−最初に柿田川について教えてください。
沼津市と三島市に挟まれた清水町の中央を北から南に流れる、川幅50〜100メートル、長さ1200メートルの一級河川です。富士山に降った雨や雪が地下に染み込み、直線距離で40キロ離れた国道一号線直下の、三島熔岩流の末端から湧き出て川になっている。行くとわかるけど、川底全体から水が湧き出てますよ。全部が富士山の伏流水。他にも湧水地はあるけど、1日の湧水量を見ると、忍野八海が10万トン、白糸の滝が15万トン、柿田川が120万トン。桁が違うでしょ。最大の湧水地。水質もすばらしくて、地域住民約35万人の飲料水源になっている。
−おいしいんでしょうね。
あとで柿田川に行って飲んでみるといいですよ、駐車場の脇に水飲み場があるから。甘くて、コクがある。ミネラルもたっぷり含んだその水が、毎日約90万トン、狩野川に合流して7キロ先の海に注いでいる。海の生態系にもいい影響を与えているから、駿河湾で獲れるシラスの量は他の産地より格段に多い。ウナギもアユも遡上してきますよ。
−透明度もかなり高いと聞いています。
確かに高い。とにかく、生物多様性のあるすばらしい川。私たちは、1928年に三島で発見されて絶滅し、その後柿田川で見つかった水草のミシマバイカモの保護もしているけど、私たちの調査では、環境省や静岡県が決めた絶滅危惧種の動植物が24種類確認されているし、都市部ではもう見られなくなった動植物や山奥の渓流に暮らす動植物が確認されている。四季を通して15度の水温が、実にたくさんの生物を育んでいるんだね。
−そういった柿田川の豊かな自然観察の会を、柿田川みどりのトラストでは開催されているそうですね。
他にも野鳥観察会やアユの産卵の観察会もやっています。それだけじゃなくて、流域の清掃活動をしたり、富士山麓の地下水涵養地でもある裾野市須山の浅木塚国有林に植樹をしたり、水質や水量の調査を年に複数回行ったり、柿田川の自然を守るために流域の土地の買い上げのための募金活動も行っている。岸辺の森や湿地のほとんどは民有地で、将来、開発の手が入ってしまう可能性があるから、清流と生態系を保護するためには、土地の買い上げが必要なんですよ。
−漆畑さんが柿田川の自然保護活動を始めたのは1975年。きっかけを教えてください。
私はもともと船に乗りたくてね。本当は商船大学に行きたかったんだけど、魚にも興味があったし、クラーク博士の“ボーイズ・ビー・アンビシャス”という言葉と北海道の雄大な自然に憧れて北海道大学の水産学部を受けた。卒業して航海士になってからは、仕事でアフリカやニュージーランドやオーストラリアを始めあちこちに行ったけど、いつも心の中には柿田川があったんですよ。いろんな川を見たけど、水のきれいさ、すばらしさで柿田川に勝る川はない、とね。私だけじゃなく、この辺の人はみんなそうだと思うけど、柿田川は“母なる川”なんですよ。“心のふるさと”。だから長い航海を終えて地元に帰って来るたびに、柿田川の水の流れを見に行っていた。そうすると、心がすっとするんだ。ところがある時、熱海市の飲料水不足を解消するための県営水道施設工事で柿田川の川岸の樹木がブルドーザーでなぎ倒され、川底がショベルカーで掘り起こされていた。怒りと悲しさと、なんとも言えない気分でしたよ。その後、陸上勤務になったのをきっかけに急いで小、中学校時代の同級生や近所の主婦たちに声をかけて、10名で「柿田川自然保護の会」を作ったんです。
−環境に対する意識は、今とは随分違っていたのではないですか。
川の保護運動をやっている人たちは他にいなかったし、当時の柿田川は工場排水でかなり汚染されていたから、「どうしてあんな川を守るんだ」とよく言われましたよ。「旧東海道の一里塚や富士川の合戦の時の頼朝と義経の“対面石”の保護なら理解できるけどね」と言う人もいた。奇異な目で見られたり嫌味を言われることもあった。それでもくじけずに、柿田川に生息する動植物の調査を行いながら、並行して柿田川の自然保護に関する陳情書、請願書、提言書をせっせと書いた。地元の自治体を中心に25件くらい書いたんじゃないかな。でも全然相手にされない。それで外堀から埋めていこう、と思うようになったんですね。
−外堀、というと?
柿田川の大切さを広く世論に訴えよう、と。そのために観察会や講演会を開いたり、機関誌を発行したりした。ちょうどその頃、朝日新聞が募集していた「21世紀に残したい日本の自然100選」にも「柿田川湧水群」で急遽応募した。あれに選ばれたのは大きかったですよ。翌1984年に朝日森林文化賞をいただいて、1985年には環境庁「名水百選」に選ばれた。そのたびに、メディアに取り上げられ、柿田川の映像が流れたことで、「こんな清流が残っているんだ」と柿田川への関心が高まっていきましたからね。でもその後、周辺の原生林を伐採して開発しようとする不動産業者が現れて、柿田川とその流域の自然を守るためには、自分たちで周辺の土地を買って守るしかない、という結論に達して、1988年3月にナショナル・トラスト運動を始めたわけです。
−募金は思うように集まったのでしょうか。
私もどれだけお金が集まるか予想できなかったし、そんなに楽観的に考えてはいなかったですよ。でもマスコミが大々的に報道してくれたことが呼び水になって、たくさんの寄付が集まった。日本各地から、そしてまたさまざまな年齢層の人から。生まれて初めてアルバイトしたお金の一部を送ってくれた学生さんもいたし、先生や親の仕事を手伝って半年かけて貯めたお金を送ってくれた盲学校の生徒さんもいた。「生後すぐに他界した子どもがこの世に生を受けた証に」と送ってくれたお母さんもいましたよ。そういった、募金に添えられた心の温まるメッセージや人々の思いが、活動を続けてる上で一つの大きな支えとなっています。これまでに集まった募金は、2016年末時点で約1億5千万円、官民合わせて9割の土地が保護地になりました。
−大変でしたね。
なんども挫折しそうになりましたけど、“初心を忘れず”ということを胸に刻んでここまで頑張ってきたわけですね。
−子どもの頃は、柿田川でどんなことをして遊んでいたんですか。
エビや小魚をすくったり、セリを摘んだり、泳いだり。秋になれば岸辺の林や原生林でアケビや栗を採ったり。一年中いい遊び場でしたよ。
−富士山はよくご覧になりますか。
毎日家から見ています。富士山は、我々にしてみれば“母なる山”。だから、この辺りの学校の校歌はどれも富士山を歌っている。それくらいみんな、富士山に畏敬の念を持っているんですよ。
−富士山に登られたことは?
富士山が世界自然遺産の選考に落ちたのは、たくさんの人が登ることで生じるし尿処理とかゴミの問題があったから。その問題が残っているから、まだ一度も富士山に登ってませんよ。自分が登ることで、ほんのちょっとでも水を汚したくないからね。
−筋は曲げられない、と。
それくらい徹底して己を律してないと、こういう運動はできないです。自分の言ってることには、しっかり責任を持たないと。
−一番きれいだと思う富士山を教えてください。
贔屓目じゃないけど、やっぱり静岡県側から見る富士山がきれいじゃないかな。山頂もきれいに見えるし、その前にある宝永山がシンボルみたいになってるのもいい。一番きれいなのは、三島の山中城跡公園から見る富士山じゃないかな。あそこから見た富士山はうんときれいだよ。
−富士山を見ながらどんなことを思うのでしょう。
母なる山だ、と。それ以外ないですよ。昔から、元日には日の出よりも富士山を見て、今年はこうしよう、と考えているしね。その富士山から来た水が柿田川になっている。その水が、その川がすばらしいから、守っているだけのこと。本当に守ろうと思ったら、自分たちで守るしかないからね。
−富士山が世界文化遺産になるにあたり、柿田川も構成資産として候補に上がっていました。
富士山が世界文化遺産に決まった時に、いろんなテレビ局が私のところに来ましたよ。世界遺産として富士山を紹介するなら水を入れなければ意味がない、その代表的なのは柿田川だから撮らせて欲しいって。全部のテレビ局に付き合うのは大変だったけど、あれはおもしろかった。ここの人たちも富士山と柿田川を一つのものとして大事にしてきた。私も、富士山世界文化遺産県民の会の世話人をやりましたけど、構成資産になってもならなくても、柿田川のすばらしさにまったくかわりはない。大事なのは柿田川を守り、後の世代に残していくこと。保護、保全のためにやるべきことはまだまだあるし、それは代々続けていかなくてはいけない。活動に終わりはないと思っています。『故郷』っていう歌があるでしょ。“山はあおき故郷 水は清き故郷”。柿田川はまさにその通りの場所。こんなところ、他にはなかなかないですよ。
1936年 静岡県清水町出身 北海道大学水産学部遠洋漁業学科卒業。その後、極洋捕鯨(株)(現(株)極洋)に入社し、冷凍母船の航海士に。1975年、「柿田川自然保護の会」を旗揚げ、88年には「柿田川みどりのトラスト委員会」(その後、「(財)柿田川みどりのトラスト」を経て現在の「公益財団法人 柿田川みどりのトラスト」に)を設立。以後、さまざまな自然保護に関する会の役員を歴任。2006年には富士山世界文化遺産県民の会の世話人代表にも。2017年3月、1981年に入社し、その後、創業者から引き継いで長年社長を務めたフロー工業(株)退社。「今は浪人」と笑う。毎日のように柿田川に足を運ぶ。柿田川みどりのトラストで販売している絵葉書の写真はすべて漆畑さんが撮影したもの。
柿田川みどりのトラストHP http://www4.tokai.or.jp/kakita.rv-trust/