−三保松原は初めてですが、とてもいいところですね。富士山が見えなかったのは残念でしたが、心が癒されました。
富士山が見えると格別ですよ。富士山、松、砂、浜、海、天の組み合わせには、普遍的な美しさがあります。
−その松原の保全に力を尽くされているわけですが、状況はどうですか。
苦の世界です。おかげで打たれ強くなりました。またその中で仏様のような人や言葉に出会うこともたくさんありました(笑)。世界遺産登録は世間的にはビジネスチャンスでもありますから思いがけないことも起こります。心してかからないと大変な事態になりかねないと、いつも肝に銘じています。保全のためには何よりも"三保松原とは何か"という本質を、もっとみなさんに理解してもらうことが大事だと思い、去年、静岡市内のNPO法人のメンバーや市民有志で運営する羽衣ルネッサンス協議会を立ち上げ、文化庁のご協力もいただきながら「三保松原学」という文化講座を開設しています。地質学、社会学、環境、文化人類学、文学、日本史、日本美術と、さまざまな角度から三保松原を考えていますが、いろんなことがわかっておもしろいですよ。
−三保松原とは、何なのでしょう?
一言で言うなら"日本人の美意識"です。日本人なら誰でも、美しい、懐かしいと思う景色の一つだと思います。そういう情操教育を知らず知らずのうちに受けていたとも言えますけどね。川勝平太静岡県知事は「暗黙知」と表現なさいました。
−もう少し詳しく教えてください。
万葉集にも「廬原(いほはら)の清見の崎の三保の浦のゆたけき見つつ物思ひもなし」という、興津で詠まれた和歌が収められています。当時から、この辺りの東海道を往来する人たちは、富士山や三保松原をずーっと眺めていたわけです。日本は公家から庶民まで和歌を詠む国ですから、その景色を和歌に詠んだ。当時は今と違って情報を運ぶのは人間ですから、京の都で「三保松原はきれいだよ」と話すと「じゃあ絵に描いてみて」となったでしょうし、その絵を見て、都の人たちがまた和歌を詠んだわけです。やがて駿河にも公家さんをはじめとする京衆が下向して、「歌枕のところに行ってみよう」と三保松原や清見潟にやって来る。同じく歌枕の天橋立を見て、これは極楽だと思っていた公家さんは、浜と松と海だけでなく、さらにそこに富士山が浮かんでいる景色を見て、度肝を抜かれたと思いますよ。
−私たちは、そうやって長い歴史の中で築き上げられた文学や美術に意識せずに触れて、育ってきているわけですね。
そうです。室町時代には、三保松原を舞台に、能楽「羽衣」が生まれます。東大寺大仏開眼供養の時に行われたという東遊(あずまあそび)の一つの駿河舞は、有度浜に天人が降りて舞ったという舞ですから、この地域の「天人」伝説は早くから都に伝わっていたんでしょうね。天人伝説は日本各地にありますが、三保松原と富士山が一つになった美しい景観は、伝説の信憑性を高めたんだと思います。明治時代になると「羽衣」は歌舞伎になって庶民にも広がりますし、明治から昭和の中頃までは、小学校の教科書のようなものにも「羽衣」は載っていたんです。「羽衣」という唱歌もありますしね。だから昔の人は、松と富士山、と聞けば当たり前のように三保松原を思い浮かべたんです。富士山を見て、この世の別天地があると感じたり、松原の景色を見て懐かしさを感じるのも同じこと。今は景色に感動しても懐かしさを感じる人は少なくなっていて、日本人のアイデンティティが失われつつある気がします。
−松原自体、ほとんど見かけなくなりましたしね。
そうですね。今の三保松原も、天女が降りてきた頃からすれば形骸です。それでもこれだけ工業化した清水に残っているわけですから、世界遺産の話が持ち上がった時には、三保松原を残す最後のチャンスだと思いました。こういうことを言うと怒られるかもしれませんが、文化芸術の源泉というなら、三保松原は構成資産の1番に来てもいいのではないかと思っています。眺望地としてだけのみ考えると、距離が遠いということで25番目になってしまうけど、文化芸術の源泉としてのエッセンスが凝縮しているのは三保松原でしょうって(笑)。
−三保松原が構成資産に決まったことは、遠藤さんにとって転機のようなものでもあったのでしょうか。
転機ではありませんが、一つの事件ではありましたね。旅館も隣接していますし、日常的に見ていますから、三保松原はどうなってしまうのかという危機感はずっと抱えていました。でも国指定名勝ですし、県立自然公園の区域内ですから、きっと行政が守ってくれる、と信じていたんです。残念ながらそれは思い込みでした。私自身も逃げていたのかもしれないですね、うちの旅館にきてくださるお客様のことだけ考えようと思っていましたから。でも文化芸術の源泉というなら構成資産から外せるはずがないと信じていた三保松原が、一度は除外勧告を受け、最後の最後に逆転で入った。その時に、これは奇跡が起こったのかもしれない、と思いました。三保松原を守るのは自分の使命なんじゃないか、だったら愚直に、何があってもその使命を果たそう、と残りの人生の全て賭ける覚悟ができましたね。
−ボランティアの方を募って、週に2回、松原の草取りと松葉かきをされているそうですね。
昔、落松葉は大事な生活燃料でしたし、売ればお金にもなったから、しょっちゅう誰かが来ては松葉をかいていました。砂とか松のためじゃなくて、自分たちの生活のために。それが砂にも松にもとてもよかった。今は落松葉が堆積して土地が肥えたせいで、痩せた土地が好きな松はかなり衰弱しています。どうにか昔のような循環を、取り戻せないかと考えているところです。またボランティアに来よう、と何度も思ってもらえるように、草取りや松葉かきを楽しんでもらいたいと思っています。
−実際、参加されている方たちの反応はどうですか。
お子さんたちは、いろんな新しい発見をしながら生き生き作業していますね。道具の使い方を教えてくれるお父さんやお母さんを、「すごいな」と思ったりもしているようですから、親子にとってもいい時間になっているんじゃないでしょうか。終わった後に近くのキャンプ場でバーベキューをして帰られるご家族も多いですね。休みの日には商業施設ではなくて三保松原に行こう、と思ってもらえるような、名勝地の楽しみ方を提供していきたいです。松葉かきって本当に気持ちいいんですよ。しかも、身体にもいい。静岡県立静岡農業高等学校の生徒さんたちが「松葉の研究」に取り組んで、松葉には抗酸化作用のあるケルセチンが玉ねぎの10倍あり、他にも血管拡張作用や抗菌作用もあることが確認できています。
−集めた落松葉は、どうしているんですか。
いろんな製品開発をしています。若い人たちの提案で燃料になる松葉ペレットにもなりました。この松葉ペレットの香りが、とてもいいんですよ。そのままでも芳香剤として十分価値がある。今、もう一つ考えているのは、電気自動車です。東海大学に自然エネルギーで発電する技術を研究する田中博通先生がいらっしゃいますから、二次交通のないこの地域に、自然エネルギーでバスをこまめに走らせられたらいいなあ、と。ボランティアでくたくたに疲れた人たちを、そのバスでキャンプ場まで送ることもできますしね。ボランティアに来てくれる人たちが楽しめて、環境にもよくて、みんなが喜ぶようなそんな現代の理想郷を、三保松原の中心に作るのが、私の夢です。
−子どもの頃に見ていた三保松原は、どんな景色でしたか。
海と砂浜と松だけ。人工物は一切なかったですね。松はもっとたくさんありましたが、とても素朴な景色でした。そしてその向こうに富士山が見える。その景色が、私には唯一の母なるもの、なんですよ。小さい時から、人間というのはいい加減で、自分の都合で変わるものだと思っていた私にとって、いつでも変わらずそこで待っていてくれるものは三保松原の景色しかなかった。すごく救われましたし、今も救われています。同じようにこの景色に救われている人、これから救われる人もいると思います。だからこそ、この昔ながらの日本の景色を失いたくないと思うんですよね。
−遠藤さんが思う富士山の魅力は?
光です。駿河の富士山は、朝も夕も陽を浴びて光ります。ずっと光る富士山しか見ていなかったので、大学生の時に東京で日没に黒くなる富士山を見た時は本当にびっくりしました(笑)。そして年に何回か、秋から早春に恐ろしいほど美しくなる時があるんです。それは神々しくて、この世のものとは思えない美しさです。富士山と松原と海と天とが一体になって、光の演出によって刻々と姿を変えていく。たかだか5分くらいのドラマですけど、それは素晴らしいです。仕事をしていても、そのドラマが始まりそうだとわかると、いなくなっちゃいますね(笑)。
−大騒ぎでしょうね、女将がどこかに行っちゃった! って(笑)。
だってその富士山を、あと何回見られるかわからないんですよ。ここに住んでいても、関心がなければ気がつかないんですから。その富士山は、ビーナスです。ただごとでないことが起こる、と思いますよ。能楽「羽衣」の作者はきっと、腰が抜けるような美しい富士山を、その目で見たんだと思います。そうでなければ書けない能楽だったと思います。
−その富士山からインスピレーションを受けた芸術家が何人いたことか・・。美しい景色の威力は計り知れないですね。
私は世阿弥さんも、北原白秋さんも、三島由紀夫さんも、今川義元さんも、みんな心のお友達だと思っています。なぜなら時空を超えて同じ景色を共有しているから(笑)。後の世の人ともその景色を共有できるように、三保松原をあるべき姿で守り、残さないと。三保松原と富士山の美しい景色を、しっかり伝えられる私たちでありたいですね。
1958年3月13日生まれ 慶應義塾大学文学部国文科卒。大学4年生の時に地元に戻り、4代目女将として家業の「羽衣ホテル」(1907年創業)を切り盛りする。1994年に三保の松原・羽衣村を立ち上げ、2003年にNPOに。昨年、羽衣ルネッサンス協議会を立ち上げた。著書に「三保の松原・美の世界」がある。HPの運営や月一の「羽衣村広報」発行など積極的に発信。朝晩2回、愛犬との浜辺の散歩を欠かさない。
11月5日には羽衣ルネッサンス協議会主催の「三保松原学シンポジウム2016」を静岡市清水文化会館小ホール・マリナートで開催(18時30分〜 定員250名 入場無料 申込不要 先着順)。また「三保松原ゆかりの美術展」も、マリナート1階ギャラリーAで同時開催(11月4日〜11月6日)。
NPO法人三保の松原・羽衣村三保松原HP:http://www.hagoromo-hotel.co.jp/hagoromomura/