−山のおもしろさに気づいたのはいつ頃ですか。
物心がついた時からずっと里山の中で遊んでいました。小学校へも普通の通学路ではなく木苺のなる山道を通っていましたしね。高い山に憧れたきっかけはいくつかありますが、ひとつは私が高校生の時に2歳年上の兄が友達と上高地のほうに行って採集してきたアサギマダラです。私は3人兄弟ですが、揃って昆虫採集が好きで、子どもの頃から近所に生息しているありとあらゆる虫に出会っていましたが、アサギマダラのきれいさは格別で、自分も高い山に行ってアサギマダラを採りたいと思ったんです。もうひとつは戦記物の多い父の本棚にあった新田次郎さんの本です。新田さんの短編には、山に行くと単独で歩いている素敵な女性と出会うというストーリーが多くてね。それで、「いつか私も」と思ったわけです(笑)。
−富士山への憧れはありましたか。
私が育ったところは盆地で、主に見えるのは筑波山です。その筑波山の向こうには東京があって、その東京に行かないと自分の人生は始まらない、といつの頃からか思っていたましたが、ある日、通っていた高校の4階のベランダから真っ白な冬の富士山が肉眼で見えたんですよ。中学の修学旅行で箱根に行った時は天気が悪くて富士山は見えなかったので、それが初めての富士山との出会いでした。すごく感動して、東京に行けば富士山にも近くなる、そうなったらぜひ登ってみたいなあと思うようになりました。
−それでいつ富士山に?
大学で入った歩行(あるこう)会というサークルで教わりながら本格的な登山を始めたましたが、やっぱり富士山くらい行っておかないとダメだよねと思い、大学1年の夏、1人で富士吉田口から登ったのが最初です。真っ暗な中、疲れて路上に寝ている人の間を縫って登りました。七合目から上では私もフラフラでしたが、なんとか頂上まで登って、お鉢巡りもしました。山頂まで森林に覆われている山しか知りませんでしたから、赤茶けた砂で覆われた、まるで月のような世界を見て、富士山に来たんだと実感しましたし、白装束の団体の方も大勢登っていらして、ああ、これが富士山なんだと感動しました。
−その後も富士山には何度も?
富士山には1回登れば十分、と言う人もいるし、2回登るのはなんとかだ、という話もありますが、私は雪山登山もやっていましたし、アイスクライミングに目覚めた時期もあったし、アメリカから日本に入ってきたばかりの頃のスノーボードの専門誌にいたり『富士山ブック』というムックを担当したこともありましたから、いろんな形で富士山と交流し、遊ばせていただいてきました。今も、ヒマラヤ登山のための高所トレーニングで富士山に行っています。とにかく富士山にはずっとお世話になってますね。
−2013年からは毎年、「東北の高校生の富士登山」のサポートスタッフとして富士山に行かれていますね。
山と渓谷社と、親会社であるインプレスホールディングスが出資して立ち上げた、山岳環境保全や次世代育成や安全登山啓発などの活動を目的とした日本山岳遺産基金というのがありますが、その事務局長をやっていた時に、田部井淳子さんから「次世代育成のために一緒にやりませんか」とお声がけをいただいたのがきっかけでした。それで「東北の高校生の富士登山」の事務局長という立場で活動に関わるようになり、一緒に登るようになったわけです。女性で初めてエベレストに登った田部井さんは、私のような一登山愛好家にはちょっと近づきがたい雲の上の人でしたから、お声をかけていただいたことはありがたかったし、感動的でした。
−高校生と一緒に富士登山をしていてどんなことを感じますか。
私は自分で憧れて富士山に行きましたけど、高校生たちは必ずしも富士山に憧れて参加しているわけではない気がします。富士登山の辛さとか寒さとかまったくイメージしてないでしょうしね。しかもみんなほぼ初対面でいきなり一緒に登り始めるわけですから、最初はちょっと戸惑っていると思います。でも頂上ではみんな、すごく感動していますね。一番最後の人たちを揃って山頂で迎える時には、拍手をしながらみんなボロボロ泣いています。お互いに励ましあったり、助けあったりしながら全員でひとつのことを達成したという喜びなのでしょう。安っぽい言葉かもしれないけど、感動を分かちあっているんだなと思って、こっちまで泣いちゃいます(笑)。大勢で登っていて迷惑だなと思っている方や、登山経験のない子どもを大勢登らせていいの? と思っている方もいらっしゃるでしょうけどね。私は田部井さんの最後の富士登山もご一緒していて、本当にゆっくりゆっくり歩いていた姿が目に焼きついているので、田部井さんの想いがこもったこの活動を続けているのは素晴らしいと思うし、今はもう事務局長ではありませんが、この先もできる限り関わっていくつもりでいます。
−東北の高校生を富士山頂に連れていくことで、東北の未来が変わるかもしれない、と田部井淳子さんは考えてらしたと思いますが、高校生たちにはどんな影響を与えていると思いますか。
私は正直、参加した高校生たちが東北の復興の具体的な力にならなくてもいいと思っています。ただ、大人になっていろいろ悩んだり挫折したりストレスを溜めたりした時に思い出すものであってほしいとは思います。そのためにはやっぱり田部井さんが言ったように「富士山じゃなきゃいけない」んですよ。最初のうちは「福島の高校生中心なんだから、郷土の安達太良山でいいんじゃないの?」と思ったりもしましたけど、富士山にしかない人への影響力があるんだなと、何回かやってみてわかりました。
−現在の肩書きは山岳科学研究者。どんなことを研究されているんですか。
山岳科学研究者というのは、一般財団法人全国山の日協議会がつけてくれた肩書きです。大学を出てからずっと山のメディアで仕事をし、今は大学の山岳科学学位プログラムに学生として所属させてもらっているという点を評価していただいたんでしょう。研究テーマは“山岳地域における事故および遭難に関するデータの時空間的解析”です。要するに山での事故と遭難の研究ですね。近年、山での事故や遭難が増え続けていますが、本来“命がけの遊び”であるはずの登山をみなさんが非常に軽く考えられるようになったその責任の一端は、長年山のメディアに身を置いてきた私にもあるのではないか、という反省からこのテーマを選びました。苦しさ、大変さを克服した後に楽しさがあるのに、“山は楽しいですよ。だからみんな、行きましょう”という部分だけがメッセージとして伝わりすぎてしまった気がしましてね。山での事故や遭難について研究し、少しでもそれを減らすためのメッセージをさまざまな形で送ることが、私なりの山への恩返しだと考えています。
−山での事故や遭難を回避するためには、どんなことを心がけるとよいのでしょう。
“安全登山”とよく言われますが、登山は決して安全ではないんですよ。そこで何か他にいい言葉はないかと、私がある本から見つけたのが“確実登山”という言葉です。すべてを確実にやっていく、ということですね。例えば、事前に装備を揃えた時や行程を決めた時に、本当にこの装備でいいんだろうか、この行程で自分は本当に歩き切れるんだろうかと確認する。現地に着いてからも、この天気で登れるだけの経験が自分にあるだろうか、このペースで歩いていて自分は大丈夫なのか、ここで休んで安全かと常に確認をする。足場の悪いところでは、今、足が滑ってバランスを崩したら、あの岩に頭をぶつけるかもしれないというところまでイメージして確実に足を置いていくことも必要です。とにかく考え方も動作もひとつひとつ確実に進めていくことが一番だと思います。ただいきなり“確実な登山”といっても誰も見向きもしてくれないでしょうから、“安全確実登山”という言葉を使うようにしています。その言葉が普及することでちょっとでも意識が変わるのではないかと思っています。
−“安全確実登山”には、感覚を研ぎ澄まし、フルに想像力も働かせることが必要ですね。
そうですね。田部井さんは、登山中は人とお話ができるくらいのリズムで歩くのがいい、と言ってらした。そうすることでゆっくりしたペースで、しっかり腹式呼吸をしながら登れますよ、ということだったと思います。確かにどちらも大事ですが、私はむしろ歩いている時に誰とも話さないほうがいいと思っています。自分の心と対話できるのが山歩きのひとつの良さだと思いますし、景色を見て、鳥の声も聞いてというふうに五感を研ぎ澄ませていたほうが自然との接点も深まって、より安全確実な登山に繋がるんじゃないか、と思います。登る前に経験者に登山の初歩を教えてもらうということも、本当はとても大事なことなんですけどね。
1958年 茨城県新治郡八郷町(現・石岡市)出身 県立石岡第一高校卒業後、早稲田大学商学部に入学。1981年、山と渓谷社に入社し、広告部を経て雑誌編集部へ。『山と渓谷』の編集長、ヤマケイ登山総合研究所所長、日本山岳遺産基金事務局長などを歴任。2018年12月退職。現在は筑波大学生命環境科学研究科山岳科学学位プログラムに在籍。日本山岳救助機構研究員、東京都山岳連盟救助隊所属。日本山岳文化学会、日本ヒマラヤ協会、日本環境ジャーナリストの会、森林インストラクター東京会、日本自然保護協会、日本山岳会などの会員でもある。2019年6月から山の日アンバサダーに就任。また筑波山ガマ口上保存会に所属し、口上実演なども修行中。
東北の高校生の富士登山HP
http://junko-tabei.jp/fuji/
東北の高校生の富士登山 クラウドファンディングのサイト
https://a-port.asahi.com/projects/fujitozan_tabei/