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富士山インタビュー

縄文時代、富士吉田市を含む富士山北麓にはたくさんの縄文人の集落がありました

富士山のミニチュア模型に富士山の四季を映し出すプロジェクションマッピングが目玉のひとつである富士吉田市にあるふじさんミュージアム。
学芸員の篠原武さんはそこで日々、来館者に富士山の魅力を伝えています。
富士山とご自身の考古学の専門である縄文時代へ真摯な思いが言葉の端々から伝わって、真面目なお人柄だと感じました。
言うまでもなく、人の一生は富士山の歴史に比べたらとても短いものです。
でも富士山を通して縄文人とだけでなく未来の人たちとも繋がれるのだ、と感じられるお話でした。
写真:井坂孝行/取材・文:木村由理江

縄文人は富士山の噴火のたびに避難しては戻ってきていたようです

−ご専門は縄文時代。当時の富士山はどんな状況だったのでしょう。

 縄文時代は富士山が最も盛んに噴火をしていた時代で、25年から50年に一度は噴火していました。噴火を繰り返しながら徐々に今の高さに成長していったわけですから、当時はもっと荒々しい姿をしていたと思います。縄文時代の中期、今から5000年から4500年前にかけては、今の富士吉田を含む富士山の北側にはたくさんの集落があり、そこで暮らしていた縄文人は噴火のたびに避難し、十数年から数十年くらい経つと同じ場所に戻ってくるというのを繰り返していたようです。

−噴火をするとわかっていてもまた戻ってくる。住み心地がよかったんですか。

 噴火による堆積物で土壌は豊かになりますし、水もたっぷりある。動物も、木の実を採取できる木も多かったので、住み心地はよかったと思います。

−富士山の存在自体が、彼らが戻ってくる理由になっていたわけではない?

 当時は森羅羅万象すべてに聖なるものが宿っていると考えられていましたから、噴火をする富士山を崇高な山と捉えてはいたでしょうけど、今ほど特別扱いはしてなかったと思います。都留市の牛石遺跡や富士宮市の千居(せんご)遺跡のように、富士山を遥拝していたと考えられる縄文時代の遺跡もありますが、富士山が信仰されていたとはっきりわかるのは、富士山を詠んだ歌が収められた『万葉集』が編まれた奈良時代からです。縄文時代は、噴火は聖なるもの独自の意思で起きているのであってそこに人間は介在できない、と考えていたと思いますが、時代が変化し定住も進むと、できれば噴火は収まってもらいたい、噴火を引き起こす力があるなら、噴火を鎮める力もあるはずだ、という発想が生まれて、そこから山に願いを託す文化が生まれ、山がどんどん信仰を集めるようになったんだと思います。富士山はその代表だったということですね。

−その聖なる山である富士に、なぜ人は登り始めたのでしょう。

 奈良、平安時代に“富士山頂に神様がいる”という発想が出始め、山頂に登れば神様に直接に意思を伝えられる、という考えが広まっていったのでしょう。その頃から山岳信仰を基にした修験道の文化も育まれ、神仏がおわすとされる火口で修行することで何かしらの霊力を得られるのではないか、という期待もあって、修験者が登るようになっていったと考えられます。役行者が富士山に登ったというのは伝説の域を出ませんが、西暦800年代後半の書物に、富士山に登った人の語り伝えだと思われる詳細な記述があります。

−最初に富士山に登った人は命がけだったでしょうね。

 まだよく噴火をしていました時代ですし、そこで何が待ち受けているかまったくわからなかったわけですからね。単独だったのか仲間がいたのかわかりませんが、生きて戻ってこられないであろうことは覚悟の上で、でも富士山に登ることで神様と直接やりとりできる、という確信があったから登ろうと決めたんだと思います。そしてなんとか富士山頂に到達し、何かを感じ取って帰ってきた。帰ってこられるはずがないと思っていた人が帰ってきたわけですから、周囲の人からは“一度あの世に行って戻ってきた特別な存在”と見られたでしょうし、その人の言葉には説得力があったと思います。それに続く人がどんどん出てきて、徐々に富士山に登ることがタブー視されなくなっていった、ということだと思います。

今ある山小屋のほとんどは、江戸時代からずっと同じ場所に建っています

−山小屋はいつ頃から?

 1130年から1140年代にかけて、末代上人という方が富士山頂に大日如来をお祀りする大日堂を造られます。山頂に修行の拠点ができたことで修行者が増え、山道のあちらこちらに神仏をお祀りしたり修行する場所も作られる。やがて鎌倉、室町と時代が移る中で、修験者が一般の人の強い要望に応えて彼らを山頂まで連れていくようになるんですね。富士山は天候が急変しやすく、五合目から上は身を守るための樹木もないので、一般の人のための避難小屋的なものが作られた。それが山小屋の原型になったと考えられます。

−山小屋の歴史は長いんですね。

 ええ。1600年代には五合目に18軒の山小屋があったと言われていて、そこを拠点に登山者は山頂を目指したようです。それが1700年代に入って富士山を信仰してグループで登山する富士講が盛んになり、一度に50人から100人のグループがいくつも登るようになる。登山者の増加に伴い、五合目より上にも多くの人を収容できるきちんとした山小屋を整えていこう、という動きになっていったんでしょう。江戸の中頃には、今のように宿泊も食事もできる山小屋が各合目にできていたようです。当時は御師さんが経営してましたが、徐々に実際に山小屋を運営されていた方に権利が譲られていった。建物は当然建て替わっていますが、今ある山小屋のほとんどは、江戸時代の中頃と同じ場所に建っているはずです。

−その後、現在に至るまでに富士山に対する人々の思いはどう変わってきたのでしょう。

 江戸時代の中頃になると、お金を積み立てれば誰でも富士山に登れるようになり、一生に一度は登ってみたい、という憧れの山として定着していくことになります。それが明治・大正期には、廃仏毀釈の影響や山に登ること自体を楽しむ文化の浸透により、スポーツ登山の山と捉えられるようになって現在に至る、ということでしょうね。神仏が住む特別な山、という意識は底流では続いていると思いますが、“誰でも登れる山”になってきたんだと思います。

−“誰でも登れる山”なのに、特別な山と意識されているのも富士山ならではかもしれないですね。

 富士講が世の中に広まるきっかけとなった食行身禄(1671-1733)さんの“信仰する人は誰でも登れる山にしたい”という思いが、今も続いているからだと思います。お金儲けや娯楽のためではなく、人々の富士山への思いや憧れを大切にしたい、という思いが、富士山を特別な山たらしめている、というか。その思いは今後も、変わらず受け継がれていくんじゃないでしょうか。やっぱり富士山にはすべての人を感動させる何かがあるんですよ。それは富士山が地球の自然の素晴らしい産物であると、誰もが感じるからだと思います。だからこそ世界遺産にもなったし、世界中から人を呼び込む吸引力がある。富士山への人々の思いが、日本一高いのに“誰でも登れる山”にしているんだと思いますね。

富士吉田市にはイタリアのポンペイと同じような遺跡が埋まっています

−ご出身は逗子市。あのあたりからも富士山はよく見えますね。

 その後、藤沢、茅ヶ崎と移りましたが、ずっと海越しに富士山を見ていました。箱根や丹沢の山も見えますが、やっぱり富士山は特別です。その姿にもの凄く感動させる力があって、登ってみたい、近くに行ってみたい、とずっと思っていました。だから富士吉田市に就職が決まった時には嬉しかったですし、こっちで初めて富士山を見た時にはびっくりしました。あまりに大きすぎてそれが富士山とわからなかったくらいです(笑)。

−市役所に就職すると同時に配属になったのが、現在、ふじさんミュージアムの愛称で知られる富士吉田市歴史民俗博物館です。なぜ大学で考古学を?

 小学校の頃から歴史全般が好きで、発掘によって解明されてきた古代の文明にも憧れを抱いていました。発掘によって知らなかったことを見つけられるという感動を自分でも味わいたくて、考古学を勉強できる明治大学に進学したんです。在学中、アルバイトをしていた神奈川県綾瀬市の縄文時代の遺跡で縄文土器や家の跡地を発掘してすごく感動しましてね。その魅力に取り憑かれ、縄文時代のことをずっと調査研究していきたい、と思うようになりました。大学を卒業する年に、恩師から富士吉田市歴史民俗博物館で学芸員を募集しているから試験を受けてみないか、と勧めていただき、無事試験に合格して就職することができました。

−富士吉田市にも縄文時代の遺跡があるそうですね。

 そうです。考古学をやる人間なら誰もが憧れるのがイタリアのポンペイ遺跡ですが、恩師からは「それと同じようなものが富士吉田には埋まっている、お前はそれを掘ってこい」と言われました。実際に火山災害で埋まった遺跡を発掘した時に、それを実感しました。また同時に、ここに来るまで全く知らなかった富士山の信仰についてもいろいろ学ばせてもらい、縄文時代から連綿と続く人々と富士山との関わり合いが今に至っているのを感じました。逗子や藤沢や茅ヶ崎にも富士講があったことも後から知って、僕が過ごした土地とここで縄文時代を過ごした人たちの思いは繋がってるんだ、と感動しましたね。

−富士山に初めて登ったのは、富士吉田に来られてからですか。

 そうです。最初の夏に朝早く五合目から山頂まで行きましたが、風があまりに強くてお鉢巡りは断念しました。その時に、きれいな山としか思っていなかった富士山が、全然違う姿をしているのに驚きました。山肌は荒々しく、下界では感じることのない強風が吹いている。昔の人が富士山を“あの世”とみなした理由がよくわかりました。また、この厳しさが人々を惹きつけてきたんだ、強制されなくても信仰したくなる何かがあるんだな、と感動もしました。一回登っただけでは何もわからない山なんだな、とも思いましたね。

−これまでに何回登られているんですか。

 富士吉田に来て丸17年で、少なくとも毎年1回、多い年は3、4回登ることもあるので30回は登っていると思います。でも何度登っても登り足りないというか。江戸を起点にした富士登山があったり、麓の湖を巡礼したり、富士塚を造ったり、と富士山の信仰にはさまざまな文化や側面があるので、それをもっと調べていきたいですね。

−富士山の間近で暮らしていて感じるのはどんなことですか。

 17年間見続けていますが、いつも違った姿を見せてくれますし、感動は少しも薄れていません。富士吉田市に住めて、毎日すごく幸せです。当然、ここに一生住むつもりで茅ヶ崎からやってきましたけど、地元の女性と結婚もして、自然に根が下ろせたのがすごく嬉しいし、本当にありがたいですね。

篠原武
しのはらたける

1979年 神奈川県逗子市出身 2002年、明治大学史学地理学科考古学専攻を卒業し、同年4月、富士吉田市役所に就職、富士吉田市歴史民俗博物館に配属され、現在に至る。主に市内の文化財保護を担当。考古学の専門は縄文時代で、市内の遺跡の発掘調査、また富士信仰の調査、世界遺産の調査や保護を行なっている。

ふじさんミュージアムHP
https://www.fy-museum.jp/forms/top/top.aspx
(「富士吉田市収蔵美術品 富士山絵画展」を5月27日まで開催中)

インタビューアーカイブ
山田淳富士登山のスペシャリスト
田中みずき女性絵師
青嶋寿和マウントフジ トレイルステーション実行委員長
森原明廣山梨県立博物館学芸課長
渡邊通人富士山自然保護センター自然共生研究室室長
田近義博富士山ツーリズム御殿場実行委員会事務局長
中島紫穂富士山レンジャー
植田めぐみフリーカメラマン
外川真介上の坊project代表・天下茶屋三代目
山本裕輔印伝職人・印伝の山本三代目
金澤中シンガー・ソングライター
池ヶ谷知宏goodbymarket代表・デザイナー
田代博一般財団法人日本地図センター常務理事・地図研究所長
宮下敦成蹊気象観測所所長
加々美久美子御師旧外川家住宅館内ガイド&カフェ「北口夢屋」オーナー
土器屋由紀子認定NPO法人富士山測候所を活用する会理事・江戸川大学名誉教授 農学博士
福田六花医学博士・ミュージシャン・ランナー
舟津宏昭富士山アウトドアミュージアム代表
小松豊特定非営利活動法人 土に還る木 森づくりの会代表理事
菅原久夫富士山自然誌研究会会長・富士山の自然と花を観る会主宰
新谷雅徳一般社団法人エコロジック代表理事
堀内眞富士山世界遺産センター学芸員
杉山泰裕静岡県文化・観光部理事(富士山担当)
前田宜包富士山八合目富士吉田救護所ボランティア医師・市立甲府病院医師
高林恵梨子静岡県人事委員会事務局職員課任用班
今野登志夫陶芸家
遠藤まゆみNPO法人三保の松原・羽衣村事務局長、羽衣ホテル4代目女将
佐野彰秀バンブーアート作家
オマタタツロウ音楽家・画家
高橋百合子富士吉田市教育委員会 歴史文化課 課長補佐
内藤恒雄手漉和紙職人・駿河半紙技術研究会会長
太田安彦一般社団法人 ヨシダトレイルクラブ代表理事・富士吉田市公認富士登山ガイド
影山秀雄機織り職人 手機織処 影山工房主宰
江森甲二裾野市もののふの里銘酒会会長
中尾彩美富士山ビュー特急アテンダント
渡辺義基渡辺ハム工房
古屋英将株式会社ミロク代表取締役社長
井出宇俊井出醸造店・井出酒類販売株式会社営業部
望月基秀製茶問屋 株式会社静岡茶園 常務取締役
関根暢夫・ふじゑさん夫妻ふじさんミュージアム 手話ガイド
御園生一彦米久株式会社代表取締役社長
rumbe dobby手織り作家
小山真人静岡大学 教授 理学博士
勝俣克教富士屋ホテル 河口湖アネックス 富士ビューホテル支配人
漆畑信昭柿田川みどりのトラスト、柿田川自然保護の会各会長
日野原健司太田記念美術館 主席学芸員
渡井一信富士宮市郷土資料館館長
大高康正静岡県富士山世界遺産センター学芸課准教授
渡辺貴彦仮名書家
望月将悟静岡市消防局山岳救助隊員・トレイルランナー
成瀬亮富士山写真家
田部井進也一般社団法人田部井淳子基金代表理事、
クライミングジム&ヨガスタジオ「PLAY」経営
齋藤繁群馬大学大学院医学系研究科教授、医師、日本山岳会理事
吉本充宏山梨県富士山科学研究所 火山防災研究部 主任研究員
柿下木冠書家・公益財団法人独立書人団常務理事
菅田潤子富士山文化舎理事『富士山事記』企画編集担当
安藤智恵子国際地域開発コーディネーター
田中章義歌人
千葉達雄ウルトラトレイル・マウントフジ実行委員会事務局長、
NPO法人富士トレイルランナーズ倶楽部事務局長
松島仁静岡県富士山世界遺産センター 学芸課 教授(美術史)
大鴈丸一志・奈津子夫妻御師のいえ 大鴈丸 fugaku×hitsukiオーナー
有坂蓉子美術家・富士塚研究家
小川壮太プロトレイルランナー、甲州アルプスオートルートチャレンジ実行委員会実行委員長
飯田龍治アマチュアカメラマン
篠原武ふじさんミュージアム学芸員
吉田直嗣陶芸家
春山慶彦株式会社ヤマップ代表
中野光将清瀬市郷土博物館学芸員
久保田賢次山岳科学研究者
鈴木千紘・佐藤優之介看護師・2014年参加, 大学生・2015と2016年参加

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