―まず、お二人のご経歴を教えてください。
浩平 調理師学校を卒業してから、都内のレストランで約10年働きました。その後フランスに渡って北部にある二つ星レストラン「ラ・グルヌイエール」で修業し、帰国後は東京でシェフを経験。独立を決めてからnôtoriのオープンまで、フリーランスのシェフとして働きました。1年くらいの予定でしたがnôtoriのオープンが延びてしまい、結果的に3年ほど、イベントでの料理提供や商品開発など、レストランのシェフ以外の働き方を経験しました。
茂一郎 僕は大学を出て就職したあと、脱サラして料理の専門学校に入学。卒業後、料理人として自由が丘のレストランで働き出したのですが、シェフに「サービスをやらないとお客様の顔は見えない。いい料理も作れない」と言われて、サービスに転向したんです。そこで接客の面白さに気づき、ワインと出会って。その後は、北海道でウィンザーホテルのレストランに3年勤めてソムリエになり、ニュージーランドに渡って約10年。帰国後はマンダリンオリエンタル 東京での勤務のほか、複数のホテルやオーベルジュの開業にも携わりました。
―二人でレストランを開業しようと決めたきっかけは?
茂一郎 僕が9歳上なので、弟が物心ついた頃にはもう実家を出ていました。顔を合わせるのは冠婚葬祭くらいでしたので、数年に一度という感じ。だから、兄弟というより、年の離れた友人に近い感覚なんです。
浩平 僕がフランスに行く前、ニュージーランドに暮らしていた兄が現地で挙げた結婚式に出席して、久しぶりにゆっくり話したんです。「フランスから戻ったら、いつか山梨で店をやりたい」と言ったら、兄も「同じことを考えていた」と。僕たち兄弟は年齢差がありますし、役割が分かれていますから、張り合う必要がありません。料理や店づくりへの思いや方向性が同じなので、多くを言わなくても通じ合えることが多いです。
茂一郎 弟の料理を初めてちゃんと食べたのは、東京のレストランでした。その時、「すごく美味しいじゃん」と素直に思ったんです。僕の結婚式でお肉を焼いてくれていた姿も、すごく良くて。それ以来、もしレストランを経営するなら弟と一緒がいいと思っていました。歳が離れているからこそ、うまくやれているのかもしれません。
―店名にはどんな思いが込められていますか?
浩平 開業の2年ほど前からよく、どんな店名がいいか話していました。名を冠するのも外国語も候補にしておらず、いい日本語も浮かばずにいたんですが、ある時「農鳥っていいんじゃない?」とどちらともなく閃いて、スッと腑に落ちました。
茂一郎 農鳥とは、富士山の残雪が鳥の形に見える現象で、種まきの時期を知らせる言葉です。富士山の北麓でしか知られていない言葉です。nôtoriとアルファベット表記にすると外国の言葉のようにも見え、お客様は当店に来て初めてその意味を知るという仕掛けになっています。帰り際に山梨側から望む雄大な富士山を眺めた時に「農鳥が見えるのは山梨側から」と思い出してもらえたら、富士山の記憶がより鮮明になると思っています。
―料理のコンセプトや食材へのこだわりを教えてください。
浩平 コンセプトは「新しく懐かしい体験」です。食材は山梨県内のものをほぼ9割使っており、特に富士山北麓のものが多いです。春は山菜や筍、夏はフルーツや野菜、秋は天然きのこ、冬はジビエと保存食。食材が変わるごとに料理も少しずつ入れ替わっていって、完全に一新されるまで大体3ヶ月ほどかかります。僕たちは、地域の文化を料理に取り入れることも大切にしています。かつて富士山に登る人々は、御師(おし)と呼ばれる参拝者の宿泊や道案内を担う人々の家に立ち寄り、体を清めてから山に向かいました。その登山前のもてなし料理の中に、鯉料理があります。御師の家では、庭の池で育てた鯉を参拝者にふるまっていたんですね。nôtoriではそういった文化を受け継ぐ形で、鯉料理をコースの中に組み込んでいます。
茂一郎 弟が東京でシェフをしていた頃は、富士山のふもとを表現しようとして落ち葉や松ぼっくりをディスプレイしていたそうなんですが、ここに来てからはそういう演出がほとんど必要なくなったと言います。
浩平 窓の外には落葉樹の森が広がっていて、木々の合間にうっすらと富士山の稜線が見え、季節の移ろいと共に表情が変わる。料理の中にある自然のイメージと窓の外の風景が一致して、この場所にいれば過剰な装飾は必要ないんです。
―器にもこだわりがあると伺いました。
浩平 器の8割くらいが山梨に暮らす作家さんの手によるものです。この場所を整備する際に伐採したクルミの木で作ってもらった器や、樹海で枯れたナラの木を使った器もあります。この土地の素材が、料理を盛る器にもなっている。料理と器と場所が、全部つながっているイメージです。
茂一郎 周辺で採れる植物を使った、手作りのドリンクも用意しています。料理の世界観を弟が丁寧に作り上げているので、ドリンクはそこに寄り添う存在でいい。邪魔せず、でも料理の輪郭を少し引き立てられれば、という感覚で取り組んでいます。

―地域の料理人とのつながりも広がってきているそうですね。
浩平 この地域の食や文化を深掘りしていくには、僕ら二人の力だけでは限界があります。それで2025年、地元出身のシェフ・パティシエ・ソムリエたちと「HOKU-ROCKs(ホクロックス)」というチームを立ち上げました。2026年2月23日(富士山の日)には「Fuji-HokurokuChef's Table」というイベントを開催し、僕らを含め10店舗のシェフが集まって料理を提供しました。みんな、富士山北麓から一度離れて経験を積み、戻ってきて開業したという、僕らと同じような境遇の人たちです。
茂一郎 富士山北麓には、僕らがまだ知らない食材が眠っているはずなんです。例えば、周辺には5つもの湖があり、昔は漁協がそこから獲れる食材を扱っていたんですが、高齢化でどんどん担い手がいなくなっている。山中湖にはウナギがたくさんいるのに、獲る人がいないという話も聞きます。富士山北麓の食材や文化をもっと活かしたいと思っても、個人の店だと力が弱いですし、単独では動けないことも多いですが、地元シェフが集まった団体として声を上げることで、そういった食材を活かす仕組みを少しずつ作っていけたらと思っています。若い人が生業にしたいと思ってくれるようになれば、さらにいい。まだ始まったばかりですが、富士山の表面的な魅力だけでなく、その足元に眠っている食や文化を掘り起こしていきたいと思っています。
―食と文化への思いは、日々の料理にも直結しているんですね。
浩平 富士山があるからこそ富士五湖があって、樹海があって、この土地の恵みが育まれます。nôtoriは富士山北麓をフィーチャーしたレストランですから、この地域の食材や文化を料理に込めることが、結果的に富士山の魅力を伝えることにつながっていく。そういうイメージを抱きながら、日々向き合っています。
茂一郎 ただ、その文化が少しずつ失われているのが心配で。御師の家もその一つで、歴史ある建物が次々に姿を消して、跡地にコンビニができたりする。文化は一度なくなると取り戻すのが本当に難しいですよね。だからこそ今、料理を通じて、この地域の文化や歴史を伝えていかないといけないと思っています。僕らもまだ学んでいる最中ですが、料理や活動を通じて、少しでもこの地域に関心を持つ人が増えたら嬉しいですね。
―お二人にとって、富士山はどんな存在ですか?
浩平 子どもの頃は、ただ「当たり前にある山」でした。学校に行く時も遊んでいる時も、いつもそこにある。でも、この土地の外に出て長い時間を経て帰ってくると、こんなに大きくて綺麗な山だったんだと改めて感じました。富士山の文化や歴史も、大人になってから知ったことのほうが多く、学びながら伝えていければと考えています。
茂一郎 僕らの祖父は、富士吉田市の初代市長を務めていました。僕にとって祖父は、子どもの頃からとても大きな存在で。お墓参りをすると、墓所の奥に大きな富士山が見えて、なんだかじいちゃんみたいだなと思いながら眺めているんですよ。
浩平 生まれた時にはもう祖父は亡くなっていたので、僕にはその感覚はないんですが(笑)。兄のほうが、この土地への使命感みたいなものは強いように感じます。僕は、自分が楽しく料理できていること、これが一番です。ただ、その料理の根っこにあるのは間違いなく富士山であり、この土地ですから、富士山は自分の核のようなものだと思っています。
―富士山のふもとにあるこの場所で、お客様にどんな時間を過ごしてもらいたいですか?
浩平 記憶に残る時間を過ごしていただきたいですね。美味しかった、楽しかった、それだけで十分だと思っています。コースには「芽吹き」というスペシャリテがあります。山梨のジビエと野草を、この土地の土で焼いた器に盛った料理で、春の芽吹きと、新しいものが生まれるイメージを表現しています。そしてコースの最後に出す「やさいめし」は、母がよく作ってくれた料理がベース。新しいのに、どこか懐かしい。そういう感覚を、コースという一連の流れの中で感じていただけたら嬉しいですね。それがこの場所ならではの料理だと思っています。
茂一郎 来る道中に富士山を眺めて、食事をしながら「農鳥」という言葉を知って、帰り際に富士山を見上げ、農鳥が見られる春の時期なら鳥の形の残雪を探し、そうでない季節なら「どのあたりに見えるんだろう」と想像しながら帰ってもらえたら嬉しいですね。富士山をただ見に来るだけじゃない、食や文化を見つけに来るというもう一つの動機を、この場所から作っていけたらと思っています。


堀内茂一郎
nôtoriオーナーソムリエ。山梨県富士吉田市出身。大学卒業後に脱サラして料理の専門学校に入学。自由が丘のレストランでサービスの面白さとワインの奥深さに惹かれ、北海道洞爺湖「ミシェル・ブラス トーヤ ジャポン」でソムリエとして勤務。その後、ニュージーランドに渡り現地レストランで働く約10年の間に、サービス・ワインに関する数々の賞を受賞。帰国後、都内ホテルやオーベルジュでマネージングに携わり、現在に至る。
堀内浩平
nôtoriオーナーシェフ。山梨県富士吉田市出身。調理師学校卒業後、都内のレストランで約10年修業。30代で渡仏し、北部にある二つ星レストラン「ラ・グルヌイエール」で腕を磨く。帰国後、都内のレストランでシェフとして勤務していた間に、国内最大級の料理コンペティションRED U-35 2021にてグランプリ(RED EGG)を受賞。その後、故郷の富士山北麓に戻り、フリーランスでの活動を経て、現在に至る。