−外川さんは太宰治の「富嶽百景」に登場する御坂峠・天下茶屋の三代目。子どもの頃から富士山は意識していたんですか。
いや、とくに(笑)。「あ、富士山、あるな」くらいの感覚ですよ。いつも目の前にあるけど、ほとんど眺めもしませんでした。ただ、どこか遊びに行った時に遠くから富士山が見えると、「あ、あそこに帰るんだな」、「あの麓だよな、家は」と思ってました。今もそうですけどね。近くに見えるようになればなるほど、「帰って来たな」と安心もします。富士山を意識するようになったのは7、8年前ですね。
−きっかけは?
古新聞や古雑誌の集積所で見つけた「河口湖町史」という本です。ちょうど秋の終わり頃で、冬は店も暇になるし話のタネに読んでみよう、と拾って帰ったら、何もないただの田舎だと思っていた地元と目の前にある富士山のとんでもなく深い関わりと歴史が書いてあった。それを知って、ハマっちゃったんです(笑)。それから図書館で地元に関する本を手あたり次第に読み漁り、「河口湖町史」を雛形にして自分でデータを作り始めました。写真も必要なのでデジカメ持って子どもと一緒に河口地区を歩くと、あるんですよ、いろんなものが。30年以上1度も気に留めなかった、気づきもしなかったものが、貴重なものとして目に飛び込んで来た、というか。もっと地元の歴史と文化を掘り起こして次の世代にしっかりと伝えていかないといけないし、外にも発信していきたいと思ったんです。仕事をしながらなので、のんびり、楽しみながら、ですけどね。
−それで、上(じょう)の坊projectを?
立ち上げたのはその1、2年後ですね。ずっと個人で地元を探索したり、調べたりしていたんですが、応援してくれる人も増えたので、多くの人に関わってもらえるような形にした方がいいだろう、と。メンバーが決まっているわけではなくて、声をかけると仲間が集まって来てくれる、という"鬼ごっこ"スタイル(笑)。真剣に遊ぶのが好きなんですよ。
−富士山と河口地区の深い関わりを示すものというと?
富士山世界文化遺産の構成資産のひとつの河口浅間(あさま)神社です。河口浅間神社は、山梨県の富士山をご神体にする浅間神社の根源のような神社だったんじゃないか、と思っているんですよ。富士山信仰の、最も重要な拠点だったんじゃないかな、と。あとでご案内しますが、立派な神社ですよ。境内には865年の創建時の参道の残欠といわれる、樹齢およそ1200年、根周りが30メートルくらいのものも含む七本杉と呼ばれる7本の杉もあります。あんな見事な杉は、他ではめったに見られませんよ。今は参拝者も少ないですけど、ただの田舎の神社じゃない、と言うのがよくわかっていただけると思います。残念ながら神社と村の古い記録は、1606年の大火で焼けてしまっているので、今の時点では証明できないんですけどね。なんとか証拠を見つけようと思っています(笑)。
あと、神社のすぐそばには信仰のために富士登山をする人の参拝や宿泊の世話、安全登山の祈祷もした御師の街の跡もあります。一時は御師の家が140軒あって、富士山信仰の御師の街としては一番規模が大きかった。今は御師の家の門がいくつか残っているだけですけどね。江戸時代には四代将軍徳川家綱専属の祈祷所もあって、家長の御師はお正月に江戸城本丸で祈祷をしていたそうです。
−当時の賑わいはすごかったんでしょうね。
そうだと思います。ところが富士講が流行した1800年を境に富士吉田が富士山の玄関口になって、河口地区は一気に静かになってしまう。今、僕には地元の"河口"の2文字がかすれているように思えるんですよ。室町時代をルーツとする御師料理を再現したり、山梨側の最古の登山ルートだとされている船津口を復活させようとしたりしていますけど、河口と富士山の関係、富士山の信仰と河口の関係を古い文献の中から掘り出して、それを新たに書き記していくことで、かすれている文字をはっきりさせたいと思っています。
−2人の息子さんたちに、富士山や地元の歴史を話したりするんですか。
あまり話さないです。僕は負担になるのが一番よくないと思っているので、押し付けるようなことをしたくないんですよ。それは自分の子どもだけでなく、地元の人たちにも。繰り返し、柔らかく地元の歴史を伝えていきたいし、何かが引っかかって、そのうち興味を持ってくれるようになったり、地元への誇りにつながったら嬉しいなあ、と。僕の村の探索には時々付き合ってくれますよ。例えば「ちょっと母の白滝を見に行くから一緒に来てよ」と誘うと「うん」って。大体いつもその辺で遊んでますけど、たまに「ほら、ここにこんなのがあるよ」って教えられることもありますね。
−富士山にまつわる思い出を教えてください。
震災の年の夏に、20年ぶりくらいに富士山に登ったんですよ。東北にお嫁さんに行って被災した地元の人と一緒に河口浅間神社で復興祈願をして登ったんですけど、観光で登るのとは全然違って、達成感とも違うなんともいえない高揚感があって、この力を何かに向けないといけないな、という気持ちが湧いてきた。それがすごく印象に残ってますね。以来毎年7月と8月に1回ずつ、日帰りの復興祈願登拝を30人くらいでしています。今年も7月15日に行ってきました。みんなで願いをひとつにして、楽しく、助け合い、励まし合いながら登って、山頂で被災地に向けて黙祷しました。参加者全員で、助け合ったり励まし合ったりする気持ちを共有することこそが有事への備えになる、と再確認して帰ってきました。1度参加した人は、2度、3度と参加してくれるので、嬉しいです。
−20年ぶりとおっしゃいましたけど、小さい時はよく登ってたんですか。
1度だけです。通っていた中学校で2年に1度、希望者だけで富士登山をしていて、それに参加しました。標高1300メートルにある天下茶屋の息子ですし、親父たちが仕事をしている時は裏の山に登ったりして遊んでましたから、なんの苦労もなく、むしろ楽々と登れました。だから感動もしなかった。さすがにこの年になると富士山に登るのは大変なので、復興祈願登拝をするようになってからは、仲間たちと登山の練習をしています。なかなか休みが合わないので、平日、朝3時、4時に起きて朝ご飯を持って1、2時間で登れる山に行って、仕事に間に合うように帰って来るんですが、楽しいですよ。
−外川さんにとって富士山はどんな存在ですか。
地元との関わりを知ってからは、"親"みたいな感じです。あってあたり前だけど、ないととんでもなく困る。ひとつの拠り所、と言ってもいいかもしれないですね。しょっちゅう富士山を眺めていますし、自分の中で答が出ないことや気にかかることがあれば、必ず富士山がご神体の河口浅間神社にお参りに行きます。何もなくても、親戚や知り合いが遊びに来れば必ず河口浅間神社に連れて行きますから、頻繁に参拝してるんですけどね。
−興味のなかった頃が嘘のように?
ええ。意識が変わるとこうも変わるのか、と自分でも不思議です。なんでもそうでしょうけど、楽しみながらじゃないとクオリティは下がると思うので、河口地区が一番栄えていた頃の活気を取り戻すことを目指して、これからも楽しみながら富士山と河口の歴史を探っていくつもりです。ぜひみなさん、富士河口湖町に遊びに来て、河口浅間神社に参拝してください(笑)。
1973年 山梨県南都留郡富士河口湖町生まれ。上(じょう)の坊 project(http://jonobo.jp/)代表、御坂峠天下茶屋(http://www.tenkachaya.jp/)取締役。天下茶屋分店・峠の茶屋開店を機に、20歳から家業を手伝う。2009年からは家業の傍ら上の坊projectを立ち上げ、地元・河口地区の歴史や文化の掘り起こしと発信の旗を振る。2011年以降毎夏2回、復興祈願登拝も行っている。"上の坊"は御師だった先祖の屋号。