています。
−そのうちに富士山ガイドもするようになったわけですね。
東洋館専属のガイドのサポート役に立候補して、初めて山頂に行ったんですが、その時に見ちゃったんですよ、ご来光を(ニコニコ)。「もう何度も見てるよ」というフリをしながらお客さんの後ろに立ってましたけど、涙が出ました。自分の小ささも感じて悔しかったし、もっと人間的にでかくなりたいと思った。その時に、富士山ガイドになろうと決めました。富士山の知識や富士登山の経験、ガイドとしての信用を得るための下積み期間が5年くらいあって、27歳の時に初めて、東洋館専属ガイドとして、北海道からのお客さんを山頂まで連れて行く2泊3日のツアーを任された。その時は本当に嬉しかったです。
-その北海道からのツアーは今も続いているそうですね。
当初は多くて20人くらいしか集まりませんでしたけど、今は毎回40人、年間200人以上のお客さんが来てくれます。最初の数年は“ノリがいいだけのガイド”だったな、と反省することも多いです。だからなかなかお客さんの信頼も得られなかったし、当時は東洋館の番頭頭のおじさんに泣き言ばかり言ってました(苦笑)。でもある時、尊敬するガイドさんの「お客さんを山頂に連れて行くのがガイドだよ」という言葉を聞いて、目からウロコが落ちました。当時は本隊がちゃんと山頂でご来光が見られるように、高山病になったお客さんには安全の点からも早めにリタイアしてもらう、というスタイルが主流だったんですよ。でも僕は「これからはできる限りたくさんのお客さんを安全に山頂まで連れて行くガイドになろう」と。毎回のように失敗と成功を繰り返しながらも、徐々にリタイアする人を最小限に抑え、なるべく多くの人を山頂まで連れて行けるツアーができるようになりました。「石ちゃんのおかげで登頂できた」と何人ものお客さんに言われるのが、やっぱり何より嬉しいですね。
-ガイドをする時に一番大事にしているのは?
お客さんとコミュニケーションをとること、お客さん一人一人の歩いている様子を見ながら、それぞれに一番合うペースを見つけることかな。そうは言っても、お客さんも天候等のコンディションも毎回違いますからね。今回は100%うまくいった、と満足することはなくて、いつも何かしら反省や課題が残る。でもそれが楽しくてガイドをやっているんだと思います(笑)。
−冬期は地元の北海道ではスノーボードスクールの代表と校長をされているそうですね。スノーボードはいつ頃から?
21歳を過ぎてからです。夏に富士山に来るようになって2、3年経った頃、ずっと働かせてもらっていた居酒屋で仕事ができなくなっちゃったんですよ。やっぱり一年通して働ける人の方がいいですもんね。なんとか次に見つけたのがスキー場のリフト係だったんですが、仕事初日にすごいアフロヘアのお兄ちゃんに「お前、スノーボードやれよ」って詰め寄られたんです。「俺が去年使ってたボードを安く売ってやるから」って。怖かった〜(笑)。無理やり始めさせられたような状態でしたけど、すごく楽しくてね。そのアフロのお兄ちゃんがグループであちこちに連れ回してくれたおかげで上達もしたし“仲間”もできた。それで腕を磨いてスノーボードのインストラクターになり、A級ライセンスもとったんですよ。
−スノーボードのスクールを任されたのはいつ頃ですか。
8年前、35歳の時です。富士山の仕事が終わって百名山の一つである四国の石鎚山から降りた直後に、小樽の小さなスキー場のチーフインストラクターを任されていた、インストラクター業界ではレジェンドと呼ばれている大先輩から電話がかかってきたんですよ。「石ちゃん、今度、スノーボードスクールを立ち上げたいんだけど校長に興味ない?」って。すぐに北海道に戻り、生まれて初めての手続きをいろんな人に助けてもらいながらなんとかこなし、その冬に無事、開校しました。何もかもが順調だったとは言えませんが、なんとかやってこられています。今年はさらに、スキー場の空いている裏山のような所を利用して、スキーやスノーボードに限定しない自然の中の雪遊びを提供するアクティビティスクールも任せてもらえそうなんですよ。
−“自然の中の雪遊び”というと?
雪に馴染みのない国や地域の人にとっては、雪が冷たいことも雪が溶けることも雪が滑ることも驚きで、雪だるまや雪合戦やそり遊びやスノーシューで雪道を歩くことも楽しいし、大冒険になる。雪国で育った僕らが子どもの頃に当たり前にやっていた雪遊びを体験してもらいたいな、と。他にも、上達を目指したレッスンではない、体験型のスキーやスノーボードとか。たくさんの人に喜んでもらえそうな気がして、今からワクワクしています。
−石澤さんは自然の中でお客さんが喜ぶのを見るのが好きなんですね。
富士山の山頂でお客さんが感動の涙を流しているのを見て初めて、ああ、俺は今日もいい仕事ができた、と思えるようなところがあるのは確か。自己満足だとは思いますけど、それが冬夏通じての、僕のモチベーションになってるかもしれないですね。
−富士山の一番の魅力は?
“人”だと思います。さっき登っている時に「あそこが日本一の山頂だよ」と僕は言いましたけど、“日本一”という言葉に何を感じ、どう捉えるかは人それぞれで、そこにその人の思いやこれまでの経験とかあらゆることが映し出される。それがすごくおもしろいし、僕は多分、そこに取り憑かれているんだと思います。人々の富士山への思いが芸術作品を生んだり、富士山をより特別な存在にしたからこそ、世界文化遺産にもなったわけですからね。
−これまでで一番の思い出は?
よかったことやきれいだったことって、忘れていくんですよ。だから僕の富士山の思い出は苦しかったことや辛かったことかな。ガイドを始めたばかりで、まだ十分な装備を整えられていなかった頃に、悪天候にあって生まれて初めて命の危険を感じたこととか30代前半に原因不明の体調不良に襲われて苦しかったこととか。いろんなことがありましたけど、今は笑って話せる。どれも同じくらいに価値のある思い出ですね。
−毎夏、富士山にやって来る時にはどんな心境ですか。
今は山小屋全般のことをある程度任せてもらっているんですよ。だから開山前の6月後半に仲間たちと一緒に小屋の扉を開けて、最初に自家発電機のエンジンをかける時には気合が入るし、この夏もしっかりやるぞ、という責任感に身が引き締まります。初めて来るアルバイトの子たちに僕たちが仕事を通して積み上げてきた小屋での決まりとか社長への礼儀とか、お客さんへの対応の仕方、山でのマナーをちゃんとわかってもらえるようにもしたいですしね。今年もこの小屋やお客さんとしっかり向き合わなきゃな、という思いで毎回来ます。
−冬の北海道で富士山を思い出すのはどんな時ですか。
富士山で仕事をしている時のモチベーションが、僕の仕事の基本になっているようなところがあるんですよ。それがうまく働く時もあれば、空回りする時もある(苦笑)。“日本一のてっぺんを目指して仕事をしているんだ!”という誇りを大事にしながら、ガイドとしてお客さんに接する時のように、相手の目線や相手の気持ちを考えなきゃいけないんだ、ということもよく思います。常に富士山での仕事と照らし合わせながら、どうするといいのかを考えている気がします。富士登山に限らず、山登りは人生や仕事と重なるし、過去、現在、未来みたいな捉え方もできる。本当に奥が深いな、と思います。
1977年8月 北海道深川市生まれ 専門学校を卒業した20歳の夏、富士山七合目の山小屋・東洋館のアルバイトに応募。以来毎夏、東洋館のスタッフとして働き、富士山ガイドとして多くの登山者を山頂へ。冬は地元・北海道でスノーボードのインストラクターとして活動、35歳からは小樽にあるオーンズスノーボードスクールの代表と校長を務める。趣味は旅行、ドライブ、スノーボード。座右の銘は「千里の道も一歩から」と「整理整頓」。
海抜一万尺 東洋館HP:http://www.fuji-toyokan.jp
オーンズスノーボードスクールHP:https://www.onzesbs.net