−須走地区の調査はいつ頃から始まっていたのですか。
富士山の火山噴火と遺跡についての研究活動を、2016年夏に立ち上げた富士山考古学研究会で行っていまして、その一環で、2017年から須走地区の調査を始めました。1707年の宝永噴火で村全体が埋没し、その上に現在の町が作られたという記録は残っていますが、誰も掘ったことがないから本当のところはわからない。それで許可が得られたいくつかの空き地でレーダー探査をしてみたところ、当時の村がそのまま埋まっている可能性が非常に高いことがわかりました。たまたま、新たに道路が作られる場所があるというので、その工事に合わせて昨年6月、小山町教育委員会とともに試掘することができました。
−宝永噴火によって37棟が焼失し、残り38棟は潰れてそのまま埋もれたとニュースで伝えていましたが、そういう記録も残っているわけですね。
ええ。須走地区は当時も富士登山の拠点でしたから、江戸幕府がすぐに復興させようと、それぞれの家の大きさと被害の規模に応じて資金を提供した。そのための当時の調査記録のようなものがふたつくらい残っていますし、小山町史にも載っています。
−地面の中から黒く炭化した柱が出てきた時にはどんな感慨が?
地表約2m下くらいまで掘り進んだ辺りから炭の塊がちょぼちょぼ出てきてはいましたが、最終的に高さ20cmから30cmくらいの炭化した柱が立った状態で出てきた時には、おおっとちょっと感動しました。見つかった柱は2本で、その2本の柱の間をよく見ると黒い筋があり、その筋を境に白い火山灰と黒い火山灰に明確に分かれていました。白いのは最初に降った火山灰で、黒っぽい火山灰は次に降ったスコリアです。時間差で積もった火山灰に両側から支えられて壁が残ったものの、その後、壁が焼けてしまい、壁の跡が黒い筋になったと考えられます。潰れたと言っても一気に崩れたのではなく、ある程度建ったまま蒸し焼きになったのでしょう。国内にも何箇所か火山灰で埋まった遺跡はありますが、これほど建物がいい状態で残っていることはないので驚きました。
−柱が立ったまま見つかった理由がわかってスッキリしました。現在は埋め戻されているそうですが、ぜひ発掘して欲しいです。
いずれきちんと発掘できたらおもしろいでしょうね。一軒でも発掘できれば、いろいろことがわかると思います。江戸時代の遺跡の調査は、江戸とか大阪の堺などの都市がほとんどなので、地方の人々の暮らしぶりなどを知ることができるでしょうし、富士山信仰に関わりのある地域ですから、信仰に関するものがたくさん見つかる可能性があります。考古学だけでなく、いろいろなジャンルの専門家が入って研究するとさらにおもしろいと思います。ニュースの中で火山学の藤井敏嗣先生が「発掘して人々が見られるような形で残せれば、将来的な防災教材としても活かせるんじゃないか」とおっしゃっていましたが、単に学問的関心だけではなく、将来の防災や減災に繋げることも意識しながら研究を行っていかなくてはならないだろうなと思います。
−いずれにしても今回の発掘で、富士山が噴火した場合の被害の一端が、わかったわけですね。
そうですね。建物の床面までは掘ることができませんでしたが、噴火による激甚災害の様相、当時の建物の大きさ、災害後に町をどのように復興させていったかという過程は見えてきました。試掘の時には、地元の方も随分見学に来られていたし、地域にこういう素晴らしい宝があるというのを地元の方に認識してもらえるとありがたいなと思います。
−宝永噴火で埋まった村の下には、さらに以前の噴火で埋まった町がミルフィーユのように層になって埋まっている可能性もあるのでしょうか。
あると思います。ただその全てを掘るのはかなり大変だと思いますけどね(笑)。
−富士山の研究を始めたきっかけを教えてください。
東京大学では2002年からイタリア南部のソンマ・ヴェスヴィアーナ市にあるローマ時代の別荘遺跡の発掘調査を行っていますが、僕はご縁があってその調査に当初から参加しているんですよ。ヴェスヴィオ火山の度重なる噴火によって地表から約9m下に埋まっている遺跡で、非常に大規模で荘厳なつくりの建物で構成されていることから、ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスの別荘ではないかという仮説も出ています。そこには建物や彫像などの宝物だけでなく、当時の自然環境も埋まっているので、さまざまな見地から研究が行われています。僕自身はもともと日本考古学が専門ですから、噴火罹災が人々の生活にどのような影響を与えたかを日本でも研究できないかと思い、最初に三宅島で研究を始めました。三宅島は弥生時代、鏃(ヤジリ)に使う黒曜石を神津島から本土に運ぶための拠点だった島です。いろいろな分析の結果、ある噴火前に来島した集団の土器と噴火後に来島した集団の土器が異なる粘土で作られていることがわかりました。つまり、噴火によって黒曜石の流通ルートが途絶え、それに困った本土の人間が、噴火収束後に流通ルート回復のために三宅島に来島したのではないかと考えられた。ということは先史社会や古代社会においては、噴火によってさまざまな流通ルートが遮断され、社会の連続性が途絶えることが、人々の暮らしに最も大きな影響を与えていたのではないか、と考えたわけです。それで次に、日本で最も大きい火山である富士山についてもちょっと調べてみようと、研究を始めました。忘れもしない2009年です。私事ですが、妻が里帰り出産だったのをいいことに、長女が生まれた直後に僕は神奈川県で発掘していました(苦笑)。
−富士山考古学研究会を立ち上げられたきっかけも教えてください。今年6月には、富士山考古学研究会編の『富士山噴火の考古学〜火山と人類の共生史』(吉川弘文館刊)も出版されましたね。
富士山は“信仰の対象と芸術の源泉”として世界文化遺産に登録されていますが、信仰の根本には富士山が噴火することへの畏れや慄きがあっただろうと思います。しかしその研究はまだほとんど行われていない。ならばその罹災遺跡を探し、調査してみようと思い、ソンマ・ヴェスヴィアーナの発掘調査の経験から、地域の専門家だけでなく火山や文献などいろいろな分野の専門家にも加わってもらって、富士山をめぐる一帯を幅広く研究しようと立ち上げました。会員数? 15、16人でしょうか。年に2回、山梨と静岡の両県で研究会を行い、年に1、2回みんなで遺跡や火山灰を見に行っています。
−県や専門分野の垣根を超えて研究することで今までとは別の視点でものが見られたり、新しい知見が生まれたりしそうですね。
そうですね。例えば研究会で火山学の方に「火山灰をどのように観察するか」という発表をしてもらったことがきっかけとなって、考古学を専門とするみなさんは、以前に増して火山灰に興味を示すようになった気がしています。火山灰をどう見るかによって、発掘したものの解釈が変わってくるんですよ。例えば竪穴住居の中に火山灰が堆積していた場合、ふたつの可能性があります。ひとつは単に降った火山灰がそのまま堆積した。もうひとつは降った火山灰がのちに流れ込んで堆積した。そこで実際の堆積を見てみると、灰と灰の間に少し隙間があり、大きくて重いものから小さくて軽いものへグラデーションになっていれば前者で、そうでなければ後者ではないかと想定できる。そうした知見を得ることで、噴火による被害の過程がイメージできますし、発掘したものから地域の歴史について語る時にもよりわかりやすく伝えることができるのではないかと思います。あと、縄文時代や弥生時代の富士山の火山灰はいくつもの地域で出ていますが、よく似ているのに地域によって違う名前がつけられているなど、共通認識が持てていない可能性があります。そういった情報をきちんと結びつけていければ、富士山とその周辺地域、というひとつの生態系の中での噴火罹災と復興がよりはっきり見えてくるはずなので、その辺りを次の段階としてやっていきたいと考えています。
−何がきっかけで考古学に興味を持たれたのですか。
高校教師だった父親が、発掘をやっていたんですよ。父親が教師になったばかりの1970年代前後は、今のように埋蔵文化財を扱う体制が整っていなかった。それで高校の郷土史クラブの生徒が「うちの庭で土器が出る」と言ってきた時に「じゃあ掘ってみようか」ということで考古学をやり始めたそうです。もともと父は、古代史の勉強もしていましたからね。休みの日に土器を洗っている父を見て、(考古学は)おもしろいんだろうな、と思っていました。
−じゃあ、その頃から将来は考古学を、と?
高校生の頃は別のことをやろうと考えていました。ただ、大学の時くらい考古学やってみるか、と。大学1年の最初に行った発掘の現場が地元の小田原城のお堀で、まだ何の知識もなかった僕に教育委員会の人が「これは宝永噴火の火山灰だよ」と教えてくれた。きれいに灰色の層になっているのを見て、おおっと思ったのを覚えています。結局そのままズルズル大学院まで続け、その後、ご縁があってイタリアの調査に関わり、現在に至っているということですね(笑)。
−富士山を意識したのはいつ頃からですか。
生まれ育った小田原は、富士山が見えるところは限られていますし、僕の家からも箱根山に隠れて見えませんでした。だから富士山に対する熱い想いというのは、今、一緒に研究をしている仲間には怒られるかもしれませんが、正直、あまりないんですよ(苦笑)。あくまで研究対象として向き合っています。研究を始めて10年ちょっと経ちますが、富士山は植物、火山、動物などの分野ではいろいろな研究がされているのに、噴火と人類という“噴火罹災”の視点ではほとんど研究されていない。それを明らかにしていくのはおもしろいですし、そういう未開の地だから、僕は惹かれているのだと思います。今回の須走地区の調査結果の反響の大きさから、富士山を好きな人がいかに多いか、またどれだけ興味を持たれているかがよくわかりましたから、もうちょっと旗を振って頑張ってみるつもりです。
−きれいだな、と思うのはどこから見る富士山ですか。
清水から由比に向かう東名高速で、ずっと下がっていくと向こうにふわっと富士山が見えるポイントがありますよね。歌川広重の「東海道五十三次」にも描かれている付近なのかな。あそこを通る時はいつも、きれいだなと思います。あとは地元の小田原の東側にある曽我山から眺める富士山です。両方の裾野がきれいに見えて、好きですね。そういえば子どもの頃、家族の誰に言われたのか、東海道線で横浜から小田原に向かうどこかで、一瞬、富士山が左側に見える場所があると教えられて、父と横浜に行った帰り、その富士山を見るのが楽しみだったことを、今、思い出しました(笑)。
1972年 神奈川県生まれ 地元の高校卒業後、駒澤大学文学部歴史学科考古学専攻に入学。2002年、駒澤大学大学院人文科学研究科博士前期課程修了、2007年、後期課程修了。東京大学大学院人文社会系研究科助手、東京大学大学院農学生命科学研究科特任研究員を経て、現職。駒澤大学文学部歴史学科非常勤講師。お茶の水女子大学文教育学部非常勤講師。週末は料理担当で、その腕前は同僚が太鼓判を押すほど。得意なのは、約20年間、毎年研究で訪れているイタリアの料理。ピザを生地から作るのはもちろん、手打ちパスタもささっと作ってしまうという。「2人の娘が喜んで食べてくれるとうれしい」と目尻を下げた。