−音楽を始めたのはいつ頃ですか。
23歳くらいからです。サラリーマンになろうと頑張ったものの挫折した頃に、ふと、気づいたんですよ。自分が一番輝いていたのは、この上吉田の辺りを飛び回っては「農作業の邪魔だから、これで向こうで遊んでおいで」と言われてお百姓さんからもらった草笛や森で拾ったどんぐりなんかを吹いていた頃だったなって。それで、楽器をやろう、と思ったんです。ピアノも弾いたことはありませんでしたから、小学校の時にやっていたリコーダーを吹こう、と。あとは森で拾った木の実や鹿の角やいろんなもので鳥の鳴き声を真似たり、風の音を真似たり、目に見えない音符を探し出すように曲を作っていった。自然から楽器をもらって、自然を手本にしてきたんですね。当時は音楽だけで生活ができるとは思わなかったけど、みんなと違うことを始めたのがよかったんでしょう。僕が使う自然の楽器はどれも世界にひとつしかない楽器ですから、いきなり、"家元"になったようなものですね(笑)。
−でも木の実や鹿の角は、そのままでは楽器にならないですよね。どうやって楽器にするんですか。
穴がひとつ開いていれば、指を使わなくても息だけでドレミファソラシドが出せるんですよ。だから、なるべく拾ったものをそのまま使っています。そこに自然が作り出した造形がないと僕も吹く気が起きないし、手触りがよくてぬくもりを感じさせる自然の素材から出る音は、既成の楽器とは違う膨らみや心地よさがありますからね。僕が楽器にするのは、地面に落ちて雨に打たれたら微生物に分解されてすぐ土に還っちゃうようなもの。そういうみんなが踏んづけているような何気ないものでも、こっちが真剣になって息で音を引き出せば、純金のフルートにも負けない音が出せるんじゃないか、すごい演奏ができるんじゃないか、という発想で演奏しています(笑)。
−日本だけでなく世界各国に行って演奏をされていますね。
声をかけてもらったらどこにでも行くことにしているんですよ。好き勝手なことをしているのにお仕事が来るのはご縁でもあるし、僕にとっては音楽がコミュニケーションの道具でもあるから。僕は音を通して人とつながったり社会とつながったりしているわけで、それ以外のことで人とコミュニケーションしても意味がないと思っているところもあるんですね。だから僕自身は車も持たないし、パソコンも持たないし、携帯も持たない。それでも、これは僕の妄想かもしれないけれど、会いたい人には必ず会えているし、家族を養えるくらいの仕事がある・・。自然に生きる以外、僕には考えられないということですね。仕事も来たらやる、来なかったらやらないだけです。ただ、楽器はいつも吹いてますよ、吹きたくてしょうがないから(笑)。
−楽器を吹く楽しみを教えてください。
今まで出したことのないきれいな音を出すことかな。どこまできれいな音を出せるか追求し続けたい、と思っているんですよ。
−きれいな音?
何をきれいな音とするのか自分でもよくわからないけれど、方向としては、音の粒子がどんどん細く、滑らかになっていくような感じかもしれないですね。僕はよく森の中での演奏を頼まれるんですけど、それって結構度胸がいることなんですよ。森ではすでに鳥たちや生き物たちの演奏会が始まってるわけだから、こっちが音を出すと、鳥がものすごい勢いで怒り出したりする(笑)。森の演奏会の邪魔にならないような、森の静寂を壊さないような音を出せたらいいなあ、と思ってます。そのためにも、生き方をもっと極めていきたいんですけどね。
−非常にオリジナルな衣装で演奏されていますが、そのスタイルはいつ、何がきっかけで?
帽子も洋服もほとんどが、いただいたものです。楽器も含めて、「これを使ってください」と言われることがとても多くて。それに自分で色をつけたりして着ています。骨董品みたいなバッグにもよく絵を描いたりもするんですが、勝手にアレンジするのが好きなんですよ。
−絵はいつ頃から描き始めたんですか。
30歳くらいからかな。もともと絵が好きで、音楽で食べていけるようになってからは、お金が貯まると絵を買っていました。身近に置いて眺めたり、絵描きと知り合いになって話をしたりしているうちに、絵の描き方がわかってきたんですね。自分でも描くようになってしばらくしたら東京から画商が訪ねてきて、絵を扱わせてくれ、と。それから個展を開いたりするようになったんです。ワインのラベルも、描いたりしましたね。
−何を題材に描き始めたんですか。
最初は、自画像というわけではないけれど、"笛を吹く人"というシリーズで描いたり、曲を書いた時の印象を絵にしたりしていました。例えばアラスカのオーロラの下で吹いてくれと言われてオーロラの曲を作ったら、オーロラの絵を描いたり。でも途中から富士山がおもしろくなってきて・・。描き始めたら他のものが描けなくなりました(苦笑)。
−絵の題材として、富士山はそんなに魅力的なんですか。
富士山はあれだけ形がしっかりしているけど、自由に描けるんですよ。こう描かなきゃいけない、というのがない。自由なエネルギーを、富士山から与えられているというのかな。だから、描くたびに違う絵になるし、逆に言うと、同じものが描けない。多分、"本来の自分"が出ちゃうんだと思いますね。仕上がった絵を見て、ああ、今の自分はこうなのか、と感じることは多いです。どこにこんな自分が!?と、ドキッとしたりもするし。ものすごく深いところまで映し出す鏡、みたいなところがありますね。
−題材として身近に富士山があったことは、オマタさんが絵を描く上で非常に大きかったわけですね。
小さい頃から富士山を見て育ったというだけで、ひとつの自由を与えられたようなものだと思いますよ。どれだけ好きに描いても「あいつは毎日富士山を見ているんだから間違いない」って思われるでしょう。僕は何度か、海を描いてくれと頼まれたことがあるけど、自分で描いていてどこか嘘っぽい気がしてしょうがなかった。海を見て育った人間が何も見ずに海を描いても、みんな納得するんでしょうけどね。
−富士山から影響を受けているな、と感じることはありますか。
ここで生まれ育って、ここで笛を吹いて、何か曲が生まれたら、それは富士山の影響以外考えられないと思いますよ。それになんとなく、ですけど、僕はここで生まれてなかったら、演奏家になってなかったし、なれなかったと思いますね。ここの森で拾った木の実や鹿の角を使って演奏しているわけだし、ここの森の中で音を出すことも、曲を作ることも教わった・・。演奏家としての根っこはここにあるんですよね。手段と僕のエネルギーと富士山のエネルギーがどこかでつながって、音や曲になっているんだと思います。
−毎日ごらんになっている富士山。一番好きな富士山を教えてください。
四季を問わず、朝と夕の富士です。とくに朝、ですね。僕らは普段、あまり自然の速度なんて感じないですよね。でも、実はとんでもない速さで動いている。どれだけの速度で自分たちが生きているか、生活しているか、というのが視覚的に一番わかりやすいのが朝の富士なんです。まだ暗闇の頃から行って、山頂に届いた朝日が裾野に届くまでは、あっという間ですよ。一瞬目を離したら、すべてが変わっている。それがすごくおもしろいな、と思います。実は最近は赤富士にはまっていて、毎朝、近所の富士山全体がよく見えるところまで見に行っているんですよ。山頂から色が変わり始めるんですけど、その色の変わり方が毎回違う。1日でも逃すとすごく損をする気がして、毎朝、飛び起きています(笑)。
−オマタさんにとって、富士山の一番の魅力は?
そこに存在していることです(笑)。よそじゃなくて、よかったです。
−その富士山が、世界遺産になった時には、どんなことを思われましたか。
難しいですね、僕の中では富士山はとっくの昔に世界遺産になっていたようなものだし、誰もがその本当の価値を認めて、どれだけ神聖なものとして心で受け止めているかなんて、ちょっと疑わしい気もするし・・。うまく説明できるかどうかわからないけれど、例えば、僕が森で拾って楽器にしたものがあったとして、それが素晴らしい楽器だということが世界に知れ渡って、みんながそれを何かの遺産にしようとしたとしますよね。そのことでその楽器の価値は一般的には上がるんでしょうけど、僕の中では失うことのほうが絶対に多い。
−なんとなく、わかります。あえて共有しようとしなくても、一人一人が大事に思っていればいい、ということはある気がします。
そう。ただ、一人一人が大事に思う、というデリケートな作業って、そんなに簡単なことじゃないですからね。なんでもそうだけど、距離感は大切だと思いますね。社会と僕、音楽と僕、富士山と僕・・。その距離感を間違えると、最初はどんなに純粋に向き合っていても、これ以上ないというくらい俗っぽいことにもなりかねない。
−人の心の水はすぐに濁りますしね。
濁りますね。でも、そういう時には富士山としっかり向き合うんですよ。そうすると、いろんな余計なものがそぎ落とされる気がします。そぎ落としてくれる何かが、富士山にはあるのかもしれないですね・・。なんてあまり説明しすぎちゃうと、後から落ち込む気がします(笑)。富士山のこと、こんなに偉そうに語っちゃっていいのかなって。
1956年 山梨県富士吉田市出身 地元・富士吉田市で23歳頃から音楽家としての活動を始め、あるがままの自然の素材を楽器に演奏するという独自のスタイルを築く。ひとつの楽器を演奏するだけでなく、同時に何本もの楽器から別々の音を出す、異なるタイプの楽器を一緒に鳴らすなど、演奏法もとてもユニーク。日本だけでなく世界各地に演奏に出かけている。30歳を過ぎてからは画家としての活動もスタート。森など自然の中で演奏することが多いが、室内での演奏会では結婚後にチェンバロを始めた奥さんやギター奏者の娘さんと共演することも。