−山岳救助隊員になったきっかけを教えてください。
高校時代に将来の夢が見つからず、19歳の時に飛び込んだのが静岡市の消防局でした。その中で“自分の仕事”を見つけていく時に、山岳救助を選んでやりだした、ということです。僕は静岡市街地から北に車で約60キロ行った井川というところで生まれ育ったので管轄している山の情報に多少詳しかったんですよ。山で事故があった時にしっかり道案内をできる人間が一人いてもいいんじゃないか、と思って山岳救助にのめり込んでいった感じです。
−井川というのは、南アルプス山脈の麓だそうですね。
長野、山梨、静岡にまたがる南アルプス山脈の南部の登山口の入り口がある、標高700メートルくらいのところです。そこから南アルプスが見えるわけではなかったので、南アルプスを意識したことはほとんどなかったですけどね。祖父や親が林業や農業の仕事をしていましたから、子どもの頃からよく手伝いで山に入っていて山には馴染みがありました。
−当時から山登りもしていたんですか。
いえ。僕にとって山に登る=仕事の手伝いに行く、でしたから、登山って何? という感覚でした。それが消防士になって1年経った頃、当時40歳くらいの先輩に誘われて、2泊3日で南アルプスを縦走したんですよ。結構厳しいことを言う先輩だったので、その人に負けたくない、自分の体力でどこまでやれるか知りたいと思って登っていたんですが、辿り着いた稜線から見えた景色の素晴らしさと、ずっと先まで続く長い尾根を歩き切れたことが自信になるのがおもしろいなあ、と。それがはじまりでした。その時に先輩が「お前、強いな。国体に18キロの荷物を背負って走る山岳競技があるぞ」と教えてくれたんですよ。高校時代は帰宅部だったので、県を代表して競技に出場できるなんてすごいことだ、頑張ろう、という気持ちになったし、その練習で山に行っているうちに、もっと山を知りたいと思うようになりました。国体で全国から集まる競技者と知り合えることもすごく新鮮で、山岳競技にどんどんのめり込んでいったし、国体で知り合った仲間と集えるレースにも参加するようになっていったわけです。
−最初に出たレースは?
北丹沢山岳耐久レースです。21歳の時でした。当時はまだ、トレイルレースという言葉がなくて、山岳耐久レースと呼ばれていたんですよ。
−山岳競技や山岳耐久レースでも、最初から好成績を上げていたんですか。
上位に食い込むようになったのは2、3年してからです。体力的にも未熟だったので、最初はとても追いつけなかった。上位を狙いたいという気持ちはありましたから、とにかく練習したし、いろんなレースで速い人の後ろにつけて走り方を盗んだりしてました。
−どんな練習をしていたんですか。
とにかく山に行ってましたね。静岡市は周辺に山がたくさんありますから、それぞれの山の登り口を調べたり、複数の登り口がある山は、どこからが一番早く山頂に着くかを自分で試したり。最初は普通に登っていましたが、だんだん早足になっていって・・。下りは走って降りてきちゃいますけどね。仕事と競技がちょうどいい具合にマッチしていたんですよ。
−2年に1度開催されるTJAR(トランスジャパンアルプスレース)に2010年から出場し、現在4連覇中です。とても過酷なレースだそうですが、なぜ挑戦しようと?
トレイルランニングレースや山岳マラソンレースをある程度やってきて、もうワンステップ上を目指したいと思ったんです。初出場の時には、それまでのレースでいい成績を出していたので、絶対に負けるはずがないと思って臨んだんですが、三分の一くらいのところで一度潰れてしまいました(苦笑)。ペース配分が全然わかっていなくて、最初にスイスイ飛ばしすぎたせいで、足が腫れ上がって痛くて進めなくなってしまった。もうやめよう、と思って電話をした家族や仲間からの言葉や、途中から、一緒に進んでくれた2人の選手の優しさやアドバイスにすごく助けられました。レース後半、「じゃあ、ここからはそれぞれのペースで」ということになり、3人それぞれに駆け抜けた結果、僕が新記録で優勝したんですが、人間的にいろんなことを学ばせてもらったレースでした。山を趣味としていたからこその貴重なつながりだと思います。
−その経験がエンジンとなって挑戦を続けている、ということでしょうか。
そうですね。2回目は2連覇を期待する声もあったし、1回目に、途中、僕と一緒に進んでくれた2人に代わって新たに若手が入ってきたことで、絶対に若手に負けるわけにはいかない、というプレッシャーがあり、常に背後に迫られているような見えない恐怖に苛まれつつなんとかゴールしたレースでした。3回目は台風による危険を避けるために、大会本部と連絡を取り合って、本来、避難してはいけない山小屋に一度みんなが集結して台風をやり過ごしてからレースを続けるというアクシデントがありました。4回目は、僕のゴールする姿を見て元気や勇気をもらった、と声をかけてくれる人たちの思いに支えられて参加したレースだったという気がします。
−5連覇のかかった今年、参加はもう決めているんですか。
参加できるのは30人だけの狭き門なんですよ。前回優勝者は予選会を免除されますが、他の参加者は前回大会以降の2年間の実績を認められないと予選会にも参加できないですしね。日本でやれる最大のチャレンジだとは思っていますから出たい気持ちはあるんですが・・。いずれにしても、自然を通して自分がワクワク、ドキドキできる挑戦をこれからも続けていきたいし、見つけていきたいと思います。
−山の中を移動するレース。醍醐味は?
山の中にいると、動物の気配や鳴き声とか、ちょっとした気温の変化とか、天候が変わる前触れとか、自然の中での人間の無力さとか、いろんなことを感じられるし教えられる。それが醍醐味ですね。レースという名目ではあるけれど、速さや順位を競うより、自然を感じ、融合し、自然を味方につけながらゴールへ向かうことが大切だ、という気がすごくしています。そうやって自然を楽しんだ方が、いい結果も得られるというのが、僕の実感ですね。
−山の中で心が洗われてゴールするイメージが浮かんできました。
TJARの序盤はいつも、あんなこと思っちゃったとか、あの人にこんなこと言っちゃったとか、あれは僕がやればよかったなとか、懺悔するみたいな思いで走っています(苦笑)。ゴミを見つけると、これを拾わないことで天気が悪くなったら嫌だなとか。山頂に着くとそんなことは忘れて、あとは気持ちよく下りてきますけどね。
−ご実家のある井川から、富士山は見えましたか。
見えなかったです。ただ高台の富士見峠からは、宝永山が右側に、剣ヶ峰が真正面に、きれいに見えました。あれが富士山なんだ、と思って見てましたね。最初に五合目まで行ったのは小学校6年生の時です。登山者の人を見て、頂上まで登ってる人がいるんだ、すごいな、と思ったのを憶えています。高校時代は静岡の中心部に下宿していたので、富士山は当たり前のように見ていました。でも特別な感慨はなかったですよ。消防に入って、仕事や競技のためのトレーニングを始めてからは、数え切れないくらい五合目から登頂しています。
−一番きれいだと思う富士山は?
日本平から見る、雪が降っている時期のキリッと冷たい空気の中で青い空に浮かぶ富士山や星がちょっと残っている夜明け前の富士山が、僕は好きですね。TJARで縦断してくる南アルプスから見る富士山も、距離が近いし、遮るものがなくてきれいですよ。南アルプスからだと、ちょうど富士山をめがけて走ってくるような感じがありますね。回り込んでくるように宝永山が近づいてくるというか。レース中は富士山の見え方や雲のかかり方でその日の天気を予想したりもしています。仕事の上でも、静岡の東側に位置する富士山は場所を特定するいい目印になっています。富士山は僕たちの管轄ではないんですけどね。
−いろんな山に登られていますが、富士山にはどんな思いが?
やっぱり富士山は日本で一番の山だと思います。どの山にもそれぞれの良さや危険はありますが、富士山には一目置いています。その山が静岡県にあるというのは、誇りでもあります。よそから来た人が静岡で富士山を見て「こんなに大きく見えるんだ」と驚きますが、毎日見ている僕たちからしたら、それは当たり前の大きさなんですよね。だから、それを聞くと嬉しくなるし、「そうなんだよ、これが富士山なんだよ」と自慢したくなるし、剣ヶ峰と大沢崩れと宝永山を教えたくなります(笑)。
−最後に、安全な登山のためのアドバイスを教えてください。
体力に応じた登山計画を立てて余裕を持った行動をするとか、登山届けを出すとか、登山計画を家族や友人に残すとか、持ち物に気をつけるというのは当たり前のこととして・・。低い山から徐々にステップアップしながら山での経験を積んで山を楽しんでもらいたいですね。初心者に限らずベテランでも、山では誰でも事故を起こす可能性があることを忘れず登るというのが、安全登山につながると思います。雑誌やネットできれいな景色を見て行きたくなる気持ちはよくわかりますが、そこには自然の厳しさがあるということを、肝に銘じて山に来て欲しいですね。
1977年 静岡市井川(現静岡市葵区)出身 19歳で静岡市消防局に入局し、20歳から登山を始める。その後、国体の山岳競技やトレイルレースに数多く出場するようになり、徐々に頭角を表す。その後、24歳で山岳救助隊員に。2010年からTJAR (トランスジャパンアルプスレース)に参加。現在4連覇中。2017年には、静岡山岳会の古い記録をもとに全長235キロの静岡市境を5日で一周する“AROUND SHIZUOKA ZERO”を単独で行った。富士登山競走、富士登山駅伝、UTMFなど、富士山が絡むレースはもちろん、数多くのレースに出場している。また2015年の東京マラソンでは40ポンド(約18キロ)の荷物を背負ってのフルマラソンのギネス記録を更新した。