−選者を務められた『富士山百人一首』の制作経緯を教えてください。
2010年春から『静岡新聞』に1年、静岡県内で詠まれた有名な短歌を紹介するという全312回の連載のリサーチを通して、二宮尊徳や水戸黄門といった意外な人たちが富士山の歌を詠んでいることを知ったんですよ。富士山の歌といえば『万葉集』にある山部赤人の「田子の浦ゆうち出でて見れば真白にそ富士の高嶺に雪は降りける」が有名ですが、こんなに多彩な人が詠んでいるんだ、と。それで2009年の夏、まだ就任間もなかった川勝平太県知事に「『富士山百人一首』を作ってはどうでしょう?」と連絡をしたんです。静岡文化芸術大学の学長から知事になられたので、新しい知事の動きとしていいのではないかと思ったので。そしたら「じゃあ今年から」とすぐに動き出し、2011年2月に『富士山百人一首』を発行することができました。富士山で百人一首ができれば、百名山それぞれでも百人一首ができるでしょうし、それは多分、各地域の観光や教育、地域創生に使えるだろう、という思いもあって、とにかく富士山で四十七都道府県の先例を作ろうと、知事と話したのを覚えています。
−昔の人はなぜそれほど富士山を詠んだんでしょう?
現代と違って、ある時代までは富士山は一生に1度見られるかどうか。近くを通ったとしても、天気が悪かったら見られませんからね。だからみなさん、生で見た迫力や驚きを誰かに伝えずにいられなかったんでしょう。表記もそれぞれで、富士の他に“不二”や“不尽”がありますが、“福慈”という事例を見つけた時は驚きました。つい最近まで『サンデー毎日』の連載『歌鏡』で歴史上の人物の短歌を紹介していましたが、リサーチしていると『富士山百人一首』の時には見つけきれなかった、豊臣秀吉や伊達政宗や宮沢賢治などいろんな人の歌が出てきています。私一人では一生かかっても調べきれないと思うので、次は21世紀の文化庁の事業としてデータベース化できたらいいなあ、と。『神社新報』で歴代の天皇・皇后が詠んだ御製と御歌の連載も始まりましたが、明治天皇は9万首もの歌を詠んでいますし、天皇家が詠んだ富士山の歌もまとめられたらいいんですけどね。
−一般の方から募集した短歌で編んだ『富士山万葉集』はどういう経緯で?
『富士山百人一首』の反響が全国からあったことがきっかけです。2012年2月から2018年2月までで全20巻を出すことができました。大伴家持の『万葉集』と同じ20巻なので、一区切りです。毎年何千首と送られてくる歌を、私が一人で400首程度に絞り込んで選考委員会にかけていたので、トータルで何万首読みましたかね。当初、子どもの部の作品の約7割に“日本一”、“大きい”、“美しい”が入っていたので、途中からその3つをNGワードにして、もっと自分だけの感じ方で詠んでください、と伝えるようにしました。そうしたら小学校4年生の女の子から、富士山が雲でフラフープをしている、という短歌が送られてきたんです。長い短歌の歴史の中でも初めての表現だと、すごく嬉しかったですね。静岡県内、日本国内だけでなく世界中から応募がありましたが、富士山と改めて向かい合い、対話することで、それぞれの富士山像を見つけ出してもらえたのではないかと思います。
−短歌の味わい方のポイントを教えてください。
先日、講演に行ったある小学校の教室に教科書に出てくる歴史上の人物が貼ってあって、どの人も短歌を詠んでるな、と思ったんですよ。聖徳太子も戦国武将も幕末の志士も。昔の人は、とにかくよく歌を詠んでいます。私自身、短歌は先人が大事に詠み残した三十一文字のタイムカプセルだ、とある時期から思い始めました。そこから短歌の味わいが深くなった気がします。1000年経ても共感できるなとか、今とは全然違うなとか、肩肘張らずに楽しんでもらえたらなと思います。
−では作るコツは?
私はこの五七五七七の三十一文字の形は、フライパンのようなものだと思っているんですよ。同じ一つの具材でも、どんな調理法にするのか、他にどんな具材と合わせるのか、どんな味付けにするのかに作者の個性と感性が出てくる。自分が感じたことを自由に詠んでいいと思います。字余り字足らずもあまり気にする必要もないし。わずか三十一文字ですけど、料理の最終形は無限にあるなというのを、作れば作るほど実感しています。
−三十一文字だからこそ頭や口の中でずっと転がしながら考えられる。それも、作る楽しみの一つかもしれないですね。
リズムと調べがあるから、短歌は非常に音楽的だと思います。とくに長く語り継がれてきたものには不思議な音楽性みたいなものがあり、意味もわからないまま覚えてしまって、あとからその想いが腑に落ちる、というものも少なくないと思います。最近、私はよくお医者さんと講演などでコラボレーションしていますが、短歌には認知症予防の効果もあると言われているんですよ。
−認知症予防、ですか。
俳句や川柳にも言えることだと思いますけどね。実際、短歌の世界では90代の先生がたくさんいらっしゃるし、短歌を詠んでいた先人たちもみな、長生きした人が多い。ひらめきは右脳で、まとめる作業は左脳ですから、左右バランスよく脳を使うし、五感と感性をはたらかすのもいいんでしょうね。今、“短歌を世界遺産に”という動きが始まっています。厚生労働省は、2025年以降、日本の65歳以上の5人に1人が認知症及び認知症予備軍になるだろう、という数値を発表していますが、世界中のいろんな地域の方々が短歌を詠むことで、結果として認知症対策にもなったらすごくいいだろうな、と思います。
−子どもの頃から地元の用宗海岸からの富士山に親しんでこられたんですか。
はい。海沿いの用宗公園で大好きな野球をしながら、富士山までホームランを飛ばすにはどう打ったらいいかといつも考えていました。当時の私にとって、究極のバッティングセンターの的だったわけです。しばらく静岡を離れていたことで今、余計に富士山のある環境の素晴らしさを感じているのも確かですね。
−何がきっかけで戻ることに?
中学の時に引っ越してからずっと東京を拠点にしていましたが、10年くらい前に子どもが生まれて、子どもには富士山のある環境で、元気にのびのび暮らしてもらいたいと思ったのがきっかけです。小さい時から富士山を見ていたらその存在は自然と心に焼きつくでしょうし、すごく大きなものがいつも身近にいてくれるという居心地の良さ、でもとてもかなわない、という自然への畏怖を感じられると思ったので。『富士山万葉集』にも毎年、富士山を祖父母や父母のような、見守ってくれる存在に例える歌がたくさん送られてきましたが、富士山は静岡県民、山梨県民にとって究極の名誉県知事であり、日本人全体にとっても名誉首相や名誉総裁のようなものだと思いますね。
−富士山にまつわる思い出を教えてください。
富士山がユネスコの暫定リストに登録された2007年夏に「しずおか富士山シンポジウム」のコーディネーターをすることになり、静岡出身で富士山を語るからにはチャレンジしておくべきだろうと思って頂上まで登ったことです。ご来光や頂上から見た景色にはもちろん感動しましたけど、下山した後の筋肉痛がひどくて、数日後のシンポジウムでまっすぐ歩くのにとても苦労したのをよく覚えています(苦笑)。シンポジウムのリサーチも兼ねて、外国人を見かけては出身国を尋ねていたんですが、五合目を出発して五合目に戻るまでの1泊2日の間に23カ国もの人がいたのには驚きましたね。
−富士山の短歌を詠むようになったのはいつ頃からですか。
登り終わってからです。知ったかぶりをしちゃいけない気がしていたんですよ。3776メートルの基礎になっている部分を実感しながら登っていたこともあって、まずは麓の植物や岩から詠まなくてはいけないな、と思ったのは自分でも意外でした。あと、ちょっとずつ、一生かけて詠んでいくんだろうなとも思いましたね。大学時代、ライフワークとして世界のすべての国に降り立って短歌を詠む『地球版・奥の細道』を始めましたが、富士山は同じような意気込みと労力で詠んでいかないといけないと実感しています。
−富士山を詠んだ代表作品を教えてください。
まだまだ道は遠いので現時点で、ということでいうなら次の2首でしょうか。
「頂上(いただき)のみが富士には在らずどれほどの岩・草・木々が不尽(ふじ)を支える」
「両親(ふたおや)に手紙書くように綴りたし富士への詩歌(うた)に修飾語は要らず」
−ありがとうございます。
私は「晴れてよし曇りてもよし富士の山もとの姿は変わらざりけり」という山岡鉄舟の歌がすごく好きなんですよ。短歌の歴史が始まって以来、見えた富士に感動した歌がほとんどですが、山岡鉄舟は見えてない富士をあえて詠もうとした。実際、近くで暮らしていると見えないこともありますし、見えないけれどもそこにおわす、という確かな存在感と迫力をどう日常の中で詠んでいくかが一生の課題だと、最近思っています。あと静岡に暮らして実感するのは、あの3776メートルを隆起させている大地の力のすごさ。駿河湾は水深2500メートルと日本の海の中でもとくに深い。そこに地球の海と山との対話を感じるので、海底から山頂までの6276メートルの富士山の魅力も詠んでいきたいですね。
−一番好きな富士山は?
やはり用宗海岸からの富士山でしょうか。私にとっての原点でもあるし、地球の7割と言われる海の悠久の波音を聞きながら見る富士山に、46億年の地球の歴史を感じます。さらに天空を仰げばそこに138億年の歴史を持つ宇宙が広がっているわけですから・・。究極に贅沢な富士山の感じ方だと思います。2人の幼い子どもも、私にとっては小さな富士山ですけどね(笑)。
1970年 静岡市生まれ 父の転勤に伴い中学の途中で東京へ。慶應義塾大学1年生の時に第36回角川短歌賞を受賞し注目を集める。以後、多くの雑誌、TV、ラジオなどで幅広く活躍。BEGIN、東野純直、sarah、ミネハハ、遠藤久美子などの作詞も手がける。大学時代に始めた『地球版・奥の細道』作りのために世界を旅し、各国で詠んだ短歌が英訳されたこともあり、2001年には当時、世界で8人の国連WAFUNIF親善大使の1人にも選ばれ、国連環境計画「地球の森プロジェクト」推進委員長、ワールドユースピースサミット平和大使も務めた。現在、ふじのくに地球環境史ミュージアム客員教授、國學院大學兼任講師も務める。『神社新報』などに連載を持ち、この10月からは、朝日テレビカルチャー静岡校で「短歌の楽しみ方〜鑑賞と実作〜」を受け持っている。
田中章義氏公式サイト http://www.tanaka-akiyoshi.com/
撮影協力 学校法人水元学園 認定こども園 ひばり幼稚園 http://www.hibariyouchien.net/